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歌手の魂、女優の魂

エディット・ピアフ~愛の讃歌~ (2枚組)エディット・ピアフ~愛の讃歌~ (2枚組)
(2008/02/22)
ジェラール・ドパルデュー、カトリーヌ・アレグレ 他

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シャンソンに思い入れのない人でも、どっかで聞いたことはあるのがエディット・ピアフの名前。

とはいえ、ピアフって日本で有名な「愛の賛歌」とか「ばら色の人生」みたい流暢に歌い上げるような歌よりも、ダミ声の大声量で早口でまくし立てるような、ちょっとコミカルな歌い口で人気を博した人でもあるんですよね。

そんなピアフの生涯を、マリオン・コティヤールが演じてアカデミー賞を受賞したこの映画。
もう、コティヤールの演技に、心底感服です。
「世界で一番不幸せな私」「プロバンスの贈り物」の、あの女優さんとは思えません。えらい! これぞ女優魂だと思います。

ピアフとは、こういう若手の女優に心血を注いで演じたくさせる存在でもあるのだと思います。それだけ、フランス人の心の中に、パリという町の象徴として生き続けている存在、ピアフ。

日本では副題で「愛の讃歌」と入っていますが
原題は

La Mome

小さな小雀といういみの ラモーム・ピアフ
彼女の最初の芸名で愛称でもあったラモームというのが原題で
映画の中でも、愛の賛歌はテーマにはなっていません。
愛の賛歌は日本では甘くロマンチックな歌詞がついてシャンソンの代名詞のようになりましたが、もとはとても過激な歌詞です。
あなたのために盗む、殺す、という唄。
(ちなみにマイ・ウエィもシナトラがポジティブな詞で一斉を風靡しましたが、シャンソンのもとの唄はいつもとなんにもかわらない朝、それであなたは出ていっちゃった。。。という非常にアンニュイな詞。日本でのヒットとはちょい違うもとの唄の背景ってのはあるもんで)。

フランス版の予告では、日本題の「水に流して」がメインに使われています。
私は、こちらの歌のほうが、ピアフという歌手の特徴と、その生き様をあらわしている気がして、その意味では最後がこの歌で終わっていくのは、とてもとても印象的。

Rien! Rien de rien
Non! Je ne regret rien!

Rの発音を巻き舌にしながら激しく、静かに吐き出される
「絶対、絶対、絶対に! 私は絶対に後悔しない!」
そう歌いながら果てていくピアフ。

一人の尊敬される歌手の魂と

その存在に敬意を払いながら心血を注いだ
一人の若い女優の魂が
見事にぶつかりあった手ごたえがずしんと残る映画。

NYでデートリッヒと出会うシーンが秀逸。
デートリッヒとピアフ。
最高に贅沢な再現フィルムだと思います>笑


こんな風に、偉大な歌手の魂と
そこに敬意を払いながら心血を注いだ女優の組み合わせが秀逸なのが
大好きなもう一本のこの映画。

ローズローズ
(2007/07/27)
ベット・ミドラー、アラン・ベイツ 他

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27歳で逝ってしまった伝説のジャニス・ジョプリンを、ベッド・ミドラーが演じています。
「水に流して」を歌いながら果てたピアフ。
そして「ローズ」を歌いながら、逝ってしまったジャニス。

歌うために生まれてきた二人の女性は
現実では決して幸福な人生を歩まなかったけれど
でもその魂の叫びが
いま、この時代になっても胸を引き裂かれるような感動をもたらしてくれる。
歌ってすごいなあ、とほんとに思います。

そんな歌のちからのすごさと
さらには
女という存在の底力を見せてくれたのがこの映画でした。

TINA ティナTINA ティナ
(2006/01/25)
アンジェラ・バセット、ローレンス・フィッシュバーン 他

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ティナ・ターナーの半生を演じたのはアンジェラ・バセット。ティナを上回るとさえ思わせる、パワフルな熱唱ぶりはたいしたもんです。そして何よりも、黒人として、そして搾取される女として、DVに耐える妻として、弱者の場所から自分を取り戻して、自立していくティナの姿が、痛みを伴うすがすがしさで身に迫ってきます。

女は、もろく、弱く
そして強い。

そんなたくさんの心のひだを持つ魂があるからこそ
彼女たちの歌は多くの人の心を動かし続けているのかもしれないなあ、って思います。

歌手の半生を描いた映画はたくさんあるけれど
私は、女として
この3本の映画が大好き!

