スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

私の好きなエロス映画ベスト3

今日のテーマは「エロス」です。

私にとってのエロスな映画ベスト3。

私は昔からAVが苦手でした。いまでも苦手です。ちっともそんな気持ちになれません。男性視点から作られると、こうなるのか。これって女性としてはまったく望まないことばかりで、まったく気持ちよくないことばかりではないの。
ってか、これがセックスと刷り込まれた場合、ちっとも気持ちよくやさしい気持ちにもなれないまま、愛情とセックスを混同して行為に甘んじる女性が増えないの? 最後にはそんな風に腹がたって終わり。 ほんと、作ってる人たちって貧しいセックスしかしたことないのね。かわいそうに。なーんて思って溜飲を下げる。


とはいえ、女性と男性とでは決定的に構造が違います。エロスのありかも、とても違う。だから、映画でも「ああ、これは素敵」と思う場面は、たぶんとっても違うと思うのです。で、この手の本能を満足させてくれる映像は圧倒的に男性視点のものが多いので(いやらしいとか、Hだとかそういうスケベ心という意味ではなくて)人間にとって大切な「理性や言葉を超えて本能が呼応する瞬間」っていうのを映画の中にみつけると、だから私はすごくうれしくなるわけです。ああ、これが私だ。これが女としての私の根っこなんだ、と。

映画で、最初にそんなえもいわれぬ体験をしたのは、この作品でした。
ピアノ・レッスンピアノ・レッスン
(1998/01/21)
ホリー・ハンター、ハーヴェイ・カイテル 他

商品詳細を見る


はじめて見たとき、激しく揺すぶられました。主人公は、6歳の時に「話すのをやめた」女性エイダ。ホリー・ハンターが抑圧された彼女の内面を怪演しています。文明の届かないニュージーランドの未開の島に嫁いできたエイダ。彼女は娘を連れて、首も、手首もきっちりと黒い衣装をまとって何もない海岸に降り立ちます。
この時代、子連れで未開の地への輿入れ。冒頭からこの結婚が身売り同然の、愛のない契約であることが見てとれます。砂浜にぽつんと置かれたグランドピアノ一台の静謐な映像は、この映画でもっとも有名なワンシーン。なんともいえぬ、象徴的な映像です。


さて、このあとに続く映像に、当時30代の私はノックアウトされてしまいました。きっちりからだを包んだ黒いドレスで、彼女は嫁ぐ家までの道のりを歩いていきます。うっそうと茂る森林、霧のようにまといつく湿気と雨、そして足元は、ずぶずぶのぬかるみです。ドレスの裾が、あっという間に泥まみれになっていきます。ぬかるみを歩く音、汚れていくドレス。

ぬかるみはさらに深くなります。ここで、寸分の隙もなくまとっていたはずの黒いドレスから、突然彼女の白い足首と、ふくらはぎに続く木綿の白いレースの下着が画面を横切るようになる。ぬかるみは容赦なく、その足と白い下着を汚していきます。私にとって、この映像はもう、衝撃に近いインパクト。言葉を持たない彼女の無言の世界。あるのは、ぬかるみのずぶずぶという音と、熱帯の茂みの中の圧倒的な湿気、そしてマイケル・ナイマンの静かな力のある音楽だけ。理性を超えて、からだの奥底が反応するのがわかります。ああ、なんて上手。


ジェーン・カンピオン監督のまなざしは、女性にしか感知できない、こうしたえもいわれぬ感覚に満ちています。映画は、この未開の地での淡々とした日々を描きながら、主人公エイダが最後に言葉を取り戻すまでの過程を描いています。
彼女が、顔に刺青までしている現地の粗野な男、ハーベイ・カイテルになぜこころとからだを開いていくのか。このプロセスの描写は、男性には理解しずらい世界なのかも。特別Hで過激な描写は一切ありません。でも、私にとって彼女の繰り返されるピアノ・レッスンのシーンは、極上のエロスを味合わせてくれた特別なもので、これをもってして、自分がAVでなぜまったく気持ちよくなれないのかがよくわかった気がしました。


エロスって、行為そのものではなくて、そこはかとなく漂う空気感のようなもので、そこには液体や気体や固体が渾然と入り混じっている。頭でも、知性でも、からだでもなく、そんな空気感に触れるような部分に自分の感性が反応したとき、自分の中に眠る性の根っこのようなものが反応してエロスが生まれて、そこに愛する人がいれば、結果として本能とからだが融合して性行為という共同作業につながっていく。結果のひとつであって、それって目的じゃないんだよねー、と。

