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アラフォーの視線

若いときに見た映画を、改めて見直してその見え方の違いに驚くことがあります。
映画と自分との間に何が起こるかは、その時の自分の状況に大きく関係している。そう考えると、映画って作品として単体で語られるものではなく、見る側との無数のコラボレーションで成立しているのだなあ、と思います。

さて、私の映画人生は中学生のころ、3つ先の駅にあった名画座「スカラ座」にクラスメイトと通いつめる、というところからはじまりました。
その後、私が自宅に「ビデオデッキ」というものを持ち込んだのは、26歳の時。

自分の家で映画をビデオやDVDで、繰り返し、好きなときに、自分でタイトルを選んで観られるようになったのは、ここ20年ほど間のことなわけです。それまでは何を観るかは興行主のセレクトにゆだねられていたし、観る時間も選択肢もとても限られていて、劇場で見るのは高かった。
中学生から大学(ちなみに私は自校の映研と早稲田のシネ研に在籍していたわけですが、ここでも映画は劇場で見るのがデフォルトでした>ちなみに主演した自主映画もあるじぇ>ふぇふぇ)にかけて劇場で見た映画というのは、そんな環境の中にいて、映画が作られた時代と、自分の時間がリアルタイムで重なったあの時に「一度観たあの映画」としてずっとずっとインプットされていたわけです。

その後は、どんどん出てくる新しいタイトルを追いかけるのに夢中で、昔の映画を見直すことはあまりありませんでした。観たい映画、観なくちゃいけない映画がいっぱいあるわけで、昔見たものはどんどん後回しに。

さて、そんなあのときの自分が昔見た映画を見直す作業を、ここ数年続けています。おやじロックならぬ、おば映画ってわけで、まあ、これがまた懐かしくて楽しいのですが、「いやあ、なんでこの映画があんな風に見えていたんろう!!!」というオドロキも多数ある。若いってすごい。そして、若いってなんて未熟。

今回はそんな「アラフォーになったら見え方が180度変わっちゃいましたよ」という映画の特集>笑。

あまりにも有名なのは「卒業」のラストシーンでしょう。

卒業卒業
(1999/12/24)
アン・バンクロフト

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中学生の私には、ダスティン・ホフマンが教会で結婚式をあげているキャサリン・ロスを奪って逃げるシーンは、最高にドラマティックなハッピーエンドとしてしか見えていませんでした。帰り道に興奮気味に友だちと「いいないいなあ」と言いながら帰ったのを鮮明に覚えています。「おっぱいの先に房がついててぐるぐる回るところが、エッチだったねー」なんてね。

13歳の見える世界なんて、ま、そんなもんです。

そのまま大学生になって映画研究会なんてところに在籍したら、先輩が言うわけです。「卒業の最後のシーンの二人の表情にこめられた感情ほど、秀逸な表現はないよな」。
え? なになに? あれってハッピーエンドでしょ?
「ぬわーにを言ってるの、武蔵野君。顔洗って出直してきなさい!」
ひえー。

20代後半でビデオで見直したら難なくわかりました。興奮気味にバスに揺られながら笑っている二人の視線は、決して交わることなく、最後は真顔に。この数秒の真顔が映画のテーマのすべてを物語っているわけで。ま、そんなことがわかる中学生でなくてよかったとも思うわけなんだけどね(笑)。
この「卒業」をアラフォー視線で観るとまた違った見え方をします。視線は完全にミセス・ロビンソンに移行している自分を発見します。若い二人は、自分の子どもの近い未来。いらいらします。ったくもう近頃の若いもんは! なんて思ってます。何年前の映画だよ!