女性歌手の魂と
それを演じた女優の魂に
心から賛辞を送りたい映画です。
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頑張る女がはまる未完の仕事ーUnfinished Work

ショコラカサノバ

 現実の暮らしの中で、「好きなタイプの男」を語るのは結構難しいもんです。だって、思うほど多種多様の男が身の回りにいるわけじゃない。まして、見ているだけでぼんやりしちゃうほどのいい男なんて、生活半径にそうそう存在しないわけで。その意味では、異性の品定めの手段として、映画は私の人生でかなり大きな位置を占めてきました。

 この「好きな俳優」というのは、結構その人となりを表したりもします。実生活でちょっと気になる男性がいたら「好きな女優さんは?」と聞いてみる。答えで、多少相手のキャラクターは理解できる。(もひとつ、好きな音楽は? というのも大きなポイントですが)。ここで、「松嶋菜々子」とか「オドレィ・トゥトウ」といった答えをもらったら、その男性と私との間に恋が芽生えることは、おそらく“ない”>あはは。


さて、そんな私は、少女時代から首尾一貫して似たような男性に強く惹かれる傾向がありました。なにせ、最初にはまったのがジャン・ポール・ベルモント。「勝手にしやがれ」でノックアウトされ、以降「ボルサリーノ」でいぶし銀になるまで長い長いお付き合いをさせてきただきましたわ。もう一人大きな存在が「ルパン三世」>笑。これは私の人格形成に大きな大きな影響を与えているな。しぶいところでは、アイルランド出身のリーアム・ニーソン。最近ではオダジョーが気になって仕方がない。

 勝手に自己分析してみると、どうやら私は「ひとつの場所に安定しない男」に惹かれる。クールでカッコつけてばかりの男じゃだめ。適度に三枚目。笑うと子どものような笑顔になるのに、ふと見せる孤独な横顔がたまりまへん。。。。。。といったタイプに弱いようですわ。そしてその男は、いつどこへふらりと消えてしまうかわからない。女心はつかんで離さないけど、一緒になってもたぶん幸せにはなれないかも? なんて男だよね。これ、同じような傾向を持つ女子は意外といるようで、以前「この立ち居地の男は、ムーミンにおけるスナフキンである」という結論に達したことも。ほれほれ、スナフキンが妙に気になっていたあなた。似たような傾向がありまへんかの>笑。


 さて。こんな私が「これこれ、これなのよっ!」とひざをたたいて喜んでしまった映画がこれでした。
ショコラ DTS特別版 ショコラ DTS特別版
ジュリエット・ビノシュ (2001/11/03)
角川エンタテインメント

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最初にこの映画に手を伸ばしたのは、お気に入りの女優のひとりであるジュリエット・ビノシュ主演だったから。「存在の耐えられない軽さ」で見せた彼女の、天真爛漫な、しかし強烈にエッチなセックス場面が忘れられません。すっぴんでほっぺが真っ赤。ごっついふくらはぎに木綿のソックスをはき、ブルマーの白いパンツでの情熱的で激しいセックス。この子すごい……と舌を巻いて以来、彼女のファン。

でも、そのつもりで見たのに、この映画では、これまで風貌としてはさして気になる俳優でもなかったジョニー・デップが私の人生に急浮上してしまいました。完全にノックアウト。ああ、なんて素敵なの。この映画のジョニー・デップ。