映画のラストでは、彼女が未開の地で必死で守り続けたグランドピアノが、ある結末を迎えることになります。最後に感じる感情はひとそれぞれですが、私にとっては大きなカタルシスが残った映画。言葉と文明と性と抑圧。そして海と密林と湿気とぬかるみ。ピアノレッスンに秘められた女性のエロスの視点は、私にとって忘れがたい体験でした。


さて、そんな私が女性のエロスには液体と気体と固体が入り混じっている、、、ということを、さらに実感したのがこの映画。
薬指の標本 SPECIAL EDITION薬指の標本 SPECIAL EDITION
(2007/03/23)
オルガ・キュリレンコ、マルク・バルベ 他

商品詳細を見る


小川洋子さんの同名小説を、フランスのベルトラン監督が映画化。この女性監督はエコールという作品も撮っています。こちらはかなりロリータ系の危うい性の世界ですが、女性ならではのエロスの視点が確固としてある監督で、彼女の作った「薬指の標本」の世界は、日本とフランスという人種を超えて原作の持つ世界をかなり忠実に再現しただけでなく、原作にはなかった強烈なエロスの世界を映像に持ち込みました。とてもよくできた美しい映画。この映画では、「靴」というエロスの道具が大きな役割を担っています。この靴の役割については、ここでもちょっと書きました。


加えて、ここには「失くした薬指の先」と「標本」というメタファーも隠されています。使われなくなった女子寮の地下の浴室で靴だけを履いたまま繰り広げられる、主人公と標本師の静かで過激な性行為。この抑圧された中に生まれる強烈なエロスの萌芽は、その後現実を生きられることなく「標本」という行き先にたどり着くことになります。若い女性にとっての心とからだが融合する前の性の形。うまいです。

加えて、映画にたゆたうこの強いエロス感は、多分にこの女性監督の感性によるものなのだと思います。エアコンが壊れた標本室で、常にからだじゅうにじっとり汗をかいては手のひらでぬぐう主人公の描写が、秀逸です。寂しい港町で借りたホテルの一室で風にたゆたう一枚のスリップ、試験管の中に眠るきのこ、たずねてきた少女の持つ傘からしたたりおちて、標本室に大きな水溜りを作る雨の質感。液体も、空気も固体もが渾然と入り混じった女性的なエロスのありかが、本当に上手に表現された映画。大好きです。


はて。でも女性のエロスって、こんな風に詩的なものばかりじゃありません。おおらかに、まっすぐはじけていく性の欲望ってのもあるわけで。私にとっての「映画の中で一番好きなセックスシーン」を演じたのは、この映画の中のジュリエット・ビノシュでした。

存在の耐えられない軽さ(1枚組)存在の耐えられない軽さ(1枚組)
(2007/12/07)
ダニエル・デイ・ルイス、ジュリエット・ビノシュ 他

商品詳細を見る


えっと、ジャケットにつられて、で、ジュリエット・ビノシュのセックスシーンが好きなんていう話題につられてHな映画だなんて思って見ると、痛い目に合いますので(笑)念のため。原作はあのミラン・クンデラ。舞台は激動の時代のチェコです。見られた方も多いはず。重く、長いです。

ジュリエット・ビノシュは大好きな女優さんの一人なのですが、この映画の彼女は秀逸。まっかなほっぺをして、白いソックスをはいて、ぶっといふくらはぎにごっつい肢体。およそ「エロス」とは程遠い存在感の彼女が主人公ダニエル・デイ・ルイスと繰り広げるのは、健康な性欲にまっすぐ突き進んでいく若くて明るいセックスシーンです。
もう、彼のことが大好きなんです。大好きだから、服なんて中学生の着替えシーンのようにあわてて脱ぎ捨てて彼に突進していく。抱きつき方だって、主人が帰ってきて飛びつく犬みたいです>笑。そんな彼女が、真っ白い大きなズロースで、白いソックスをはいたまま、大好き! と飛びついて元気なセックスをするシーンは、いつ見てもなんだか晴れ晴れとした気持ちになれます。


エロスとからだが、こんな風にきちんとまっすぐつながってるって、とても健康的だなあ、と。それでいくと、なんだかまっすぐつながらない女性たちのエロスを描いたのが、最初の2本だったわけで、まあそんな風にからだとまっすぐつながらないエロスってのも、文化としてはとってもおもしろくて魅力的。