もう1本、中学生のころにまったくわからなかった名作がこれ。

追憶 コレクターズ・エディション追憶 コレクターズ・エディション
(2005/09/28)
バーブラ・ストライサンド

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最後に二人は再会できたじゃん! なんで、別々に歩いて行っちゃうの? 普通さ、これならハッピーエンドでしょ。理解不能。意味不明。
「なーんかさ、よくわからない映画だったねー」と不満たらたらだった帰り道。映画仲間の一人がこう言ったのです。
「私、わかるわ、二人の気持ちが痛いほど。切ないわ」。
しばらくしーんとした間がありました。えっと、当時彼女は14歳でしたが大学生の彼がいました。私たちの中では、なんだか特別に大人な存在だったのです。
触れてはいけない世界に遭遇したようで、そのまま映画の話題を避けて家に戻りました。

この「追憶」を再び見たのは30歳のころ。
自宅のビデオでラストシーンを見ながら、映画に感動すると同時に、私はひたすら14歳だった彼女に驚嘆していました。あのさ、なんでこんな世界を14歳で理解していたんじゃ? おぬし、やはり只者ではなかったなあ。(その後彼女はジャーナリストになって、今はイギリスにおります)。

この「追憶」は、その後私が繰り返し、繰り返し見続けている映画です。何度観ても、最後に号泣します。もちろん、カラオケでも歌いますわよ。
何もわからなかった中学生だった私。そんな自分も、その後30年以上生きていたら、映画1本見て語りつくせないぐらいの記憶や感情や思いが渦巻くように湧き出してくる。
年を重ねたことをネガティブに受け止めてしまうこともあるけれど
こんな映画を何度も観ると、「なつかしい」なんていうのとも違う、「いっぱい時間を重ねたなあ」ってしみじみ胸がいっぱいになる感じ。
人生ってさ、なんかいとおしいよね。

さて、若いころわからなかった世界に、今気づいて感動する映画があるのと同様、
逆に「なんで私はこんなものに感動してたんだよ!」と自分に驚く映画もあります。
最近の見直し映画の中での「愕然度」一位は、これでした。

いつも2人でいつも2人で
(2005/09/30)
オードリー・ヘプバーン

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大好きな女優ヘップバーン。その中でも、若いころ見て「かわいいなあ、いいなあ」と思ったはずのこの映画。

なんといっても、スタンリー・ドーネン 監督の手法が斬新だったのです。同じ道を、出会いから倦怠期を過ぎた夫婦がフラッシュバックする記憶を錯綜させながら行き来するロードムービー。オードリーの映画の中でもとても評価が高い作品であり、ヘンリー・マンシーニの甘い音楽と、ジバンシーの最先端のファッションも秀逸。
かわいいなあ、オードリー。そうか、夫婦ってこんなものかなあ。いいもんだなあ。

……とうっとり観てた20代の私って、いったい何だったのよっ!

ここから先は、まったくピンと来ない方もいると思います。これはたぶん、私個人が積み重ねてきた時間と経験と知識の中で、生まれてくる言いようのない感情なのです。だから、完全な映画と個人とのコラボレーションなのだと思って読んでください。

この映画は、愛し合って結婚したはずの夫婦が倦怠期を向かえ、離婚を意識しながら車でパーティの会場に向かうシーンから始まります。会話に見え隠れするトゲ。諦めに満ちた妻の表情と、夫の憤り。ああ、つらいね、こういうシーンは。(いや、すっかり身に覚えが。。。。)
でも、この二人が向かう道筋は、出会いからその後の二人の歴史をぎっしり内包しています。それを辿るうち、みずみずしかった思い出と愛情がよみがえって、最後はお互いが必要だと確認しあう。つまり、これはハッピーエンドの映画の「はず」なのです。

しかし。
今の私が観てみたら、どういうことでしょう。
箴言といわれているセリフのやりとりは、奥深い含蓄があるというよりも
まるごとモラルハラスメントにしか聞こえません。
何もかもが、とってもとっても不快。

最初はぜんぜんオードリーに関心なんてなかった彼、やせっぽちのオードリーにかなりひどい言葉を投げかけ続けます。オードリー、ちっとも大切にしてもらえていません。
「女はこうだからやだ。女の頭には結婚しかない」
「女は大きな家に住むとか子どもを持つとかそんなことばかり考えている」
新居は地下室、新婚旅行はおんぼろ車。完全に一時代前のマッチョな男性観そのものの発言が延々と続く。これをもってほほえましい光景と描写されているわけです。

忘れられない女がいるんだ、とオードリーに話し続けていた彼は
新婚旅行後にその女性の家族と一緒に、同じ車でオードリーに旅行をさせます。
つきあっていたころの思い出話を、上から目線の秘密めいたトーンで投げかけてくる彼女。
そんなやりきれない旅行は、彼女の家族の横暴さで途中で破綻するわけですが
けなげにそれでも耐えたオードリーに彼が投げかけるのはこんな言葉です。
「ずっと笑顔でいると約束しただろ! なぜ守れない」