 ジョニーの役回りは、ジュリエット・ビノシュがフランスの因習深い田舎に作ったチョコレート店にふらりと立ち寄るジプシー(いまは差別用語なので、ロマ民族と呼ばれています)の男です。村を通り過ぎ、彼女を通り過ぎ、つまびくギターの音色だけを残していく。出番は少ないですが、この「通り過ぎていく人々」が、古い村と、そして彼女の心にちょっとした変化をもたらしていく。いかにもフェロモンの塊といったジョニーの風貌、そしてチョコレートとギターと、ロマの一行の焚くかがり火の光。冷たく、暗かった街の風景が、官能的な映像で満たされていく悦楽。

 鬱屈した暗いフランスの街の人々を、どこから来たのかもわからない、不思議なジュリエット・ビノシュとその娘が、チョコレートの魔法で少しづつ変えていくこの映画は、サイダー・ハウス・ルールのラッセ・ハルストレム監督の手による大人のおとぎ話です。私はね、とってもこの映画、好きです。
 
 さて、そんなこんなですごしていたら、もいっこ、似たような「これこれ!」という後味を残す映画に出会ったのですよ。
カサノバ カサノバ
ヒース・レジャー (2007/01/26)
ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント

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 歴史上に名を残す好色ドンファン、カサノバがベネチアを舞台に恋の鞘当。実際の話と結末はまったく違っていますが、これはこれでひとつのエンターティメント。なんたってディズニー映画ですから。そう割り切って楽しめば、なかなかの出来だと思います。
件のカサノバ役は、「ブロークバック・マウンテン」で同性愛の哀しげな男を好演していたヒース・レジャー。正直、まったくもって私のタイプではありません。なのに、なのによ! 見終わったらうっとり。はぁ、とため息が出て、心はなんだか萌え状態なのさ。なんなの、この妙な満足感はっ!
 
 しばし考えて、はっと思い当たりました。これは「ショコラ」のジョニー・デップにノックアウトされたのと、まったく同じ理由なのでは? 

 この映画では、カサノバは運命の恋をして、最後にはベネチアを離れてその女性とともに新しい人生を選択することになっています。ベネチアに残ったのは、替え玉のカサノバだったという斬新な設定ですが、このカサノバの心を捉えたフランチェスカ(シエナ・ミラー)の人物設定が、ショコラとの共通点なのでわ!? と武蔵野婦人は考えるわけです。


 フランチェスカは女性の権利と開放を訴えるため、男装して男の名前で秘密に著作を続けている中、カサノバにその秘密を知られてしまいます。それまで、修道女から貴族のマダムにまで幅広く手を出していたカサノバ。放埓な暮らしを総督にとがめられ、姦淫の罪から逃れるために刹那的な結婚をしようともくろみ、処女で人形のように美しい少女たちをその相手に選ぼうとしています。その中で出会ったフランチェスカ。
 そうなの。決してひとところに止まらず、誰にも心を預けなかった男が最後に選んだのは、人形のように美しく、男の言うことを何でもきく少女ではなく、自立して改革を目指している大人の女だったのよ! どうよ。すごいじゃないの。

 因習に満ちた世界を、「チョコレート」というお菓子作りで変えようと奮闘するジュリエット・ビノシュ。女性差別に満ちた世界を、「書く」行為で変えようと奮闘するフランチェスカ役のシエナ・ミラー。彼女たちは自立した女性であり、大人の成熟した心とからだを持っており、才能もある。そして、「このままではいけない、何かを変えなくては」と自覚して、行動にも移している女性です。でも、社会の中ではストレートに認められにくく、時に批判されたり、妨害されたり、生きにくさの実感を抱えており、「人生の成功者」とはなれずにいる。
 その彼女たちのもとに、「これまでどこにもとどまることがなく」、「決して誰のものにもならなかった」男が戻ってきて、そして「最後の女」に彼女たちを選ぶのよっ。 そう、彼女たちはもっとも困難である「手に入れにくい男の最後の女になる」という仕事に成功して、最終的に自分自身の仕事をも含めた人生そのものをサクセスストーリーとして塗り替えることに成功するんです。

