スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

結婚と家族の衣をまとった幸せの手札

 いつもと違って、のっけから今日は1本の隠れた傑作を紹介したいと思います。今日取り上げたい映画は、これ。フランスで起きたヌーヴェル・バーグの一連の監督たちの中で、唯一、そう唯一ですよ。女性の映画監督として作品を発表し続けたアニエス・ヴェルダの「幸福」です。
幸福 幸福
ジャン・クロード・ドルオー (2005/03/25)
アイ・ヴィー・シー

この商品の詳細を見る


私にとっては、ずっしり重い記憶を脳裏に残した大事な映画なんです。でもね、映画自体はまったく重くも、深刻でも、難しくもない。ここにあるのは、全編を通して淡々と映し出されていく、幸福な幸福な家庭の風景。フランスの郊外の小さな愛らしいマイホームに、ルノアールの絵画のような田園の風景と、美しい音楽。どこもかしこもが、私たちが子どもの頃から抱いてきた「幸福な家庭」のイメージで満たされています。
小坂明子の「あなた」という歌をご存知でしょうか。この映画にあるのは、あの歌で歌われたそのものの風景なんです。郊外の小さな愛らしい家。かわいいキッチンに、つつましい寝室。窓辺にはやさしくレースのカーテンが揺れ、愛らしい子どもたちが父の帰りを待つ横で、妻は決してラクではない暮らしを支えるために、得意の洋裁を生業としています。彼女の腕は確かなようです。「ぜひあなたに縫って欲しいの」とウェディングドレスを遠くから依頼に来る親子がいることからも、彼女が信頼されていることがわかります。大切なそのドレスを、彼女は小さな仕事部屋のつましいミシンで、カタカタと縫います。カタカタ、カタカタ。カーテンがゆらゆら。子どもの笑い声、キッチンでコトコトシチューが煮える音。

 そこに、キキーッとブレーキ音がして、自転車で夫が帰ってきます。夫の仕事は大工。近所の叔父の工房で、家具や建具を作るのを手伝っています。つつましい労働者の、幸福な、幸福な生活。「愛してるよ、君は本当に美しいね」と妻の腰に手を回し、夜は小さなベッドで愛撫しながら眠りにつき、休日は子どもたちをつれてピクニックに行って、青空の下に質素な食事を広げて食べる。映像が見事です。ルノアールの絵画そのものの、光と陰影。淡いまどろみに満ちた色の洪水。笑顔と愛情あふれた、「幸福」という名の家族がここにあります。
 どうですか? この光景、文字で表現しただけでも、目に見えるようでしょう? 素敵よね、。うっとり。

 そうなんです。これが、「幸福」のかたちなんです。私たちの頭の中にインプットされた、「幸福」という名の映像。「しあわせ」という名の大いなる幻想。私たち女の子は、誰もがこんな幸福の映像の実現を、心のどこかでずっと持ち続けているのではないでしょうか。
この映画の主人公の夫婦は、そんな幸福を具現する手札をたくさん持っていました。ところが、常に幸福でいたい夫は、ある日別の幸福の手札をみつけてしまいます。それは、若くて美しい愛人という手札。仕事先の町でであった、妻とは正反対の性格のこの女性を、夫はいとも簡単に愛人にします。そして彼は言うのです。「ああ、僕は本当に幸福だ」。
 妻との生活、愛人との逢瀬の両方の幸福の手札を、両方欲しい! と無邪気に喜ぶ夫に、女たちは答えようと努力します。こんな事態に陥っても、映像として映し出されるのは、すべて、すべて幸福な場面なのです。

幸福の仮面をかぶった現実は、しかしそう簡単に持続することはできません。物語後半、事態は一気に進展します。「愛人がいてもいいわ。私は幸福よ」といつもと変わらぬ笑顔を見せていた妻が、死んでしまう。この「妻の死」というほんの数分だけが、この映画がドラマ性を帯びる一瞬です。
 さて。その数分の「妻の死」のあと。風景は一気にもとのトーンに戻ります。森のピクニック、愛し合う夫婦、かわいらしい子どもと、花とレースのカーテンが美しいあの小さな愛おしいマイホームの日々。ただ一つ違うのは、「妻」の場所に愛人だった女性がいることだけです。妻が入れ替わっても淡々と続く同じ「幸福」の風景がそこにあります。そんな幸福な風景を、彼は満足げに眺め渡します。幸福に満ち満ちた彼の表情。物語は、そこで終わります。

 ぽかん、と見終わってしまう人もいるかもしれません。もしそうだったとしたら、あなたは心底お気楽な人です。笑。「幸福」とは何なのか。ここまでシニカルな冷静な目で切り込みながら、全編を通して美しく穏やかな映像で満たされた映画を、私は他には知りません。

 誰もが幸福になりたい。その思いに変わりはありません。では、幸福になるためには何をしたらいんだろう? 幸福はどんな形をしている? 実はそんなもの、誰もわかりゃしないわけです、ほんとはね。だって、幸福というのは「感じる」もので、それはその人の心の中の問題なのだもの。何を手に入れたから幸福、なんて公式はどこにもない。大切なのは幸福を感じることのできる心の目を持つこと。私はこういう目を持っている人のことを、「しあわせぢからのある人」と呼んでいます。しあわせぢからがある人は、どんな境遇にいても、どんな暮らしをしていても、日々の中にしあわせを感じて生きることができる。それは、その人が住んでいる家、着ている服、ついている仕事や、結婚したパートナーとはさほど関係がないものです。

「結婚」と「家族」という衣装をまとった「幸福」の形を確認するために、人は何らかの手札を必要とするのではないでしょうか。家族であるために、幸福な夫婦でいることで安心するために、人はそれぞれ自分が思い描く「家族の幸せ」の形を集めては、その絵の中に納まっている自分を確認して安心する。
だから、休日のディズニーランドには人があふれ、海浜公園ではさしてうまくもないバーベキューの肉をほおばる家族が絶えない。違う?