でもさ、やっぱり誰だってまっすぐで健康的な性をちゃんと満喫したいわけなんですよね。でもね、その前提には信頼できるパートナーシップや心の交流と愛情がどうしても必要で、それは男性視点でAVなんかで語られるセックスという単体の行為とは、様子が違うように思うのです。単体でOKっていう女性もいるんだと思うけど、少なくとも私は単体ではNGです。


ま、この映画は後半でとてつもない重い現実に突入していくし、主人公のダニエル・デイ・ルイスはすっかり倒錯した性世界に埋没したりもします。映画としてのエロスというよりも、ジュリエット・ビノシュの存在感がとっても好きな映画です。


最後に男性視点の性への大きな危機感と憤りを感じた映画をひとつ。
SEX アナベル・チョンのことSEX アナベル・チョンのこと
(2001/08/03)
グレース・クェック、ジョン・ボーウィン 他

商品詳細を見る


シンガポール生まれのポルノ女優アナベル・チョンが、10時間で251人の男性とSEXしギネス記録を樹立した際の映像を中心としたドキュメント映画です。スケベ心で借りる人がいてもいいです。でも、この中身はどうしようもなく痛い、一人の少女の記録。
松田聖子が壊れたような風貌に、宇多田ヒカルのしゃべりかたを持つ、小柄で貧相な肢体のアナベルは、冒頭ひと目でかなり不安定な背景を抱え持った子だということがよくわかります。性的な抑圧がとても強いシンガポールで厳格に育ち、その後イギリスに渡ったところで地下鉄構内で6人に輪姦された彼女は、その後南カリフォルニア大学でウーマンリブの視点から「女性は自分の意思で自分のからだを売り物にすることができる」という大義名分のテーマを手に入れて、その研究過程の中でポルノ女優になっていきます。

自分の意思。その証明のために「10時間で300人とセックスする」という挑戦に挑んだ彼女。さて、果たしてその証明はどんな結果になったのでしょうか?


女性の性を売り物にする性産業。自分の意思、という出発点から彼女が始めたことは、結局そうした産業の中で食い物にされ、残ったのはぼろぼろに傷ついた彼女一人でした。自傷行為を繰りかえした後、彼女はポルノ業界から一切の身を引いていきます。ネットで検索して調べてみたところ、今はシンガポールでIT関係の仕事をしているそうです。過去は一切封印されたままで、自分がアナベルであったことさえ、一切触れないという今の彼女。


このドキュメントはこうしたアナベルの軌跡を淡々と描いています。だからいろいろな見方をする人もいると思うけど(単なるスケベ心で満足する人もいるでしょう。ただ、251人とセックスをしているアナベルのシーンを見て興奮する男性がいるとしたら、私は心底軽蔑しますけどね)、私にとっては心の奥底の大切な部分をずたずたにされるような経験をしたドキュメント映画。痛い、痛い映画です。

おおらかに性を語りたいなあと思います。
でも、いつの間には性はまっすぐではなく、ぐにゃぐにゃ曲がりくねって、迷路に迷い込んだような情報ばかりが子どもたちの手に届くようになりました。たぶん、このブログの文章にちりばめられた単語はネットで拾われて、いやなH系コメントがいっぱいつくのは必須という気もします。せっせと削除するしかありません。


身の回りのエロスを楽しみながら。愛情を根っこにした健康的なセックスができる。
そういう大人になってほしいと切に思います。

そういう健康的なコミュニケーションがちゃんとできるようになるためにも、女性の視点も大切にした健康的なエロスについて、もっともっと語れる場が増えて欲しいなあとも思います。ま、一時期に比べたら増えてもいるんだと思うけど、当の女性自身がまずは「自分を愛せる健康的なこころとからだ」を持っていないと、あかんのです。現代は、そういう意味で不健康な人間が増えているように思います。

ああ、また長くなっちゃったよ。ごめんなちゃい。

スポンサーサイト

不倫、男の視点、女の視点

危険な情事運命の女夫以外の選択肢スパングリッシュマディソン郡の橋愛の流刑地巴里の恋愛協奏曲

 最初にお断りしておきます。私は不倫容認派です。長い人生、いいじゃないの。夫や妻以外の異性にぐらりとくる時があっても。そもそも、中世ヨーロッパの文化はそんな土壌で培われてきたわけですし、世の中の多くの文芸作品は婚外恋愛から生まれている。否定するのは簡単だけど、否定してるだけじゃ何も語れないでしょ。きれいなところだけ見て生きることなんてできないもん。