 男性の成功物語は、成しえた仕事の中身で語りつくせることもある。でも、女は単純無垢に「仕事で成功したのー」と喜べない。つまりは、それだけ女が単身で成功するには、社会の中で困難に満ちたプロセスがからまりあっているわけで、女性はそんな現実の中で常に公私ともに複雑な感情に翻弄されたりしているわけですわ。

 「そして王子様と王女様は末永くしあわせに暮らしました」という、幼児期から刷り込まれた女の子としての最大のサクセスストーリーも、折を見ては頭をよぎる。男なんていらない、一人で生きていけるといくら強がっても、最後に「幸せの手札」としてあきらめきれない、「末永く幸せに暮らしましたとさ」幻想。これ、先日女優の寺島しのぶさんの結婚でも、母である寺島純子さんが繰り返し話しているのがテレビで流れました。「どんなにお仕事が充実して成功しても、女はやっぱり結婚して家庭を持ってはじめてしあわせ。素敵なパートナーがいなければ女としての本当の成功にはならないの」。ううっ。涙。ブルータス、お前もかっ。

 「ショコラ」を見て、最後にジョニー・デップがジュリエット・ビノシュの元に戻ってきて本当にうれしくて、胸がいっぱいになるほどのカタルシスを感じたのも。「カサノバ」を見て、最後に手に手を取ってベネチアから遠ざかっていくヒース・レジャーとシエナ・ミラーを見て、いいようのない満足感を感じたのも。頑張ってる女が最後に報われるのだ、という強烈な自己確認につながったからなのだわね、きっと。のほほんと日和見で、美しくて豊かで、何の疑問もなく家庭に収まって幸せに胡坐をかいているような女もいいかもしれないけどさ、でもってそういう女を選ぶ男は、自立した女には興味はないだろうけどさ。でも、どうよ。そういう女が成しえたことは、これだけ困難な男を最後に手に入れるだけの価値はあるんだよ。そうだよね、ね。うん、そうなんだよ! ああ、満足。

これ、社会にもまれて、自立しつつ一人で何かを変えようと頑張ったことのある女なら、似たような達成感を感じるんじゃないかなあ、と思うんだけど違うだろうか。あれ、あたしだけ?>笑 もし似たような感覚を持ったことがあるヒトがいたら、ぜひ教えてね。

 まあね、上記であれこれほえていることは、あくまで「想像の世界」の中でのカタルシスなわけで。現実にはそんなことは幻想であるということは、私にも十分わかっているつもりです。何よりも、「ショコラ」のジョニー・デップも、「カサノバ」のヒース・レジャーも。映画の中では女の下にとどまりましたが、実世界では必ずしばらくのちに、またどっかに行っちゃいます。知ってるもんねー、私。
 そして、この手の「何かを変えようと自立した」女性が、男のみで人生の幸福をまっとうすることはできません。結局、彼女たちが追い求めているのは「未完の仕事」(Unfinished Work)なんですもの。

 因習に満ちた村を変える。差別に満ちた社会を変える。すばらしい意識ではあるけれど、時代背景などを考えれば、途方もなく困難な仕事であることは誰の目にも一目瞭然です。判断を間違えると、「そこまでしなくても」という余計なお世話に手を出してしまうこともある。そういう困難な仕事にあえて立ち向かう女たち。すべてのヒトがそうだとは言いませんが、これは人間関係で共依存といわれる関係性に陥ってしまったヒトが取る行動によく似ています。アルコール依存症のパートナーをなんとか更正させようとする。DVの夫を暴力から解放させよう、不仲の両親を仲を取り持とう。このあたりの心理学上での「共依存」の詳しい説明はこちらがわかりやすいです。