だから、私にはこの「幸福」という映画のはらむ、強烈にシニカルな、そして考えようによっては身震いするほど恐ろしい「幸福」の形が、しみじみ心に染み渡ります。この映画を一言いえば、そうだなあ。「美しく、幸福で可憐な毒りんご」。最後のシーンを見ているうちに、私は心の底から「苦笑い」がこみあげてきました。こんな苦笑いをしたのは、久しぶりです。おかしくておかしくって、皮肉で皮肉で、そして妙に爽快。恐るべし、アニエス・ヴェルダ。

同じように、「幸福の手札」を集めつつ、「家族」という因果な幻想を追い求める滑稽さ、哀しさを描いた映画に「空中庭園」があります。
空中庭園 通常版 空中庭園 通常版
小泉今日子 (2006/05/26)
ポニーキャニオン

この商品の詳細を見る


こちらは、小説のほうが断然シニカルです。そして、母と娘という因果で深い関係に切り込んでいるのも、小説。
空中庭園 空中庭園
角田 光代 (2005/07/08)
文藝春秋

この商品の詳細を見る

映画は男性の監督が作ったことで、もうちょっとシンプルでわかりやすいものとなりました。それでも、「家族」の形をした幸せとは何なんだろう? と考えるには十分見ごたえのある映画だと思います。できれば小説を読んで欲しいけれど、でも、小泉今日子と大楠道代の親子は、なかなか興味深いと私は思います。

 さて、では私は、余計な手札集めにあくせくすることなく、でこぼこの自分の今日の暮らしの中で、せっせとしあわせぢからを磨くこととしましょうか。
 

スポンサーサイト

ソウルフードと家庭回帰への違和感

ソウルフード かもめ食堂

 いま、日本が大変なことになっちゃってる、と武蔵野婦人は思っています。何が大変って? そりゃ、すでに存在もしていないはずの「家庭」を幻想として消費しようとする人々が増大しはじめ、一億総幻想として「家庭教」を普及させようとするお偉いさんの思惑に簡単に乗っちゃったかあちゃん、とうちゃんたちが、こぞって「家庭ごっこ」を始めちゃっているからなのでありますわ。書店の書架をごらん遊ばせ。ビジネス書コーナーに「子どもの学力を伸ばすための休日の過ごし方」をとうちゃんに指南する雑誌が並び、頭の言い子を作るための毎日の献立だの、子どもを格差の下流にしないための指南書だの。気持ち悪―い本がいっぱい売れているのでございますことよ。


 しかも、こうした家庭はどうやら「上流」と「下流」に仕分けされて、格差もつけられているらしい。「家庭力」に敏感な人たちは、どうもみな自分たちを「上流」、もしくは限りなく上流に抵触する中流と考えているらしく、勝手に想定した「下流」にならないための秘策をあれこれ、みんなで顔つき合わせて考えている。このあたりの指南書と見ると、どうやら下流というのは「収入が少ない」「知的レベルが低い」「社会的地位がない」ということになるらしく、下流の子どもというのは「成績が悪い」「素行が悪い」ということになるらしい。で、おしなべて語られる「格差社会が教育格差を生む」ということになると、つまりは膨大にかかる教育費を負担できない低所得家庭は、子どもに十分な教育機会を与えられないために子どもは下流に落ち、そこから這い上がることはできない。。。。という、いとも恐ろしいアルマゲドンが語られているわけですの。

 私の周囲では、この論理にのっとって「公立中学、公立高校にしか行かれない子は格差の下流である」という、わけのわからんことを言い出す人もおる始末で。こうした、恐怖をあおる形でのプロパガンダに加担する書籍、雑誌情報などは、もうやめていただきたい。これね、結局は社会格差の原因を「家庭」に帰結させるという権力側の巧みな作戦に乗ってしまうことになるわけで。さらにいえば、子どもの教育問題、健康問題、体型の変化や情緒の変化、マナーの欠如や学力低下を、すべて「家庭」の責任にして逃げ切ろうとするおっさんたちのもくろみに他ならない、と武蔵野婦人は思っておりますのよ。

 こんな卑怯なプロパガンダに乗ってはいけません。おかあちゃんたちは胸を張って、「下流がどうした、いいかげんな子育てで何が悪い!」「こどもの学力向上、体力と体型の向上は国がきちんと責任を取れ!」と開き直れ。そのくらいでもう、ちょうどいいんじゃよ、今の時代は、と。切に、切に思うこのごろなのであります。(このあたりについては、現在発売中のAERAにて「格差の上流にいる人が、人間として尊敬できるかどうかというのはまったく別の問題でしょ?」ってなコメントを武蔵野婦人は寄せておりますので、よかった見てくださいまし)。


 と、ひとしきり吼えてみましたが>笑。今回取り上げたいのは、こうした「家庭力」回帰という卑怯なプロパガンダの横行の中で、繰り返し唱えられている「ごはんをきちんと作りましょう、おかあさん」というメッセージへの反論であります。

 朝食をきちんととりましょう、というのは政府主体で行われている「食育」の基本方針で繰り返されている定番のメッセージ。さらに、ここに百ます計算で有名な陰山英夫さんの主張である「朝ごはんは、お米を食べよう」とか「早寝早起き」で規則的な生活を、なんていう文言が重なり、プラスアルファで「成績のいい子は食生活もきちんとしている」となり、もっとびっくりなのは「成績のいい子の母親は料理が好き」(格差が遺伝する! ~子どもの下流化を防ぐには~ (新書) 三浦 展 (著))というとこまで敷衍して、いまや、おかあちゃんはごはんをきちんと作ることに必死こいている日々です。頭のいい子に育てて、上流をキープさせてやるために、ごはん力が求められているということですね。

 で、ここで繰り返し語られるのが、「日本人は、やはり日本食が一番」であって、日本のソウルフードである、米、野菜、魚を中心とした食事をきちんと規則正しく食べさせてやることが、子どもの暮らしを支えるということになるわけです。現在は、ここに巷のナチュラル・ロハスブームが重なって、玄米菜食だの、自然農法で作った減農野菜だの、マクロビオティックだのにはまって、夢見がちなまなざしでオーガニックフードの料理を作る人たちも出てきました。そうですね。やっぱり、「おかあちゃんの作る料理」は一番で、そのルーツは日本のソウルフードに帰結する。お袋の味万歳、ソウルフード万歳。

