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「大好き」が作る世界の力

週刊文春に近田春男さんが長いこと音楽のコラムを連載してます。
ここで、前に「いい音楽ができる前提には、グループの人間関係がよくて仲がいいってことは、とても大きな要素だと思う」とみたいなくだりがあり(クロマニヨンズのCD紹介の回だったと思います)。

へー、そういうものかあ。でも言われてみるとそうだなあ。やっぱりメンバー同士がいいコミュニケーションができていて、なんとなくいい波動をかもしだしている場所には、継続的に長くいい感じのものが生まれていくように思います。仲が悪いとうわさのグループでも、突発的な瞬発力は生まれると思うのね。でも、やっぱり大切なのは「作り手がその世界をみんな“大好き!”って思っていられる」とか「やってることが楽しくて仕方ない! って空気感に満ちている」ってことなのかも、と。楽しい、大好き、面白い! と思える力ってすごく大きい。だから、そういう力が集まる場所には、やっぱりいいものが生まれる。そんな気がします。


 というわけで、今回の映画は「きっとスタッフの関係がとってもいいよね」「すごく楽しく撮った映画だよね」と思った映画を2本>笑。この2本は私の映画ライフの中でも、特別「お気に入り」の部類の入る作品です。監督はテリー・ツワイゴフ。かなりアクの強い映画ですが、こういうはっきりしたカラーのある映画が、私は大好き!

ゴーストワールド【廉価2500円版】ゴーストワールド【廉価2500円版】
(2007/03/02)
ソーラ・バーチ、スカーレット・ヨハンソン 他

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 全米の若者の間でカリスマ的人気を誇るダニエル・クロウズの新感覚コミックの映画化です。「アメリカン・ビューティー」で危うげな少女を演じたのソーラ・バーチと、ソフィア・コッポラ監督の「ロスト・イン・トランスレーション」で不機嫌そのものの女子を演じたのち、最近ではブライアン・デ・パルマの「ブラックダリア」やウディ・アレンの「マッチポイント」などでクラシックな美貌のヒロインを演じるようになった、スカーレット・ヨハンソンの2人が主人公。

 ハリウッドの青春映画なんかでは、若いもんがみんな表情豊かで大げさな美男美女が登場するけど。でもさ、実際のティーンエイジャーって、この2人の主人公みたいに無表情ですねてて、素直じゃなくてひねくれたくだらないことばっかりやってるものなんじゃないのかなー。大げさな反抗も事件も起こさず、ただただ日常と不機嫌に格闘する子たち。そんな意味で、この主人公たちの2通りの思春期のもてあまし方に、とてもリアルを感じた映画。

 冴えない中年男を演じるスティーブ・ブシェミが最高の存在感をかもしだしています。「パリ・ジュテーム」でもコーエン兄弟の作品で強烈なインパクトを残しているブシェミですが、この映画も、彼がいなければ成立しなかった映画。

 ファッション、音楽、全体に漂うこの空気感。そして配役の妙。最後の顛末が意味深ですが、見る側の精神的状態によって解釈も変わる、というこういう終わりかたも、私は嫌いではありません。

アートスクール・コンフィデンシャルアートスクール・コンフィデンシャル
(2007/04/18)
マックス・ミンゲラ、ソフィア・マイルズ 他

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 こちらもテリー・ツワイゴフ監督。ダニエル・クロウズ原作コミックを映画化したものです。
アメリカのアートスクールを舞台に、ピカソのような世界的アーティストを夢見てアートスクールに入学した青年ジェロームが巻き込まれる奇妙な事件を描いた作品。

 すべてがブラック。直球ど真ん中のギャグはありませんが、どれも気づけば、口の端がゆるんでニンマリ。そのあとに、心の奥底からおかしさが湧き出してくるような、そんなシーンが満載のブラックコメディです。
 長いこといろんな映画を見ているけれど、私は「ほんとのほんとに、こういうシニカルな視点の映画が大好きだわああ」と、見終わったあと妙な満足感に浸りきった映画。


 さて、この2作。見終わってから、DVDについている特典映像を見ていて、この不思議な世界が作られてきたルーツが少しわかったような気がしました。

 監督であるテリー・ツワイゴフ。顔は、なんだかチャップリンみたいです。映画の神様、チャップリン。目はちょっとニコラス・ケイジに似ています。気難しそうでやさしくて、ちょっと頑固でシニカル。そんな風貌。この監督を取り巻くスタッフは、前者「ゴーストワールド」とこの「アートスクールコンフィデンシャル」では、ほぼ同じなのです。超低予算というあたりも共通。