相手のことや社会を第一に考えて役に立とうという救済行動は、妄信すると場合によって逆効果になることがあったり、自分自身の心の満足も得にくいという特徴があります。そう、つまりは必要以上に困難なことに挑戦して頑張りたがるヒトは、思い込みで誰かのためにやった行動の成功率が意外と低いため、結果としてはなかなか心の満足感を得にくい。人生における成功感も実は得にくいのれすわ。なので、この映画のように「最後はしあわせに暮らしましたとさ、めでたしめでたし」とはなりにくい。その分、こういうストーリーはファンタジーとしてきちんと成立するのかもしれません。

 でね。それでも、彼女たちは挑戦をやめられない。それが、自己確認の手段なのだから、仕方がない。でもって、そのもっとも困難でやりがいのある挑戦のひとつに「行ってしまうスナフキンを私が引き止めて愛を教えて一人前に安定させる」という仕事が存在するとも考えられる。映画では、対象となる男はもっとも手に入りにくい設定のジプシーという放浪者、カサノバというドンファンでした。この困難な男が困難な仕事をさほど必要とせずに、ストレートに自分のものになるというファンタジーは、だから頑張ってる女性心をくすぐるんです。

 さて。では現実世界ではどうでしょう? 実は共依存に陥る人の特徴の一つとして、「自己評価が低い」ことも挙げられています。自分は有能だ、自分は美人だと根拠レスな自信に身をゆだねられない人が多い。こうした人々は、現実世界では「誰もが認める競争率の激しいいい男」には手を出しません。ほかの競争相手と張り合えるだけの自信が欠如しているからです。

 じゃあ、どこに向かうかというと、はたから見ると「なんであの人?」と思うような「問題を抱えた男」にはまり込む傾向がある。借金、アルコール、女癖、DV、モラハラ。もしくは問題のある家庭や過去を抱えた人や、極端な寂しがりやとか嫉妬深い人。自分より何もかも上の人は、自らのコンプレックスが刺激されてしまい卑屈になるので回避。どちらかといえば自分より少々格下、保護者の視点から相手の問題を解決できる対象を選んでしまうことが多いように思います。仕事はやりがいがあるほど、魅力的というわけ。

有能な女性が、しばし「だめんずウォーカー」になってしまうのは、こうした心理的背景があるからなのでは、と私は思います。ま、映画の世界と現実は微妙に違うってことなのかも。

 まあ、2本の映画ともそこまで狙って作られた映画ではまったくないと思うのですが、女性の成功像の考察として、勝手にそんな視点からこの男女の設定を眺めてみるのもまた、楽しいなあと思う武蔵野夫人なのでした。あ、私は決してだめんずウォーカーではないですよ、今は(笑)。ある時期にちゃんと自覚して襟を正したので大丈夫―! うふふ。ああ、また「ショコラ」見たくなったなあ。

東国原知事にオススメ

ステップフォード・ワイフ(ニコール・キッドマン主演 2004年)ステップフォード・ワイフ(キャサリン・ロス主演 1975年)

 週末にテレビをつけると、どのチャンネルを回してもどこかしらに東国原宮崎県知事のご尊顔を拝するようになりました。いやああ、タレントの全盛期より出とるねえ。ま、実際に電波に乗るとしゃべりもおもろいし、存在感が(何故か)ある。県政やらんと、と思いながらも出てくりゃ私も面白がっているんだから仕方ない。

 とはいえ、テレビというのは因果なもので、ついぽろりと口から出た言葉が独り歩きして、あれこれ物議をかもすことがある。政治家みたいに言質が取られる人たちがあまり電波でしゃべりすぎるのは危険じゃよのお。ほれほれ、私みたいなひねくれもんにもう言質取られちゃいましたから>笑。ということで、今回は東国原知事におススメの映画のお話。

 女性を自宅にこっそり泊まらせたと写真週刊誌にスクープされてしまったあと、この方は頻繁にカメラを自宅に入れるようになった。「ほら、こんな風に男3人が雑魚寝してる男所帯なのよ。冷蔵庫の中は氷とビールだけよ。食事もファストフードや弁当だし、栄養のバランスはもうがたがた。洗濯だって自分でやってるのよ」、と。