 うん、ま。いいんです。それはそれで。私だっておいしいものは大好き。そして「ソウルフード」という魅力的な言葉も好き。うまいもんは、うまいんだもん。それでいいじゃんね。からだが欲するものを食べ、作りたいものを楽しく作り、元気にうまいうまいと食べて暮らせたら一番。これは、別に子どもを上流にしたいからとか、食育をしなくてはいけないとか、そんなものとは関係のない場所で、自分がそうしたいから、そうしているわけで。そこに「ソウルフード」が存在するなら、それはそれでいいんです。


 問題は、そんな「ソウルフード」を必要以上に美化して、主に「家庭」に存在する女性に、「ソウルフード」の製作と維持を期待してしまう精神構造にあるのだ、と私は思うのです。時代が変わって、世界も変わって、食も変わらざるを得ない場所に来ているのに、必要以上の懐古をしてはいけない。女性が台所を守って、ソウルフードを守ってきた背景に、どれだけの血と汗と涙が潜んでいるのか。このあたりを無視して、壇上にいる人たちが美化してはいけません、と。そう思ったきっかけになったのが、この映画でした。

ソウル・フード ソウル・フード
ヴァネッサ・ウィリアムス (2005/04/28)
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン

この商品の詳細を見る


 これはアフリカ系のアメリカ黒人家族の絆を描いた映画。3人姉妹のいる祖母マザー・ジョー(イルマ・P・ホール)は、手料理のソウルフードを作って日曜日のディナーを毎週催すことで、家族の絆を保ってきた、グレードマザー。奴隷の時代を記憶する彼女は、自分たちのルーツをしっかり見据えながら、「家族は団結しよう」とおいしいごはんを作り続けるわけです。 でも、そのマザー・ジョーが病気で倒れてから、家族にはさまざまな試練が訪れてばらばらに。失われた家族のきずなを取り戻すため、主人公の少年がとった行動とは?

 この映画を貫いているのは3つの柱です。黒人の平坦ではない被差別の長い歴史、家族のすばらしさ、ソウルフードという大きな存在。
家族大好き! な人が見れば、さわやかな感動に満ちた映画だと思います。とっても素直。とってもシンプル。 ただ、ではこの映画を持ってして「そうよ、家族はすばらしい。私たちも家族でつながろう、家族で乗り越えよう」と思えるかというと、武蔵野婦人としてはちょっと微妙。これは、長い差別の歴史の中で家族で団結せざるを得なかった時代に、女がひりひりと血を流しながら必死で生きた結果の「おばあちゃんのソウルフード」なわけで、それをそのまま今の日本で「家族ってすばらしい、おばあちゃんの料理ってすごい」と結びつけることは絶対に、絶対にできないのよ。

 料理っていうのはね、何の力も権利もない女が、唯一力をふるえる場所であったのだと思うのです。おばあちゃんのソウルフードは、ノスタルジィだけではなく、女の血と汗と涙が混じっている。特に、差別社会に生きたアメリカのアフリカ系黒人のおけるソウルフードのありかは、イメージだけで「家族ってすてき!」なんて私しゃ語れないよ。

 簡単に「昔ながらの家族礼賛」をしたがる人には、その幸福な家族の風景の後ろ側には、女のたくさんの涙があるんだよ、と言ってやりたい気にもなります。


 ちょっと前のことになりますが、心理学者で文化庁長官であった河合隼雄さんとお話をさせていただいたとき、こんなことをおっしゃっていました。「おっさんたちはね、みんな昔はよかったとか、古き日本にはよい家庭があったとか言うんだよ。そういう人たちは、そうして維持されているかのように見えた家庭の裏側で、どれだけ多くの女たちが血と涙を流していたのかを知らない。日本の古きよき家庭は、その裏で誰かしらの試練や我慢や大きな犠牲をもとに成り立っていた。そこを見ないで「昔はよかった」なんて今の時代に繰り返しても、なんの現実味もないの」。

 私の祖母も、ソウルフードの作り手でした。おばあちゃんのお正月料理には、すべての家族がひれ伏した。夫や姑の強い権力の下で、常に服従を強いられていた彼女が、唯一家族全員を有無も言わさずひれ伏すことができたのは、彼女の牙城、台所においてしかなかったのかもしれません。それが、女が現実を生き抜くための最大の武器だったのだ、と。

 そんな風に考えると、私は簡単に「おふくろの味が一番ですよ」だの、「日本人のソウルフードを守りましょう」なんて、いえない敬虔な気持ちになったりもするのです。

 安易な家族礼賛、安易な家庭回帰と家庭力への依存。幻想として維持されているイメージの中の「家庭」像には、見えない犠牲や血と汗と涙が隠れている。そこを誰も引き受けなくなっている現代で、安易に「家庭」幻想に固辞してしまったら、そのしわ寄せはいったいどこに行くのでしょうか。
 母親の首を切ってバッグにつめて歩いていた高校生。両親を殺してひとり温泉に滞在していた中学生。一件、何の問題もない「家庭」の形をとった場所で起きている「何か」。


 なんかいい雰囲気なんだよねー、なんてロハスな気分で「ソウルフードが一番うまい」というメッセージを受け取るたびに、なんとなく警戒心をいだいてしまう私は、やっぱりどこかひねくれているのかもしれません。こんな映画が流行るのも、なにやら複雑な気分なわけで。(雰囲気がおしゃれで素敵で、ロハスだよね~なんていう夢食いバクみたいな映像が、なんだか最近は多すぎる気がするんだわね)。

かもめ食堂 かもめ食堂
小林聡美 (2006/09/27)
バップ

この商品の詳細を見る


とりあえず、上流なんてならんでいい。下流なんてカテゴリー自体が、世の中にはないし、誰かにあんたは下流なんていわれる筋合いもない。結果を求めて日々の暮らしを送るのではなく、欠けていたって、足りなくたって、いとおしい自分自身と家族のありのままの姿で、日々楽しく暮らせればそれでいいじゃん、と私などは思うのであります。カップヌードルだってあたしにはソウルフードだもんねー、だ。