 インタビューや、撮影風景を見ていると、この現場の雰囲気が伝わってきます。好きで好きでたまらない世界を、仲間で楽しく撮ったという感じ。なんというか、画面から「楽しいねえ」という雰囲気が伝わってくる。いいなあ、こういう現場。


 映画って、それはそれはたくさんの人たちで作り上げる世界です。どんなに監督が立派でも、現場のスタッフたちとうまくやっていけなければ、映画はほころんでしまう。
 このテリー・ツワイゴフ監督を取り巻く現場の作り手たちの根っこは、目指している場所や、思いのありかが揺るいでいない気がします。頼まれて仕事をパーツで引き受けているだけ、って雰囲気がなくて、みんなツワイゴフのまわりで楽しんでいる感じ。だから、さまざまな風景の断片で世界を構築するという、かなり難しい世界観が、最後まで無理やほころびがなくちゃんとエンディングに収まっていく。とっても上手。

 スタッフの一人が監督を評して、「彼はとっても素敵。すごくシニカルなんだけど、でもどこかでたまらなく無邪気なの」と評しています。そう話しているスタッフ本人が、いとおしそうな、楽しそうな表情をしている。無邪気なシニカルさを楽しめる人たちが集まって、こういう人間関係を結べる場所で仕事ができるって、うらやましいなあと思います。作品の出来を、こういう場所が左右することもあるんじゃないか、なんて思ってみたりもします。



 もうだいぶ前のことになりますが、私は企業で文化事業の企画の仕事をしていました。キューレーターとディレクターを兼ねた仕事を長く続ける中、自分の仕事の行き先を見失って、もう会社をやめようと上司に相談したことがありました。

 そのとき、その上司にかけられた言葉が、その後の私の仕事に対する姿勢を大きく変える転機となりました。彼は「辞めたい」と言った私に、こう声をかけたのです。

「おまえは、もしかして会社のために企画を考えていないか?」

え? だって会社の企画を考えるのが私の仕事ですから。

「だからいけないんだよ。会社の利益とか、会社のためとか、そういうことを一切考えずに企画してみろ。お前が一番好きで、一番楽しい、やってみたいと思うことをそのまま素直に企画する。辞めるのは、それをやってみてからでいいんじゃないか?」。


 私の好きなこと? 会社の仕事で、そんなことをしていいの? バリバリのサラリーウーマンだった私は、当時目からうろこでそんな話を聞き、それから素直に会社の事業とはまったく関係がない、「私が大好き、私が楽しい」と思う世界を、企画にして実現していきました。

 結果。それまでの何よりも、この企画は受け入れられて、多くの入場者や参加者を集めたんです。好きだという気持ちが生み出す力。楽しいと思う心が集める人たち。このときに作った実績が、私自身の心の大きな糧にもなって、今の私を形作っている気がします。


 好きって力は、とってもとっても大きくて、そういう心を共有できる人たちと作り上げる場所には、絶対にいいものが生まれると思っています。そういう「好き」という気持ちを、私自身もちゃんと、ずっと持ち続けていたいものだとも思います。
 映画を見るとき、この映画はどんなスタッフたちで作ったのかな? とよく思います。いい気が流れるスタッフで作った映画は、やっぱり画面にそんな足跡が残っているような気になります。


 映画って作るのもとっても大変そうだけど、そういう意味で、たくさんのスタッフたちとの共同作業がうまくいったときのうれしさ、達成感みたいなものは、格別なんだろうなあなんて思って、いつも一人で原稿を書いている私は、ちょっとうらやましい世界でもあります。(ま、大変なこともいっぱいありそうで、その意味では私って一人で気楽でいいでしょうー? とも思うんですけどね>笑)。


 ちょっとシニカルな世界が好きな方は、ぜひ見てみてほしい映画2本。特に「アートスクール・コンフィデンシャル」で多数登場する「アートの傑作」となっている作品の出来にご注目。しみじみ、むしょうにおかしいです。大好き! 
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靴という深遠でエロティックな道具

セックス・アンド・ザ・シティ靴に恋してイン・ハー・シューズゴーストワールドキンキーブーツ薬指の標本

 突然ですが、靴が好きです。洋服や装飾品には感じない、強烈なエロスを感じるんです。とはいえ、イメルダ夫人や、セックス・アンド・ザ・シティの主人公キャリーのように、靴コレクションに散財することはありません。マノロジミー・チュゥのヒールを眺めるのは好きだけれど、ほしいとは思わない。その代わり、ただひたすら私に似合う靴との出会いを探している。たぶんね、私の靴へのこだわりは、靴そのものの存在ではなく、「私と靴」との関係性の中にあるような気がするわけです。