 女性が同じアピールをしたらどうだろうか。家はぐちゃぐちゃ、冷蔵庫はからっぽ、食事はほとんど外食よ。でもそれだけ忙しいんだし、それだけ魂こめて仕事してるのよ、、、、といくら付け加えてもこれはイメージダウン。
 同じことを男性がすると、どうやら「これではあまりにかわいそう。奥さんを探さないと」と考える人が多発するらしく、知事にはお見合いの話が次々に舞い込んでいるのだそうだ。町を歩くとおばあちゃんが「ごはん作るよ、私でどうだ? まだまだ使えるよー」などと声をかけてくる。
 ま、ほほえましい逸話だ、とも思えるけど、いけないのはこうした番組の中で言わなくていいことまで言わされてしまうこと。

 「知事の好みの女性はどんなタイプですか?」
 「なんかねえ、ほんとに家事が好きでやってる人がいいね。料理とかでも一生懸命がんばられちゃうと、こちらも気を使っちゃうでしょう。家事が好きだから、やる。さりげなく身の回りのことをしてくれる人がいいなあ」
 ………。


 あらま。お口チャックしておけばいいのに。だめよ、奥さんと家事をセットにしちゃ。しかも「好みの女性」という質問に、彼の家の中を見せている番組で「ほんとに好きで家事をしている人」を答えちゃあきまへんわ。“家事に困っているから、家事をする人が好み。しかも恩に着せずに、ほんとに好きだからという理由で家の中をきれいにして料理を作り、夫のセックスの相手もする。本人が好きでしているんだからおおげさな感謝の必要もなく、手間もお金もかからない”。そう受け取られちゃっても仕方ない発言になっちゃうわけで、「そんなつもりは毛頭ない」発言だったのかもしれないけど、こりゃもう女性の長い歴史の中では仕方ない反応なのよ。

 ちょっと前に柳沢大臣が「産む機械発言」で大バッシングを受けたけれど、これはやはり彼が厚生労働大臣だったからまずいわけで、町の頑固親父がポロリと発言するぐらいでは「またまた困ったやっちゃ」と思われるぐらいで済んだかもしれない。なぜ大臣がこういうことを言っちゃまずいかというと、長い女性史の中で「出産は義務ではなく権利である」という認識を得るまでの多くの歴史的プロセスがあったから。こりゃもう社会の常識です。厚生労働大臣がこうしたお勉強もしていないのですか? 一番言っちゃいけない言葉ですよ、「産む機械」ってのは。。。。。。。。。つまり、一人の男性の価値観としてどうかという意味ではなく、政治をする人の発言としてあまりに歴史的認識がなさすぎるというのが「絶対に言っちゃだめだってば」という理由なのですわ。


 東国原知事の発言も同じ。「家事に困ってるから、理想の女性は家事が大好きだからさりげなくちゃんとやってくれる人」。あかんよ、一番言っちゃいけない方向性よ。政治家としてはね。で、しっかりとスタジオにいる東ちづるに「栄養バランスが悪いなら栄養士を雇え、家が散らかっているなら家政婦さんを入れればいい。生活が荒れるのは自己責任です。それと奥さん選びを一緒にするのは間違っている」ときっぱり言われていましたが。(えらいぞ、東ちづる>笑)。
 でもね、ほんとにそうなんです。自分の暮らしが荒れるのは、自分の責任。奥さんがいないからじゃありません。スタジオではテリー伊藤からもこんな意見が出ていました。「この家のインテリアセンスひどすぎ。冷蔵庫の中もひどすぎ。宮崎を美しい場所にしたいと活動しているんだから、まずは自分の家を見せて誇れるだけのインテリアにしないと」。まさに、御意。
 やもめ暮らしのわびしさを自慢しても、同情はされません。自己責任でなんとかしてから、人生を一緒に歩んでいけるパートナーを探しましょうぜ。ね。(前の奥さんは、この人のために慣れない土地で周囲に頭を下げ、知事の妻としてこの人のパンツを洗い食事を作る暮らしにNOを言ったわけで、そういう意味では懲りてないんだわねえ)。