は? 昔の女と一緒に旅行して、笑顔でいられるわけないじゃん。

その他繰り返されるこの夫の身勝手さは、すべてこのエクスキューズが存在しています。
「僕は忙しい」「仕事があるんだ」「僕は家族のためにがんばっている」
「十分な生活はさせている。そもそも、君もその生活に満足しているだろう?」

なにもかもがとっても不快。
こんな男がかっこいい時代もあったのです。
こんな男と暮らすことが、しあわせだと思われた時代もあったのれす。
(そして、今もこんな関係性の中で暮らしている女性はたくさんいるというのも現実なわけです)。

でもね、やっぱりこれはいけません。
夫は仕事もできてルックスもよく、とても男性的な魅力があるのです。
一方で、あちこちで忘れ物ばかりをしてしまい、そんなときにはオードリーがいないと何もできない。このギャップが女心を捉えるわけです。いるのよね、こういう人。
夫の「強い自我と支配する感情」は、だからどこかで強烈な愛情と混同されやすい。精神的に自立できていない女性は、こういう関係性にはまりがちです。

そんなバランスの悪い夫と妻の関係性を平等にするために起こるのが
オードリーの浮気です。
当時の世相で、妻の浮気は何ものをも覆すパワーがある。
なんかね、ちょっとずるいのです。このパワーゲームは。
だから今の私には、とても不快なのです。

この映画になんら不快感を感じず、夫婦ってこういうもんなのね、と思い
オードリーが素敵、二人の恋愛シーンも素敵! なんて思っていたのは
1960年代生まれのちょっと前の価値観の中で育った
まだ若くて自立できていない私でした。

この映画を見て共感する人は、実は今も結構たくさんいるのです。
でも私は共感はできない。
それだけ、最初にこの映画を観たときから今までの間に多くの体験をしてきたのだと思います。経験をつむことは、どこかで大きな痛みも伴うわけです。痛みを避けて、この映画のオードリーのような世界に生きることもきっとできたのかもしれないけれど、私はこの映画に今きっぱり「NO」といえる今の自分が、結構好きかもしれない、なんて思います。

映画って、自分探しのツールなのかもしれないですね。
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わたしの「しあわせ映画」ベスト3

長く長くお休みしていました。いまタイムスタンプを見たら、9月末から更新していません。そんな間にもご訪問いただいてくださった皆様、ありがとうございました。でもって、ごめんなさい。

この4ヶ月、映画を見るスピードが落ちました。子どもが生まれて、DVDを見る時間なんてほとんど取れなくなった10年ほど前。その後、一日に30分づつ3日かけて1本のDVDを見る…なんていう荒業を使いながら、それでもこつこつと見続けていた映画。子育てが一段落してからは、毎日午後10時が私のDVDタイムとなり、週に3,4本は映画を見るという習慣が定着していたのに、それがはじめて崩れました。

理由はなんだろうなあ、と考えていました。ま、人生照る日も曇る日もあって、映画を見たくないときに無理しても意味がない。このまま映画が希薄な人生になっても何の支障もないわけですが、どうやら夜のDVDタイムが辛くなったのは、「フランス語の勉強を始めた」ことに理由があるようだ、とこのところ思っています。

いや、夜に勉強しているわけじゃぜんぜんないんです。ただ、一日少しだけ会話のCDを聞いて、一日に少しだけ新しい単語を覚える。齢を重ねた脳みそは、これだけでオーバーフローするようです。夜に映像と言葉と音楽の刺激を、さらに脳みそに加えることを躊躇するようになりました。淡々と意味のないPCゲームに埋没して、寝る。それでバランスを取ってしまう日々。うーむ。
ま、そんなわけで少々滞り気味の映画ライフ。脳みそを少しづつリハビリしながら、また書けるときにぼちぼち書いていきたいと思います。だって、映画は私の大きなしあわせのエッセンスなんだもんー。



ということで、今回はそんな私が見たら絶対にしあわせ気分になれる「しあわせ映画」ベスト3を。

最初は、長い長い熱望の日々を経て、やっとやっと昨年2007年の12月にDVD化となったこちらの作品。ああ、うれしいなあ。ばんざい!!!!!