 そういう私を、許せん! 女の敵だわ、と思う人はこれから先は読まないでちょうだい。おそらく最後までかみ合わないと思うので>笑


 世の中的には「不倫は悲劇の結末を迎える」ことになっています。多くの不倫劇は、相手を傷つけ、周りの人を巻き込み、最後にどろどろになって破綻していくシナリオが好まれていて、映画でもそんな不倫劇の名作が数々ありますね。「不倫は怖いよー。不倫しちゃだめよ。不倫はいけないことなのよ」という教育映画として金字塔を打ち立てたのはこの映画でしょう。

危険な情事 スペシャル・コレクターズ・エディション 危険な情事 スペシャル・コレクターズ・エディション
マイケル・ダグラス (2006/11/02)
パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン

この商品の詳細を見る



 さらにいえば、「オバカちゃんが不倫するとこうなっちゃうのよ」という典型的な映画がこれ。
運命の女 特別編 運命の女 特別編
リチャード・ギア (2006/08/18)
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン

この商品の詳細を見る

夫以外の選択肢 スペシャル・エディション 夫以外の選択肢 スペシャル・エディション
ナオミ・ワッツ (2006/05/26)
角川エンタテインメント

この商品の詳細を見る



 危険な情事は、妻子もちが「結婚を望んでしまう独身女」に手を出した悲劇。後者2本は、「傍目になんの不満もない結婚生活を送ってる人妻がよろめいちゃった話」。いずれも、結果は悲劇。「恋に落ちちゃった」とばかりに自己陶酔したあげく、自分のおケツを自分で拭けずに相手も回りも傷つけまくる善良な市民の映画です。特に「夫以外の選択肢」はつける薬がないバカ夫婦2組の映画。ただ単に、夫や妻を傷つけるために誰かと不倫する。その相手に、夫の親友、妻の親友を選んでスワッピング状態になりながら、自らの運命を嘆いて「かわいそうなあたし」って。顔洗って出直してきなさい。あほ。


 不倫するならそれなりの覚悟がいります。覚悟だけじゃない、裁量が必要です。私が考える、一番大切な浮気のルールは「自分たち以外の誰も傷つけないこと」。つまり、傷つくのは自分たちだけという覚悟を持つことです。周りの人や相手をさんざん傷つけたあげく、自分だけしあわせになろうと考えるような輩は、婚外恋愛なぞできません。傷つくのは自分だけ。それが、不倫っつーもんです。だから、夫が浮気したから自分もしちゃえとか、相手を傷つけるために不倫してみるとか、そういうのはもう論外の論外。


きちんと裁量できる人なら、最後に自分が傷ついた結果も、人生のスパイスとして受け止められるもんです。地に脚をつけて、自分ひとりの心に納めてまた生きていく。そういう力量がある人なら、一度きりの人生、恋愛せずになんとする。

不倫がまわりの人を傷つけ、どろどろに愛憎劇になっていく背景には、「不倫はいけないこと! という罪悪感に苦しみながら」、ちっとも自分を制御できずに「恋に落ちてしまった純粋で善良な市民のあたし」に酔いしれてしまうメンタリティがあるんじゃないのかね。そんな幻想はどこにもないのよ、と地に足をつけてる女は、もっと賢い選択をして、不倫を生きる力に変えることだってできるわけで。
 そんな映画としてよくできているわねえ、と思ったのが前回紹介したこの2つの映画なわけです。

スパングリッシュ スパングリッシュ
アダム・サンドラー (2006/06/07)
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント

この商品の詳細を見る

マディソン郡の橋 マディソン郡の橋
クリント・イーストウッド (2000/04/21)
ワーナー・ホーム・ビデオ

この商品の詳細を見る

(これはあまり好きな話じゃないけどね)


それでいくと、小説で、最近出された一番のアホ不倫小説とその映画はこれでしょう。

愛の流刑地〈上〉 愛の流刑地〈上〉
渡辺 淳一 (2006/05)
幻冬舎

この商品の詳細を見る


 こんなもんを愛だとかなんだとかいえてしまう神経は、ご本人が出した著書

鈍感力 鈍感力
渡辺 淳一 (2007/02)
集英社

この商品の詳細を見る


著者がそのままの感性だとしかいいようがありませんわ。ほんとに嘆かわしい。

 何が愛しているなら殺して、じゃい。相手も回りも傷つけまくりながら恋に落ちていくあたし、ぼくちんにロマンを感じるというのは、つける薬がないほど幼稚な自己愛でしかありません。そんなもんに萌える人が多いなら、日本はまことに幼児性自己愛の塊じゃないのさ。
 わかもんが騒ぐならまだ救いがあるが、大新聞の連載でおもろいおもろい、と読んだ立派な社会人がいるのなら、もう救いがいたい。そんな幼稚な自己愛でマスターベーションする輩に、不倫は無理よ。やめときなさい、ね、ね。