母と娘の呪縛

愛と追憶の日々ヤァヤァ・シスターズの聖なる秘密ホワイト・オランダーバイバイ、ママ

 母と娘の間には、時として大きな確執が生まれます。

 男性にはわかりにくいかもしれません。また、実際に女の子を育てている母親の側でも自覚されないことも多い。生育過程で何らかのトラブルがあったとか、性格や考えかたの違いにより、いさかいが絶えず相手をうらむような形で起こる親子間の確執もありますが、母と娘の確執の特徴は、「仲良し親子」「姉妹のような親子」として成立しながら、水面下で静かに壊れていく形を取ること。いやあ、これがね。怖いのよ。ほんとよ。

 こうした密着型母子関係が引き起こす多くの問題は、実は近年になるまであまり注目されていませんでした。フロイドやユングの時代が扱ってきたのは、封建的な家族間での支配や抑圧によって起こる精神疾患が中心だったわけですが、その後、家族はどんどん新しい形に変わっていきます。親子は平等になり、核家族化が進み、「家」の概念は希薄になる。これはヨーロッパもアメリカも日本も同じ。
 こうした変化の中で、それまでの心理学が扱ってこなかったような問題が親子間に芽生え始めることになる。とはいえ、現実に起きていることと、それを研究する学問との間にはタイムラグが生じますから、最初のころはみな「何がおきているのかようわからん」という空白の時期があるように私は思うのです。心理学の黄金期には扱いきれなかったような問題がどんどん起きているのに、相変わらず教授と学生は基礎から前時代の心理学をお勉強していたわけで、この間にフォーカスされなかったさまざまな問題が、1970年後半ぐらいからあれこれ話題に上るようになりました。

 この微妙な時期に作られたのではないかと思われるのが、この映画。
愛と追憶の日々 愛と追憶の日々
シャーリー・マクレーン (2006/11/02)
パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン

この商品の詳細を見る


1983年、アメリカ映画です。
 さて、この映画。機会があればぜひ見ていただきたいなあと思うのですが、同時に、この映画に寄せられる感想やレビューにも注目して欲しいのですわ。最近はアマゾンでも、TSUTAYAのオンラインレンタルDISCASでも、MIXIでも映画レビューを見ることができます。どうでしょう。誰もが賞賛の嵐です。「母の強い愛に感動した」「こんな親子に私もなりたい!」「涙が止まらない感動超大作」と。

 主役の個性的で支配力の強い母親にシャリー・マックレーン。娘役はデブラ・ウィンガー。以前紹介した「デブラ・ウィンガーを探して」は、この映画のあとに「愛と青春の旅立ち」に出演したのち、すっぱり引退して家庭に入ってしまったデブラを、ロザンナ・アークウェットが追った映画です。
 まだ若いデブラは、可憐で従順な娘役をうまくこなしているし、マックレーンは相変わらずの存在感。

 これはこの母と娘の関係を追ったこの映画。若いころに夫と別れて、女でひとつで娘を育て上げたシャーリーは、きまぐれで魅力的で意志の強い風変わりな女性として描かれています。母と娘は典型的な「仲良し親子」。結婚式を控えた娘はすべてを母親に報告し、ハネムーンのベッドから母に電話をかけ、日に何度となく連絡を取り合っては、お互いの日常を確認しあっていきます。やがて母には恋人ができます。ここはとても有名なシーン。母と娘はベッドに並んで、赤裸々にセックスの話をします。「セックスってサイコー!」と叫ぶ母に、驚きながらも大笑いする娘。当時、これは衝撃的なシーンでした。お互いのセックスまで話し合える母と娘。これまでなかったがゆえに、好意的に受け止められたのだと思いますが。さて。さて。


 多くのレビューや感想で、この親子関係は賞賛され、「こんな親子に私もなりたい」と思う人はたくさんいるようです。確かに、ほほえましい親子関係ではあるのです。でも、私が気になるのは、果たして作り手側はこうした意図でこの映画を撮ったのだろうか? ってこと。

 この映画、武蔵野婦人的に観れば典型的な「支配的な母親とそれに従う娘」のパターンで、それでいくとこの娘は正真正銘のAC(アダルトチルドレン)です。見方を変えると、「支配的な母親と従順な娘」のバランスが、娘の結婚(母親が気に入らない男性とあえて結婚することで家を出る=初めての大きな反抗をする)によって崩れていく映画。
 で、結局最後は娘は自分の人生をまっとうできず、結婚生活が破綻したあとに病で夭逝し、母親は恋人を得たあとに、娘の残した子供を得る。親子とも必死に生きて、双方の愛情もしっかり描かれています。でも実際にはグレートマザーが娘を食っちゃうという、とってもとっても怖い映画なのよ。(ま、そんな見方をしている私は、感動している人たちから観れば、なんとひねくれたやつだ! ってことになるんだろうが)。


 この映画が作られたのが1983年。アメリカあたりで現場のケースワーカーたちが、アルコール依存症やDVのある家庭で育った子供たちに現れる典型的な症例をACと呼び出したのが1970年代の初頭。このACがさまざまな形で社会現象となり、多くの本が出版されはじめたのが、1980年代初頭でした。
 その中でも、私が鮮烈に覚えているのがこの本です。
愛しすぎる女たち 愛しすぎる女たち
ロビン ノーウッド (2000/04)
中央公論新社

この商品の詳細を見る


 それまで、アルコール依存症などの機能不全の家庭にだけ起こると考えられていた問題を、「密着しすぎた母と娘の関係」のフォーカスしたという意味で、私にとっては大きな印象を残した本でした。つまり、一見仲良くみえる親子の関係の中にも、過剰な支配や密着によってさまざまな問題が発生しうる。支配する母親との間に共依存の関係ができると、娘は自分の人生を生きることができずに、うつ状態に陥ったり、自分自身の結婚をうまく維持できなくなることがある。

 さて、この本の日本の出版が1988年。アメリカでの初版本の出版年が定かでないのですが、さほどタイムラグはないようです。
 ね。微妙でしょ。AC概念の普及は1970年代後半だけど、これが母子関係に敷衍されはじめたのは80年代後半。この映画は1983年。むふふ。