ガスパール~君と過ごした季節ガスパール~君と過ごした季節
(2007/12/07)
ミシェル・ルグラン、ジェラール・ダルモン 他

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ビデオのときのタイトルは「海辺のレストラン ガスパール&ロバンソン」。私の中では「海辺のレストラン」というイメージが強い映画です。監督は「ガッチョ・ディーロ」などで有名なトニー・ガトリフ。ジプシー、ロマ文化を描かせたら右に出るものはいないと思う、私の大好きな監督の一人です。

これは、それぞれに壊れた家族を背負う、2人の孤独な男と、一人の老婆の物語。家族のもろさ、残酷さをはらみながら、社会から落ちこぼれた3人が南仏の海辺の廃屋で繰り広げる、再生のお話です。なーんて書くと、なんだか重いテーマのように聞こえちゃうけど、この映画の中にあるのは、社会から落ちこぼれた繊細で少年のような中年男たちの無邪気な会話と、素朴でおいしそうな食べ物たちと、南仏の風。悲しくて、切なくて、そしてあったかい会話と、美しい色彩と、ミシェル・ルグランの音楽がえもいわれぬ世界をかもしだしています。


落ち込んだ日、ちょっと辛い日に、気持ちよく泣きたいと思って手に取る映画。おばあちゃんとガスパールが、浜辺で色とりどりの椅子にペンキを塗るシーンが、だーい好き!!!!

孤独の形、家族の形、愛の形。こんな風にさりげなくて、切なくて、でもきれいであったかい映画が私は好きなんだなあ、と思います。ちっぽけな自分でも、ここにいる意味がちゃんとある。がんばろうって思えてくる。トニー・ガトリフの、そんな「あったかくて切ない」世界は、さらさらきれいな涙を流させてくれるから、落ち込んだ日に何度も助けてもらっている映画のベスト1なんです。

ガトリフ監督ではこんな映画もオススメ。

ガッジョ・ディーロ
僕のスウィング
モンド ~海をみたことがなかった少年~


二本目は、前に「パリの映画」でもご紹介したこの1本。
C階段C階段
(2000/08/19)
ロバン・ルヌッチ、ジャン・シャルル・タケラ 他

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私の映画ライフの中心にあるのは、いつもこの映画かもしれません。舞台はパリのアパルトマン。そこに住むシニカルな美術評論家、ゲイの男の子、けんかばかりしているタイピストの彼女と脚本家の彼。独身主義者の中年男に、孤独な老女。そこに越してくる、子連れのシングルマザー。そんな人物群像劇なんだけど、私にとっての「映画」という存在の要素がこの1本にすべて詰まっているような気がします。

孤独と再生、ささやかな触れ合いと、愛の発見。確執と絶望。軽快で小気味のいい会話の応酬、恋のかけひき。すべてが、小さなアパルトマンのC階段のまわりで繰り広げられていきます。主人公は大衆絵画としてルノアールを見下して現代美術に価値を見出す評論家。でも、そんな彼がさまざまな体験を経た彼は、オランジュリー美術館にあるルノアールの「じょうろを持つ少女」の絵の前で号泣するシーンが、私は大好き。人生で一番大切なものはとてもシンプルなのに、それを手に入れるのはとても難しい。

大きな事件も起こりません、おおげさな展開もありません。それでも、この映画を見た2時間がいとおしく感じられる作品。ずっとずっと、私の中のベスト1の映画です。


最後はアメリカ映画。
フライド・グリーン・トマトフライド・グリーン・トマト
(2004/10/22)
メアリー・スチュアート・マスターソン、キャシー・ベイツ 他

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アメリカらしい、見たらとっても元気になる映画のひとつです。主人公は中年の専業主婦。なにもかもが倦怠と停滞。人生に疲れ始めた贅肉たっぷりのこの女性を、キャシー・ベイツが好演しています。舞台は1980年代のアメリカアラバマ。そんな平凡な、でも鬱屈した主婦が一人の老婆と病院で出会うところからお話は始まります。