 それにしても。不倫したくって仕方ない男どもが作る不倫劇に、なぜ美しく楽しく不倫が成就した映画や小説が少ないのでしょうか。願望をそのまま形にしたものがあっていいんじゃないのかね。たとえば、小池真理子や瀬戸内寂聴の小説などには、不倫が悲劇であるにせよ、そこを乗り越えて違う人生を掴み取る女性の物語は数多くある。成就しない不倫が招く悲劇の結末を描く映画の作り手の多くが男であるという事実を、あたしはどう受け止めればいいのか、しばし途方に暮れることがあります。

 不倫の是非とか、婚外恋愛をどう考えるとか。善良な市民面下げてヒロイズムに浸る人がいたら、ぜひこの映画を見てください。

巴里の恋愛協奏曲 巴里の恋愛協奏曲
オドレイ・トトゥ (2005/05/06)
タキコーポレーション

この商品の詳細を見る



 夫がいるマダムに言い寄る人が当たり前のように多数。ヨーロッパの不倫文化の成熟度を垣間見る映画。おばちゃんに言いよるおじちゃんたちは、こんなセリフであしらわれていきます。「私には愛人(アマン)がいるのよ」。夫がいるのは当たり前。お断りの理由は夫ではななくアマンですわ。見事あっぱれ。

 そんな中で、いい男に見向きもされない小娘たるオドレィ・トゥトゥ(アメリの女の子)は、好きな男にこう諭されます。「二番目に好きな男と結婚して、一番好きな男と不倫しな」。

 大義名分で潔癖に道徳論をふりかざしすぎず、ニンゲンのあるがままの感情の、きれいな部分も裏がわの部分もちゃんと見る。傷つくのは自分だけ、と自分のオケツは自分で拭き、地に足をつけてたくましく生きる。あたしゃそう生きたいね。  

 不倫劇でじたばたの殺人や傷つけあいの映画を見るたびに、「ケセラセラ」といいたくなります。ニンゲン、適当力が必要です。ハリウッドの体のいい不倫是正教育映画を作る人には、ぜひこの手帳を使っていただきたい。誰か英訳してやって。

適当手帳 適当手帳
高田純次 (2006/11/11)
ソフトバンククリエイティブ

この商品の詳細を見る

純愛の正体

ロミオとジュリエットある愛の詩世界の中心で、愛をさけぶ マディソン郡の橋ブロークバック・マウンテン

 ロミオとジュリエットに始まり、ある愛の詩の系譜を経て、なにやら最近は地球上のどこに存在するのかさえわからん場所で愛を叫けぶ話に号泣する人続出で、純愛ものはいつの世も不動です。

ある愛の詩 ある愛の詩
アリ・マックグロー (2006/11/02)
パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン

この商品の詳細を見る
世界の中心で、愛をさけぶ スタンダード・エディション 世界の中心で、愛をさけぶ スタンダード・エディション
大沢たかお (2004/12/23)
東宝

この商品の詳細を見る


 この純愛もの。仕掛けは意外と単純です。純愛が純愛として完結するためには、恋という感情の発露がまだフタバぐらいの発芽のうちに、何かの外的要因によって中断される必要があって、その一番安易な切り札として「死」が存在する。芽吹いたばかりの愛情は、若葉のうちに摘み取られてこそ純愛なのであって、多くの純愛物語は、この古典的手法でいとも簡単に成り立って、そのくせ多くの人の支持を得るという、非常に費用対高価のいい働きをする分野なのであります。