 とはいえ、町の人々から「お嫁さんが必要だ」という言葉が普通のように飛び出し、それに「家事がほんとに好きな人がいいね」と答える知事のやりとりを見ながら、私が一番驚嘆したのは、「そうか、もうまったく変わっていたと思っていた現実は、実は何も変わっていなかったんだな」ということでした。私はね、「家の中をきれいに整えておいしい食事を作り、掃除もお料理も大好きで、きれいでグラマーでにこにこしていて、夫にたてつかない従順な女が男は好き」なんて発想はもう過去のものじゃろ? と思っていたわけなんですわ。少なくともこの映画を見たあとはね。

ステップフォード・ワイフ ステップフォード・ワイフ
ニコール・キッドマン (2005/06/10)
角川エンタテインメント

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 これは、1975年に作られたこちらの映画のリメイク版です。

ステップフォード・ワイフ ステップフォード・ワイフ
ティナ・ルイス、エドガー・J.シェリック 他 (2005/12/22)
パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン

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 アメリカでは、いまだに「彼女はステップフォードワイフだわ」と比ゆに使われるぐらい、この映画に出てくる女性たちはステレオタイプな妻。もとは、アイラ・レヴィン原作の「ステップフォードの妻たち」を映画化したサスペンスミステリーですが、映画ではこのステレオタイプな妻たちが実際に映像として多数出現する様が、なんともいえず圧巻です。
 舞台はコネティカット州ステップフォード。都会から移り住んできた主人公夫婦の目に映るのは、美しく手入れされた庭と、お菓子の家のような理想のマイホームが連なる姿。引越し当日から、主人公はこの土地にいる妻たちがどこか異様なことに気がつきます。いや、「異様だ」と思うのは主人公だけか。夫のほうは「なんてすばらしい土地なんだ」とご満悦です。


 ここでは、どの家でも白いエプロンをした妻が家の隅々まで磨き上げ、ケーキやクッキーを焼き、みな従順で夫に逆らわず、しかもとびきり美しくてスタイル抜群。リメイク版では、主人公役のニコール・キッドマンは、昼下がりに訪れた隣家の2階から夫婦のセックスの声が響き渡るのを耳にしたりします。「あなたは最高、あなたのすごい」。妻の果てる声のあと、夫が「何か飲み物をもってこい」と命令する声が聞こえます。2階からベビードールのネグリジェを着てキッチンに向かうプレイメイトばりのスタイルの妻。そう、ステップフォードワイフはベッドの上でもこのうえなく役に立つ妻なのです。

 町には男性専用のクラブハウスがあり、住民男性は全員ここのクラブに所属することになっています。主人公夫妻の夫も、やがてここのクラブに出入りするようになる。「どうだい、ステップフォードでの生活は? すばらしいだろう。男にとってはこのうえない理想の場所じゃないかい?」。
 確かに、と主人公の夫は思います。でも、と彼は答えます。「それはみなさんの奥さんがすばらしいからだ。まさに理想の妻だ」。それに比べて彼の妻はどうでしょう。ほかの家に比べたら散らかりまくってぐちゃぐちゃです。ケーキもクッキーも焼かないし料理好きでもない。その上、都会でしていた仕事に未練があり、越してきたこの土地でも何かを始めたいと思って、さらに家事をおざなりにした上、夫に意見したり反抗したりする。これまで愛する美しい妻と信じていた存在が、ステップフォードワイフに囲まれたとたん色あせて、夫は妻に不満を持ち始めるのです。


 リメイク版では、ニューヨークで辣腕テレビプロデューサーだったという設定のニコール・キッドマンが。原作では同じくニューヨークでカメラマンを目指して作品を発表し続けている設定のキャサリン・ロスが主人公。自身の仕事と自我を持つ女性が、このステップフォードに引っ越してきて、さて。結末はどうなるのでしょうか? 設定は別として、新作と旧作ではこの結末に大きな違いが隠されています。これは話してしまっては面白くないので、ぜひDVD借りてみてくださいね!