この老婆が話す1930年代の昔話と、現代のアラバマのドラマが平行して展開していく中で、「女が生きていく」ことの過酷さ、悲しさ、そしてその先にある強さを描いたこの作品。軽妙に見えて、実はとても骨太で重いです。でも、その先にあるのは、大いなる解放と再生。老婆を演じるメアリー・スチュアートの演技も秀逸です。そして、その老婆の昔話の中に自分を取り戻していく、キャシー・ベイツ。夫の言うなりで、良妻賢母を演じながら日々に埋もれていた彼女が、「トゥワンダ!!!」と叫びながら車を暴走させるシーンが、ほんとのほんとに最高です。胸がすっとします。


このブログはR40限定ということで書き始めました。人生を重ねた大人の女だからわかる世界が、映画にもきっとある、と。

改めてしあわせ気分になれる映画を3本選んでみたら、そこに共通するのはすべて「再生」というテーマでした。さもない暮らしの中で、人は誰も孤独に陥ったり、行き詰ったり挫折したり、ぽっかり心に穴をあけて立ちすくむこともある。戦争や事件や大恋愛や大成功なんていう物語のような出来事は何も起こらない日々の中でも、一人ひとりの心の中には大きな大きなドラマがあるわけで。そんな暮らしの周辺を丁寧に描きながら、長い人生の紆余曲折の中にある「再生」を見せてくれる映画が、私はきっと好きなんだなあと思います。


生きてるって、捨てたもんじゃない。切ないことも、苦しいこともあるけれど、いまこの自分として暮らしてるって、たいしたもんだ。そんな希望がほっくりともるから、この3本の映画が私は大好きです。

アメリカという病

デブラ・ウィンガーを探して

デブラ・ウィンガーを探して デブラ・ウィンガーを探して
ロザンナ・アークエット (2005/07/06)
ポニーキャニオン

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 30代の後半。私は卑屈だった。

 あれほど望んで手に入れた、しあわせな結婚と子どもというしあわせのカード。でも、そのカードを手に入れた途端、私からは「充実した仕事」と「充実した恋愛とセックス」が失われた。
 保育園に間に合わないので残業せずに帰ります。すみません。日曜日は運動会なので休日出勤はできません、すみません。残った仕事はやってもらえますか、ごめんなさい。
 仕方がない、ほんのいっときなのだ。子どもは成長する。いずれまた、思う存分仕事できる日が来る。この時期、私はそう自分に言い聞かせて、頭を下げた。
 気がつけば30代なかば。女ざかりであるはずの私は、乳臭いあかんぼを抱えて紙おむつやトイレットペーパーの袋を提げて町をひょこひょこ歩き、下着や靴に気を使うことも忘れ、それでも自分の責任をまっとうするために必死にもがき、仕事も家庭も中途半端なところで世間から落ちこぼれていきそうな自分に、あきらめに似た倦怠感を感じていた。傍目から見たら、生き生きと仕事も子育ても楽しんでいるように見えたかもしれない。でも、毎日のときおりの一瞬。わたしはどうしようもなく痛かった。そんな時代。

 ある日、子どもが保育園で汚したよだれかけと、おねしょでしみを作ったシーツを風呂場で洗っていたとき、通りすがりに夫がこういった。「おまえ、太ったなあ。尻が垂れてるぞ。そう見ると、すっかりおばさんだな」。
 朝ベッドで目覚めて話しかけたら、「お前、口くさいよ」と顔をそむけられ、テレビに映った同年代のアイドルに向けて「年とってやつれたなあ。こうなっちゃおしまいだね」と夫が言ったとき、かろうじて自分が保っていた女としてのプライドが崩れた。
あたしゃもうだめなんだ。誰もあたしに欲情しない。町を歩いても、きっと私は「お母さん」や「おばさん」という記号になって朽ちていく。なんてかわいそうな女たち。
欲情され、セックスをして子どもをはらむ。それは自分が誰かに必要とされているという大いなる証だ。うれしい。ところが、では、と子孫を生んだとたんに会社でも家庭でも大切にされなくなって、あとはただの「おばさん」という記号になって手のひらを返したように邪魔者扱いなのかい。え? おかしくねえか。君が欲しい、君の能力が必要だってあれほど言ったじゃないか。見てくれよ、もっと。最後まで責任取れよ。夫も会社も。
どうなってんの? 何がおきてるんだ、私に? おばさんという記号にならないために、いったい私しゃ何をしたらいいのさ? 
なーんてことを考えていた、30代。ああ無常。