 この映画、共依存の母子を確信犯で描いたんでしょうか。それとも、封建的な家族関係が変容しはじめた70年代のアメリカで、急速に増え始めた「ともだち親子」の存在を好ましく思って、作り手も純真無垢に母と娘の愛情物語のつもりで作ったんでしょうか。かなり、かなり興味のあるところです。
 この映画の監督はジェームス・L・ブルックス。ほかの作品には「恋愛小説家」「スパングリッシュ」。うーん。ねじれのないまっすぐな監督さん。ストレートな表現の奥底に潜む社会問題をあぶりだすような手法は、取らない人でござると思う。というわけで、あたしとしては、純真無垢に作ってみてそれにみんなが大感動した! ってシナリオに座布団1枚。
 つまりは、みんなが大感動するような「仲良し母と娘」の関係性は、当時は新鮮で素敵なものに映って映画にもなったけれど、そこには大きな問題も潜んでいた。その問題が、その後少しづつ見え始めてきた、ってことなのかもしれません。

 で。だとしたら、こうした中に潜む母と娘の共依存関係というのは、ほんとにほんとに怖いものだなあ、と思うわけです。だって、この作品にいまだに大感動している人たちがいっぱいいるわけです。見え方が違うと、ほほえましい美談と映ることもあるわけで、どちらかといえば精神的負担をかぶりがちな娘のほうは、そうした「母子の美談」の期待にこたえるために、またまたがんばらなくちゃならないわけですから。たぶん、いまも必死にがんばっている娘たちが、世の中には結構いるようにも思います。



 さて、この映画が作れらてから24年。密着型母子が生み出すさまざまな問題は、広く、大きく取り上げられるようになってきました。真っ向からこうした母親と娘の関係にフォーカスした映画も、多く撮られるようになってきました。
前作との対比で観ると面白いな、と思うのがこの作品です。
ヤァヤァ・シスターズの聖なる秘密 特別版 ヤァヤァ・シスターズの聖なる秘密 特別版
サンドラ・ブロック (2005/03/25)
ワーナー・ホーム・ビデオ

この商品の詳細を見る


 娘役にサンドラ・ブロック。前作、デブラ・ウィンガーに比べて、意思のある強い主人公で、社会的な地位もしっかり持っているのが、大きな違いです。このお話は、もとは児童文学としてアメリカでベストセラーになったもの。ま、結果的には母と娘の愛情物語なわけですが、ここではサンドラ・ブロックを、母親との関係の中で「うつ状態を恒常的に繰り返し」「自身の結婚に恐怖を感じてなかなか踏み切れない」女性として明確に描いています。
 彼女の抱える現実の問題が、母親との関係や出来事に起因していることを明確にした上で、母親の隠された過去をたどっていくことで、和解して新しい一歩を踏み出す。母親の生きた封建的な時代の病理や、児童虐待にも通じる彼女の言動、育児ノイローゼ・育児放棄など多くの要因を絡み合わせた展開はなかなか見ごたえがあります。が、結果的にはハッピーエンドなお話。この主人公の精神面の描き方は、明らかに前作の「愛と追憶の日々」から24年の隔たりを感じるものがあります。
 そして、何らかの「生きづらさ」を感じている女性がいるのなら、自身の生い立ちや親子関係にふたをせずに、しっかりそこに向き合って乗り越えることで、一歩が踏み出せることがあるよ、と。この映画が明るくハッピーエンドを迎えることでそんなメッセージを感じるのも、また好ましいなあ、とは思います。

 ま、ただね。武蔵野婦人的に言わせてもらえば、結局最終的には「娘が母親の生き方を受け入れる」解決なんですわ。猛烈にマイペース、人の気持ちお構いなし、パワフルでわがままというこの強烈かあちゃんは、最後まで自身の道を貫き、自分がどんなに苦悩したかを娘に提示するだけです。娘が受けてきた仕打ちは、こうした母の生き様を提示されて帳消しになり、それを受け入れるのは、娘。
 結局、強烈な母と従う娘の関係は、最後までこうなのかもしれません。そして、両者痛みわけでハッピーエンドにつながる可能性はあまり高くない。親子の関係に気づいて娘が歩み寄って和解を求めても、逆に傷つくパターンもある。この映画で母と娘が和解できたのは、ひとえに母親の側の親友たち=ヤァヤァ・シスターズという第三者の介入があったからです。そんな視点でこの映画を見てみるのもおもしろいかもしれません。
 結局は、一番賢明な選択肢は、へその緒を切って距離感を置く練習をすることしかないように思います。それだけ、母と娘の確執は根深く、母の力は偉大で美しい反面、強力な破壊力も持っているということです。自分が母となったいま、こりゃもう深く心に刻んで、日々精進ですな。


 最後に、こうした「美談にもなりうる」部分をまったく併せ持たない、破壊力のみにフォーカスした怖い母の映画も紹介しておきましょうー。

ホワイト・オランダー / ミッシェル・ファイファー

バイバイ、ママ / キラ・セジウィック

 ACとか共依存などという生やさしいものではありません。変質的執着を子供に対して持ってしまった母親の話。怖くて、痛いです。でも、果たして自分の中にこうした要素がゼロかというと。うーん。どこかで「わからなくもない」と答える細胞が眠っているようで、母親としての自身に身震いすることもある武蔵野婦人ですわ。

 前作2本を見て心から感動し、上記2本を見て、何がなんだかよくわかんないけど、そんなおかあさんも世の中にはいるの? こわすぎー! なんて思えた人は、とてもとても恵まれた親子関係の中に育った人です。自身の環境に深く深く感謝して、自分の子どもをおかあちゃんパワーの犠牲者にしないように、十分距離感を持って育てて行きましょう!
 