 純愛は、期間が短いのも特徴です。ロミオとジュリエットは出会いからたった2日そこそこの間の話というのは有名だけれど、まあ、純愛と言われるものの多くは、せいぜい数ヶ月の恋の発芽を扱ったものが多く、愛をはぐくむ中で生まれてくるはずの嫉妬とか疑いとか、執着や裏切りという本葉がちらほら混じりはじめるまえに、強制終了ボタンを押して「美しいままとっておきましょう」と。
 純愛ってのはイコールHをしない! と受け取っている人もいるようですが、ガチンコにセックスをしたとしても、純愛は成立します。短くも美しく愛し合ったのちに引き裂かれた二人の記憶=純愛。心底愛した、激しく愛したと思えるのは、相手と正面から四つに組んで愛情をぶつけあったからというよりも、単に障害があったからこその産物なのですが、それをもって「真実の愛の物語」という公式が成立しているわけです。
 しかし。そんな、どちらかといえば「恋の幻想」である物語が今さら受ける時代って、なんかちょっと不安だわあ、わたし。みんな、ちゃんと愛し合ってるかい? 嫉妬とか執着なんていう愛情のダークサイドにも、ちゃんと向き合ってるかい? ってか、向き合いたくないから純愛が受けるんだろうけどね。



 さて、この純愛映画。圧倒的に若い世代がヒロインの純愛物にも、異色の例外があります。「マディソン郡の橋」。

マディソン郡の橋 マディソン郡の橋
クリント・イーストウッド (2006/10/06)
ワーナー・ホーム・ビデオ

この商品の詳細を見る


 小説の上梓の頃と、映画の封切り後は、私の周りではこれに号泣した中年女性が続出でした。

 アイオワ州マディソン群の農場で、夫と二人の子供に囲まれた平凡な主婦だった主人公フランチェスカ。夫と子どもが不在の4日の間に、通りかかったカメラマンと恋に落ちます。若者の未熟な恋ではなく、年齢を重ねた二人が、抑制を利かせながら燃え上がる気持の前で逡巡する。

 4日間だからこそ、美しいまま残った恋愛の記憶。この二人があの時、マディソン郡の橋のたもとから逃避行したとしても、その先にはいさかいや破局が待ち構えているのは、誰の目にも明白。最後には愛に苦悩しながらも理性を選んだフランチェスカに共感した女性が多かったわけですが、女性が「これまでの人生を、再び生きる力を得るための不倫」という新しい手札を得たという意味でも、エポックメイキングな映画だったと思います……などと言っては、ミモフタもないですか。

 成就せずに引き裂かれた愛の行き先にあるものを、「今までと変わらない平穏な家庭生活に戻る幸せ」におき、なおかつ不倫を美しい純愛という思い出に昇華させたところに、この物語の新しさがあったのだと思います。結果的に主人公の人生がハッピーエンドに終わったのだという余韻を残したあたりもうまい。まさに、年齢を重ねた女性のための純愛映画なのだと思います。(わたしはちっとも泣きませんでしたが>笑)。

ブロークバック・マウンテン プレミアム・エディション ブロークバック・マウンテン プレミアム・エディション
ヒース・レジャー (2006/09/22)
ジェネオン エンタテインメント

この商品の詳細を見る


 もうひとつの変り種の純愛ものが、この「ブロークバック・マウンテン」です。こちらは、同性愛への激しい偏見があった時代のアメリカ、ワイオミングのブロークバック山を舞台にした、二人のカウボーイの物語。

 男性同士、しかも大きな偏見という障害の前で、女性と結婚して苦悩しながらお互いの人生を粛々と築いていく二人。でも、お互いのことが忘れられない。時を経てもなお色あせない、禁じられた愛の、悲しい愛の物語として語られることもある映画ですが、ここにある愛の正体は、いわば「何もかもうまくいかなくなっちまった俺の人生にも、光り輝いた一瞬はあったんだ。それがあのブロークバック山だった。あのブロークバック山で愛を語ったアイツ。アイツと過ごした、あの日々。ああ…」なんていう、忘れられない切り取られた過去への執着なのだ、と私には映ります。

 この映画を真実の愛の映画として見るのか、もしくは、何年も経たあとの再会が、純愛であったはずの切り取られた過去の記憶をどう変容させてしまうか、という物語なのだとして見るかで、主人公二人の見え方は大きく違ってくる。純愛(幻想化された愛)への執着は、周囲の人を大きく傷つけます。誰かを傷つけないためにも、純愛は寸断される必要がある。


 純愛の先にあるものを見ようとすると、やけどをする危険があります。でも、恋なんてそんなもんでしょ。やけどする覚悟のない人が純愛物のまわりで号泣する。そして、それが真実の愛だ、ほんとうの愛なのだなどと言って安心する。安全でいいけど、たまにはもうちょっとヒリヒリしようぜ、って私なんかは思います。

FC2Ad

ネット通販

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。