 さて。
この頃、私の周囲には二種類の女がいた。おばさんの記号を見事に身にまとい、自らを新しい存在にシフトできる女と、そこに最後まで抗いたい女と。記号化する人は、見られない自分を自己像として受け入れる。抗う女は、多かれすくなかれ、30代の私のように「今までと同じように自分を見てよ」と思い、老いを拒否して何かを得ようとする。
 私の母は、どちらかといえば後者に属する女だ。しわができたことに一喜一憂し、白髪を染め、流行のブランドを追いかけては若いファッションを着こなすことに精力を費やし、ジムに通ってからだを鍛えて、若いともだちをあちこちに作る。アンチエイジングを標榜し、老化を憎んだ。テレビで、ジョギングや水泳にはげみ、しわ伸ばしの手術をして真っ白い歯で笑いあうアメリカのリタイア組の夫婦たちを見て、「負けていられない」とさらに運動に精をだし、あげくにバランスボールから転落して肋骨の骨を折った。そんな人。
 

 「デブラ・ウィンガーを探して」を始めて見たとき、この映画の背景にあるアメリカという文化の中に、母のような女性たちを多く垣間見たような気になった、と言ったら、あまりにこの映画が撮られた趣旨とかけはなれてしまうだろうか。


 この映画は、リュック・ベンソン監督の往年の話題作「グラン・ブルー」で衆目を集めた女優、ロザンナ・アークエットが監督を務めたドキュメントフィルムだ。40代になり、母として女として改めて自分と向き合った女優ロザンナ・アークエットは、ある一人の女優のことを思い出す。彼女の名はデブラ・ウィンガー。「愛と青春の旅だち」でブレイクした彼女はある日忽然とスクリーンから姿を消して、いまは郊外の家に専業主婦として家族と暮らしている。あれほどの栄光を集めた女優がなぜ? ロザンナはそんな自分探しの旅の手段として、ハリウッドで子育てをしながら40代を迎えようとしている女優たちに片っ端からインタビューして歩くという方法をとる。
 これは、ロザンナ・アークエットによる、そんなハリウッド女優たちの生の声を集めたインタビューフィルムだ。

 当初、このフィルムは女性たちへの応援歌であるという受け止められ方をしていた。ガードの固いハリウッド女優たちも、同業者であるロザンナには素顔を見せる。ハンディカメラで撮った手振れのあるフィルムは、ほかでは絶対に聞けない本音を見せてもらえたと思わせるだけの、臨場感に満ちている。そんな女優たちの生の声を通して、華やかに見える女優たちも母親であり、仕事と家庭の両立に悩む同じ女性の一人なのだ、と勇気をもらう。そして、そんな彼女たちの生き方の中に、同じく恋愛や結婚や、仕事と家庭の両立に悩む自分へのヒントをもらう。
最後の締めは、探し続けたデブラ・ウィンガーとの再会だ。ハリウッドの栄光を捨てて家庭を選んだデブラ。変わらない美しさを保ったまま、彼女は女優の仕事に「未練はない」ときっぱり言い切って家庭に戻っていく。ここに重ねてトリを取るのはジェーン・フォンダ。女優たちのあこがれのまと、最終目標。家庭も仕事も手に入れたスーパーウーマンは、今、慈善事業と社会活動に人生を傾けている。さあ、あなたにとっての女の幸せはどこに? 

 …のはずなのに。なんなんだ、この寂寥感は。

 確かに、女優たちの生き様は興味深い。でも、彼女たちの会話からひたすら垣間見えるのは、ひたすら加齢への拒否感なのだ。「ハリウッドは若さが大切。30を超えたとたんに誰も見向きもしなくなるわ」「だからみんなしわ取り手術をするの。ハリウッドでは常識よ」「こんな世界にいると自分を見失いそうになるわ。でも家庭も子どもも大事。ときどきどうしたらいいかわからなくなる」「本当は年齢を重ねてしわが増えた自分だからこそできる役をやってみたい。でもそんな需要は、ここにはないの」。