 この「ステップフォードワイフ」。最初にリメイク版を見たときに、武蔵野婦人としては「なんじゃこりゃああああ。あほか。いまどきこんな映画を作って何の意味がある?」と、かなり落胆しました。 おっぱい大きくて、何でもはいはいということを聞いて家事が大好きな、おつむノータリンの女性が男性は好きなのです、なんてことを、今の世の中で映像にして見せても、「あほくさ」と思うだけよ。そういう発想が社会常識として流通している時代だったら、ある種のホラーとしてきちんと成立する。そこで「ピリッと利いた社会風刺」と、「ステレオタイプな女性像を求めることへの警告」という精神作用が働かない限り、なーんの意味もないストーリーじゃん。
 もしくは、もう完全にこんな発想が寓話化してしまった時点で、過去にはこんなこともあったのねえ、というおとぎ話として作らない限り、この原作本来の意味が持つ「ホラー性」は意味をなさないでしょう。

 新作ではバービー人形ばりの二コールキッドマンが人形のようで見ごたえがありますし、SFXを駆使したステップフォードワイフたちの異様な(しかし男から見るとパラダイスな)風情はお見事な映像です。このあたりが映像として「使える!」と思ったスタッフ陣が軽い気持ちでリメイクしてみた、、、、というシナリオだとしたら、まさにまさに、あほや。今の時代、このストーリーはもう何の意味も持ちませんぜ!

 まじに、そう思っていたんだす。だから、原作のキャサリン・ロス版を検証のつもりで見ました。そして、確信しました。アメリカでは1960年代後半からウーマンリブ運動が台頭をはじめています。こうした動きが日本にも取り込まれ、日本で第一回のウーマンリブ大会が開催されたのが1970年。そしてその後、1979年に国連総会において女子差別撤廃条約が採択されて、その後の男女平等社会の推進に大きく貢献したわけです。この映画が作られた1975年は、まさにウーマンリブの台頭時代なわけで、こうした中で実は大いに保守的であるアメリカにおける主婦の立ち居地に対して、強烈なゆれ戻しがあったように私は思います。
 旧作での主人公キャサリン・ロスのファッションは典型的な都会スタイルですが、ステップフォードで唯一できた友人は明らかなヒッピースタイルです。ヒッピーやフラワーチルドレンなどの出没とかぶるこの時期は、女性の地位だけでなく、保守と新しい若者文化が対立した時代でもある。こうした現実に対する強烈にシニカルな切り口として成立する映画なわけで、これを今の時代に持ち込んだら単なる「コメディ」にしかなりません。色物的おもしろさで手をつけちゃいけない世界というのはあって、今の時代に持ち込むことで意味を失う映画というのはあると思います。リメイク版はその意味で、不快な映画だった、というのが私の認識だったわけですわ。

 それが、東国原知事の一連のやりとりを見て、「そうか、ちっとも何も変わっていなかったのか。意味をなさない不快な映画だと思っていた今の時代のリメイク版「ステップフォードワイフ」を見て、こんな荒唐無稽な話の中に今の時代「怖い怖いホラーだねえ」なんて思いながら「でも、実は男にとっては垂涎ものの理想の世界じゃねえ」なんて思う輩が、まだまだいっぱいいるってことか!」…ってことを突きつけられたようで、あたしゃしばし途方にくれたわけです。
 もし時間があったら、ぜひ旧作と新作を見比べてみてほしいです。旧作は正真正銘のホラーです。でも新作は果たしてホラーなんでしょうか。それとも荒唐無稽なコメディなんでしょうか。もし、新作をいまだにホラーとして成立させるメンタリティが色濃く現代にあるのだとしたら、その現実こそが私にとってはおおいなるホラーであります。なんかさ、がっくしだよ。
東国原知事はぜひごらんになってね。「心から家事が好きな女性」(しかも若くて美しくてグラマー)がいっぱいいっぱい出てきますよーーー!

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