 

女優という生き方

イタリア旅行魂のジュリエッタ

 前回、「ファミリーダンス」を描いた映画をもう1本紹介します、と書いたまま2週間経過。こどもの卒業も終え、桜も花開き、春がやってきちゃいました。笑

 今回は、夫婦の間に起こる「ファミリーダンス」(注)。しかもその夫婦役にはイングリッド・バーグマンとジョージ・サンダース。監督は当時のバーグマンの夫であったロベルト・ロッセリーニという興味深い配役の映画です。
注:ファミリーダンス(最後には消耗してしまうだけなのに、お互いが積み重ねた習慣でつい始まってしまうコミュニケーションエラーのこと>武蔵野婦人勝手に命名。夫婦間の不全感の中で自己確認をしたいとか、問題の本質がわかっているのにそこに近づきたくないなど、何らかの必然性があって起こるエラーなので、誘われるとつい差し出された手を取って踊りだしては、へとへとになるという因果なダンス)。

イタリア旅行 (トールケース) イタリア旅行 (トールケース)
イングリッド・バーグマン (2004/05/25)
アイ・ヴィー・シー

この商品の詳細を見る


結婚8年目を迎えたバーグマンとサンダース。
財力と地位と美貌を兼ね備えたこの夫婦が、叔父の遺産でもある別荘を売るためにナポリを訪れた数日間をつづったこの映画は、まばゆいばかりに美しいバーグマンが、スーツ姿の夫を助手席に乗せて、イタリアの田舎道を運転しているシーンから始まります。旅の途中の車の中という非日常の世界に配置された美しい男と女。洗練されたファッションから二人は都会の人間だということがひと目でわかります。この二人が、トスカーナの牧草地帯を羊や牛で道をさえぎられながら走り抜けていく。これからはじまる旅の予感をはらむロマンティックな風景。

 …のはずが、はじまって5分もたたないうちに、観客は不思議な不安感に包まれ始めます。何気ない日常会話のやりとりの中で、実はこの夫婦の仲は冷え切ってしまっていることがありありと伝わってくる。そう、これは関係がぎくしゃくして冷え切ってしまった中年夫婦のイタリアへの旅を淡々と描いた映画なんです。事件は起こりません。ハリウッド映画のように、エキセントリックな感情のぶつけ合いのシーンもありません。ただただ、リアルな夫婦の小さな、しかし絶望的なすれ違いの会話が延々と続く作品。まさに、ロッセリーニの真骨頂、ネオリアリズモを具現した映画。

ただ、舞台をナポリとポンペイの遺跡に置いたことで、観客は二人の観光旅行に巻きこまれる形で擬似旅行を楽しむというおまけがついてきます。美しいけれど、ベスビオス火山の噴火による大量の死者が眠るおどろおどろしさを内包したダイナミックなナポリとポンペイの風景がなければ、この映画はただ冷えた夫婦の微妙なすれ違いの会話だけの映画になってしまう。


前回紹介した「バージニアウルフなんて怖くない」は、壊れた夫婦の不毛ないさかいを、ただ延々と夫婦の自宅を中心とする世界で展開した映画でした。こちらは、敢えて舞台を二人の日常に据えたことで、完全に破綻した異常な関係性にフォーカスを当てることになったわけですが、今回の「イタリア旅行」では、夫婦の壊れ方の種類がちょっと違うのです。「バージニアウルフ」のように異常な壊れ方ではない。誰しもどこかで身に覚えがあるような、小さなやるせない、でも不毛なすれ違い。

誰にとってもリアルな、こんな小さな「すれ違い」という夫婦の日常にフォーカスさせるため、舞台は敢えて「旅行」という非日常に置く。聞くところによると、ロッセリーニは撮影の前日まで役者に台本を渡さず、その場に置かれた二人のアドリブを拾いながら、この映画を撮影したのだとか。ナポリとポンペイというパワーのある場所に放り出された二人の役者のつむぎだす、抑揚のない会話の中の妙なリアリズムは、こうした手法によるものかのかもしれません。


この映画のテーマは、こうした「非日常」の景色の中に置かれた「日常」。固定化した日常(冷え切った夫婦の関係)が、非日常(異質な土地への旅)の中できしみ、ひび割れ、どこかで修復や発見につながる。堅固な日常の中の固定化した習慣を打ち破るためには、ダイナミックな場の転換や非日常の体験が必要なんです、きっと。それだけ、無意識に繰り返されるファミリーダンスの習慣を抜け出すのは、たやすいことではないのだというのが、この映画を見た私の感想なのでした。



 さて、表題を「女優という生き方」にしたのにはわけがあります。主演のイングリッド・バーグマンは、私が大好きな女優の一人です。映画の中だけではなく、半生を通した波乱万丈な生き方が、なんともいえず魅力的。「カサブランカ」「誰がために鐘はなる」といったハリウッドの黄金期の最中、夫も子供もいた彼女は、イタリアのネオリアリズモの旗手であったロベルト・ロッセリーニの映画を見て衝撃を受け、いてもたってもいられずに彼の元に遁走します。世紀の不倫劇。家庭も名声も捨てて飛び込んだロッセリーニとの生活の中、ロッセリーニがバーグマンを主役に据えた映画が何本が撮られました。

 でもねえ。これはことごとく不発に終わったんですわ。イタリア時代のバーグマンは、映画史の中で評価されない作品ばかりが続くことになりました。重ねて、それまでネオリアリズモに燦然と輝く星であったロッセリーニも、精彩を失っていく。バーグマンは、ロッセリーニと世紀の恋をしたのかもしれません。
でも、彼女のバイオグラフィーをたどるたびに、私はそこにあったのは「女優としての飽くなき表現欲求と自己愛」だったようにも思えるんです。男に運命をゆだねて遁走する女の情の後ろにある、強い強い自我。

イタリア時代、彼女は強いバッシングを受けながらも、ロッセリーニとの間に2子をもうけて実直な家庭生活も営みました。でも、結局は二人の結婚は破綻し、バーグマンはハリウッドに戻ってきます。バーグマンにとってのイタリア時代は、大きな犠牲と愛情の入り混じった、大いなる自分探しの時代だったのではないかと私は勝手に思っています。だから、私は復帰後のバーグマンの映画も大好き。何か突き抜けてしまったような乾いた強さが、たまらなくいいなあと思うわけです。


 そんなバーグマンとロッセリーニの軌跡をたどりながら、この「イタリア旅行」を見ると、主人公二人のリアルなすれ違いのやりとりが、また違った精彩を帯びてきます。この映画は、まさにバーグマンとロッセリーニの結婚生活自体に、暗雲が立ち込めだした時期に撮られた映画なわけなんす。