 自由の国、男女平等の国アメリカ。でもそこに見え隠れしているのは、日本とさほど変わりない偏った女性観だ。欲情し、セックスをする対象からはずれたら役割を失う世界。そこで自分を見失わないために、努力して何かを得なくてはならない世界。
 シャロン・ストーンはアンチエイジングで映画界で独自の需要を開拓し、ダイアン・レインとジェーン・フォンダは、社会運動という形で自らの立ち居地を確保した。一方でデブラ・ウィンガーは、女優として社会に向き合うよりも家庭の中に役割を得ることを選ぶ。そこまでたどり着けずにいる年齢の女優たちは、その両端の間で揺れている。

 常に、何かを勝ち取らなくてはいけない場所で、老いに抗い、自分の役目を得ようと努力を続けなくてはいけない苦しさ。若さを失い、中年という自分と向き合う中で、周囲から仕事でもプライベートでも必要とされなくなってくる焦り。女優たちに生きるヒントや元気をもらうというよりも、私にはそんな痛さがひしひしと残る映画だった。もうさ、日本であたしたちがおかれている現実と、同じじゃないの。だって、あたしの母親が生きているのも、ずばりこの世界なんだもの。

 若い世代が見たら、まったく違う見え方をする映画なのだと思う。でも、R40の私にとっては、そんな痛い痛い映画になってしまった。何よりも、40を過ぎた女優たちの中で、ほんとにきれいだ、素敵だと思える人があまりに少ない。アンチエイジングの痕跡があまりにいたいたしく、ウーピー・ゴールドバーグとか一部の人を除いて、ほんとに素敵だと思える中年女性があまりに少ないじゃないか。おい、しっかりしろよ、ハリウッド。
 
 ところが。
そんな中で異彩を放つ女優がいた。
シャーロット・ランプリングと、エマニュエル・ベアールだ。
髪をセットし、カメラ目線で真っ白い歯で笑いかけるハリウッド女優と一線を画している。ぼさぼさの髪、そばかすだらけのすっぴん。何も飾らないのに、かもし出される女としての存在感と貫禄。

 女性が年齢を重ねても、恋愛と性の対象としてきちんと存在しつづけるヨーロッパ文化の中にいて、この存在感。そこにあるのは、「何かを勝ち取る」ことではなく、「何かを手放していく」ことによって、自然と得られる余裕と豊かさだ。エイジングに抗わない人の持つ、たおやかな魅力。

 42歳でイタリアとパリを旅して歩いたとき、東京で枯れ果てていた私の女という土壌が、町を歩くだけで豊かに潤ったことを思い出す。ああ、私、この場所でちゃんと女として見られている。君もちゃんと、恋愛とセックスの対象なのだというシグナルが、いい意味で自然と存在している場所。今の私そのままの姿で、きちんと女として存在できることの意味。町を歩いて元気になった。年齢を重ねて素敵だと思える女性になりたいと思ったし、そんな風に加齢した女性を、ちゃんと受け止めてもらえる場所にいたい、とも思った。



 おばさんに安住したくはないけれど、アンチエンジングを標榜して、加齢を否定しながら何かを得ることにばかりエネルギーを使いたくない私は、第三の道として「加齢を引き受けながら、いろんなものを手放していく先で得られる豊かさ」のある女性になりたい。そんな女性がちゃんと、女として認められて居場所のある世界にいたいなあ、と思う。
 少子化で子どもを産まない女性が増えているから、制度を整えてどんどん産んでもらおうと考える人たちがいる。でも、産んだあとに、社会人として、女性としてきちんと認められる場所がなければ、女たちは自分がかろうじて得てきた居場所を簡単には手放さない。少子化は、長い間日本の女たちを偏った目でみてきたことへの、しっぺ返しなんだ。

 「デブラ・ウィンガーを探して」に登場するハリウッド女優たちがかっこよく見えて、そこを目指そうと思っているうちは、日本の少子化は解消しないよ。日本はそろそろ、アメリカという病から自由にならないと、ほんとにヤバイんじゃないか。
 この映画を、元気と生きるヒントをもらえる1本と見ることもできる。でも、この映画のなかに潜むアメリカという病も、ぜひ感じてほしいなあと私は思うのでした。
  

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