 壊れた夫婦が、壊れた夫婦の映画を作る。その主人公に自分の妻を据えて、夫はカメラをまわします。この映画の中で、主人公の二人はイタリア旅行を通して、夫婦の崩壊と再生を経験するわけですが、これと同じプロセスを、まさに実生活の夫婦である監督と女優がたどっている姿が垣間見える。映画という非日常の場を借りて、夫婦という日常を再構築しようと思ったのかどうか、そんなところまでは僭越にわかりませんが、監督と女優という組み合わせの夫婦とは、なんと因果なものじゃよ、としみじみ思います。
これはロッセリーニの映画史の中では評価の低い映画でしたが、私はとても丁寧に作られたいい映画だと思います。R40の視点から見ると、人生のエッセンスがいっぱいつまっとる。単調だけれど、人生を積み重ねてきた年齢層にとっては、奥が深いのです。



 それでいくと、同様に夫婦の再構築を映画でたどろうとした監督と女優がいます。

魂のジュリエッタ 魂のジュリエッタ
ジュリエッタ・マシーナ (2005/04/27)
アイ・ヴィー・シー

この商品の詳細を見る


 世紀の天才、フェデリコ・フェリーニ。妻は、「道」などの作品で独特の存在感をかもし出していた彼の妻、ジュリエッタ・マシーナです。こちらは、結婚15周年目の夜のちょっとした出来事をきっかけに、夫への疑惑や不信感で現実と幻想の世界の区別がつかなくなってしまった主人公の感情の波を、フェリーに独自のシュールな大道芸的イメージの洪水のような映像で撮った作品。フェリーニ最初のカラー作品でもあり、彼の美的センスの集大成ともいえるこの賢覧豪華な映画は、私のベストコレクションのひとつでもあります。

 この映画が撮影された時期、フェリーとジュリエッタ・マシーナの結婚生活も大きな行き詰まりを見せていました。主人公は妻の名前そのままの「ジュリエッタ」。そんな視点で見ると、彼女の逡巡とフェリーニ夫妻の逡巡がオーバーラップして、絢爛豪華なファンタジーに見えたこの映画は、また違った見え方をしてきます。


 映画はフィクションであり、ファンタジー。架空の非日常を楽しみたいとDVDを手にするわけなんですが、その映画を作る側の男と女には、映画とは別の日常がある。映画という非日常の中に、作り手の生身の日常が垣間見えるのも、私にとっては映画の醍醐味だったりもします。その意味で、娯楽超大作のプロジェクトの中で個人が見えづらくなるハリウッド映画よりも、個人主義に徹したヨーロッパの小品に惹かれたりもするのです。


映画「イタリア旅行」の夫婦は、旅という非日常の中で一度夫婦を崩壊させたのち、再生しました。「魂のジュリエッタ」では、非日常なイメージの洪水と幻想の中で、妻は崩壊しようとする夫婦関係のバランスを取ろうとします。誰しも、日常を淡々と続けながらファミリーダンスの円環から抜け出すのはきっと困難で、日常に潜む非日常の助けを借りて、再生か離別の道をたどることになる。そのどちらの道に進むのかは、日常を抜け出したその先にある世界に身を投じてみない限りわからず、どちらに転ぶかは、大きなリスクを抱えることになります。誰だってリスクは怖いし、見えない未来は恐ろしい。恐ろしい決断につながる非日常に突然直面することを避けるためにも、淡々と日常のダンスを踊り続けて思考を停止する。多くの不毛なコミュニケーションエラーを続ける夫婦や親子がファミリーダンスからなかなか抜け出せないゆえんは、こんなところにあるような気もします。

 ところで。この二つの映画の中の夫婦は非日常を体験して再生したけれども、実際の監督と女優は、映画という「非日常」の場を借りたのちに「別れる」道を選びます。ロッセリーニとバーグマンは、「イタリア旅行」を撮影したのち、正式に離婚しました。また、フェリーニとジュリエッタも、「魂のジュリエッタ」の撮影後、破局します。人間の機微を表現することに長けた監督と女優も、実際の夫婦の日常を積み重ねる中で「ファミリーダンス」を踊っていたのかもしれません。この2本の映画は、そんな生身の人間の葛藤が背後になければ成立しえなかったと思えるぐらい、リアルな日常の描写がそこここにあふれています。

監督と女優という二人の組み合わせは、実生活の葛藤を映画の場で整理して昇華してしまったのかもしれません。独断と偏見の見方をすれば、ファミリーダンスの根源をきちんと見据える作業をした先は、映画では再生というハッピーエンドが用意されているとしても、現実世界では「別離」につながる可能性のほうが高い、とも言える。

実はね、みんなそんなことには心の奥底で気づいているんです。ハタから見たら「なぜ別れないのだろう」と思えるような不毛なダンスを踊り続ける二人は、本当はお互いを必要としている。だから、やがてダンスをやめても生きていける準備が整うまでは、ファミリーダンスの舞踏会は続くわけです。

 監督と女優の関係については、また語りたい別の映画があるので、また今度(いつだよ)。

ファミリーダンス

海辺のレストランバージニア・ウルフなんかこわくない

夫婦や家族は、多くの人にとって大きなテーマであり、映画でも繰り返し取り上げられてきました。ハリウッド的ヒット作品をたどっていけば、家族のすばらしさや夫婦の絆を描く作品が多いわけなんどすが、はて。夫婦や家族というのはさほど単純なものではありません。


 私が大好きな映画のひとつである

「海辺のレストラン」
(DVDが発売されていないので、とても残念)

では、幼いころに家族を亡くした天涯孤独の男性と、妻と子供を捨てて一人放浪の旅の途中にいる男性の2人が主人公です。この寄る辺ない二人が、「海辺に捨てられた老婆」を拾うところから始まるこのストーリー。

物語の中盤、この二人がこんな意味の会話をします。
「僕は生まれたときから家族がいない。家族が欲しい。人は家族が必要だし、家族はすばらしいもんだ」そう言う天涯孤独な男に、もう一人は言います。確かに家族はすばらしいさ。そうだよ、毎週水曜日には集まってグラタンを食べなくちゃいけない。何があっても帰ってきてグラタンを食べるんだ。え? どうだ、すばらしいだろ? お前にわかるか、その辛さが! 

この男は、そんな家庭を捨てて一人で旅に出ることを選びました。旅の途中、新しい家族を作るというチャンスに出会います。再生のチャンスです。ここで二人の男がする決断は? 二人の男を対比させて、家庭礼賛だけに終わらせなかったところが、私がこの映画を愛する理由でもあるかもしれません。
 家族はすばらしい存在ではあるけれど、残酷な存在でもある。家族を礼賛するのは簡単です。でも、現実は家族や夫婦って、そんなすばらしいもんばかりじゃない。静かに壊れる家族や夫婦を描いた作品も多々あります。深いがゆえに、重い。たとえばこんなのはどうでしょう。

バージニア・ウルフなんかこわくない バージニア・ウルフなんかこわくない
エリザベス・テイラー (2006/02/03)
ワーナー・ホーム・ビデオ

この商品の詳細を見る



原作も舞台もある作品ですが、映画はなんといってもエリザベス・テーラーのなりふり構わぬ怪演ぶりが秀逸です。のっけからすごい迫力。物語は、ほぼこの中年夫婦の言い争いに近い会話のみで構成されていきます。

最初はただけんかしているだけ? と思うのです。でもね。何かが違う。健全なけんかではないのです。根っこが静かに壊れているのがわかってくる。救いようがない、不毛な不毛ないい争いが延々と、それだけの話。途中、深夜の若いカップルの訪問があり、この二人が、夫婦の言い争いに巻き込まれていき、そして最後には放り出されて、また夫婦の蜜月に戻ります。見ごたえのある映画です。

 こういう夫婦の不毛なやりとり。「わけわからん」と想像できない人もいるかもしれませんが、この手のことは多かれ少なかれ、家族の中で起っているのではないかな。言い争いという形を取らない、温和な会話の形を取ることもありますが、「いちど始まったら止まりようがない家族の暗黙の儀式」みたいなもんが、どこかに存在していませんかの。
 私は、この手のことを「ファミリーダンス」と呼んでいます。

 夫婦や家族というのは、自己(self)とは別の他者であるにもかかわらず、自分という境界線が広がった形で、他者自己として同一化されがちです。自分と外側の家族が、上手に融合している場合はいいんだけど、この外側の家族という存在があることで、self としての自己がうまく機能しないこともある。支配的な父や依存する母、軋轢のある兄弟関係などに囲まれると、単独としてちゃんと機能するはずの自己像が、家庭という日常の中であっちこっちにゆさぶられたり、わけわかんなくなったり、自分が正当に評価されなかったりすることもあって、鬱々とした感じを抱え込んじゃう人もいるわけです。相手がいるとなんかうまくいかない。なんかしあわせじゃない。私はこんなはずじゃない。もっと違う人生があるはず、とね。

 じゃあ、そんな場所から離れればいいじゃん。離婚すれば? 家を出れば? って思うんだけど、夫婦や家族はself の外側にぴったりくっついて同化しているから、「そこから離れてたった一人になった自分」は不安だし怖い。まっさらの self になったとき、自分が自分でいられるかどうかわからない。それは存在の危機でもあるから、なかなか抜け出すことはできないわけです。

こんなとき、人は何をするかというとself の置き場所を変えないまま「自分の不幸は相手のせいだ」と思うことで、日常をどうにか乗り越えようとする。自分という存在を守り、「こんなはずではない自分」を自己確認するために相手との衝突を日常的に生じさせる習慣ができてしまうわけですな。とっても不毛なんだけど、本人にとってはとても必要な儀式なので、やめるわけにいかない。こういう習慣が絶え間なく起きてしまう状態を、「ファミリーダンス」と私は呼んでいるというわけです。


家の中で、なんだか煮詰まった空気が流れる。すると「ねえねえ、踊ろうよ、ほら、いつものダンスを」とつい、相手を誘ってしまう。相手が必ず反応するだろうと思うようないやないつものコトバを使ってね。

この映画でもそうです。言わなきゃいいような余計なセリフを、延々と、延々と発し続ける。「ほらね、結局あなたはそうなのよ」「それで君は満足したわけなのかい? へー」。言われたほうは、「まただよ、もううんざりだよ」と思うのに、手を差し出されたらいつものくせで、立ち上がって踊りだしてしまう。

これ、余計なことを言い合う丁々発止のセリフのやりとりも面白いですが、言われたほうの表情がピクリと動くのが、また絶妙です。いやなら拒否すればいいだけのことなのに、「また来た!」とピクリと動く表情の背後には、生き生きと張り切りだすエネルギーのようなものが垣間見えて、夫婦のダンスが根深い宿命的なもんだということがよくわかってきます。ほんとに、エリザベス・テーラーとリチャード・バートンの組み合わせはすごい。舌を巻きます。

こうしたファミリーダンスは、踊りだしたらもうとまらないのが常。いつまでも、いつまでも、不毛なダンス。疲れ果ててへとへとになっているのに、「Shall we dance?」と手を差し出されたら、筋肉痛の足でも踊っちゃう。

この映画は、そんなダンスをずーーーーーと踊り続けてる二人のお話なのでした。思い当たり人がいたら、あなたも不毛なダンスを踊ってる可能性があるかも? 



このダンス、時としてハタを巻き込みます。夫婦の場合は子供を巻き込むことも多い。周りはあわててとめようとしたり、一緒にダンスを踊らされる羽目になるけれど、最後には二人の世界に戻っていってしまい、ハタは置き去りになるのが常。

もし、夫婦の間で不毛なファミリーダンスが日々踊られているなら、差し出された手を取らない勇気も必要です。難しければ、「誘ってきた」と思った時点で別の部屋に行くなり、外出して距離をとる。相手は、こちらが立ち上がって踊りだすことを無意識で期待していますから、拒否されると最初は??となる。??の次は反撃や攻撃に出ます。そこを耐えてダンスを断り続けることができれば、相手もつまらないから誘わなくなってくる。つまりは、不毛なファミリーダンスはけしかけるほうにも、受けるほうにも責任があるってことかもね。


さて、そんなファミリーダンスを描いたもいっこの映画を取り上げようと思ったのですが、長くなってしまったので、これはまた次回に。

FC2Ad

ネット通販

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。