 甲高で足の人差し指だけが長く、幅広の私の足には、一般的にヒールの代名詞といわれているようなメーカーの靴は木型がほとんど合いません。さらにいえば、ピンヒールやきゃしゃなデザインのサンダルは、私の日常のファッションにも合わない。家で仕事をしつつ、たまに都心に出ておしゃれをしたい、気持ちよくたくさん歩きたい私の足にぴったりと合う靴。さらに私のファッションやライフスタイルに合い、私のおしゃれ心をくすぐるとびっきりかっこいい靴。こういう靴との出会いはそうそうあるわけではなく、だからこそ、たまにそんな靴に出会えたときのうれしさはとびきりで、さらに言えば、その靴が何度はいても履き心地がよく、違和感なく私の日常に滑り込んできたときの悦楽は何者にも変えがたい、とも思うわけです。

 今回は、そんな私の大好きな「靴」を扱った映画を。

靴に恋して 靴に恋して
アントニア・サン・ファン (2005/05/25)
エイベックス・マーケティング・コミュニケーションズ

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 以前、「リスボンサプリ」として紹介したこの映画。前回私が靴について書いたのは、こんな内容でした。
「靴はひとつのメタファーで、小さな靴を履く女、盗んだ靴を履く女、スニーカーを履く女、スリッパを履く女、扁平足の女…と、登場人物はそれぞれ特徴的な靴をはきながら、自身の向き合う現実と格闘していく。誰もが自分にぴったり合う靴を探しているのだけれど、それはそう簡単にはみつからないね、というわけ」。
 このDVDのジャケットには、整然と並ぶイメルダ夫人ばりのハイヒールのコレクションの写真が使われていますが、これは登場人物の靴マニアのマダムの自宅のシューズクロゼットの風景。ライティングされた棚に並ぶ高級ハイヒールの風景は、一種異様とも思えるインパクトを持って見るものの心に迫ります。
 もうひとつ、靴の異様なコレクションがおがめるのが、この映画。

イン・ハー・シューズ イン・ハー・シューズ
キャメロン・ディアス (2006/10/27)
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン

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 決定的に自分を扱いきれずにいるキャメロン・ディアス演じる妹に比べ、社会的に成功して堅実な自己像を確立している姉のクロゼットの中は、高価な靴の壮絶なコレクション。ファッションや美貌の点では妹に格段に劣る(ごめん!)姉のクロゼットの膨大な靴。このギャップがとても異様なのです。

 そう、靴のコレクションってね、やっぱりどこか異様なんですよ。そう思いません? クロゼットいっぱいの洋服の風景より、数段インパクトがある。おしゃれさんだから、お金持ちだから、というだけではない。靴を集める行為というのは、マニアの域を超え、やはりどこか病理をはらんだ危うさを感じてしまう。これ、何なんでしょう? そう思っていたときに、この映画でおもしろいフレーズをみつけました。


ゴーストワールド ゴーストワールド
ソーラ・バーチ (2002/06/07)
ジェネオン エンタテインメント

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 直接靴とは関係ないストーリーなんだけどね。アメリカの人気コミックを映画化して話題になった作品で、世の中となかなかうまくやっていけないティーンエイジャー女子の心理を、上手に上手に描いている、結構お気に入りの映画です。この中で高校を卒業してあてどなく大人への道を逍遥する主人公は、髪の色をミドリに染めてパンクになってみたり、突然胸の開いたセクシードレスを着たり、猫の耳をつけたメイドファッションなどでコスプレじみた服装を次々と試している。演じるのは、「アメリカン・ビューティ」で、幼い表情と豊満な肉体で独特の存在感をかもし出していたソーラ・バーチ。コミックそっくりに黒縁メガネにネクラな表情のソーラの化けっぷりも見事。

 このDVDの特典映像で、ソーラは主人公のこうした傾向を指してこうコメントしています。「彼女は本当の自分がわからないの。何かになりたいという強烈な思いはあるけれど、自分が何者なのかがわからない。だから彼女は髪を染めたり、服を変える。そうすることで自分を見つけることができるかもしれない、って思うからよ」。

 改めて言われてみて、なるほどと思ったわけです。コスプレ願望は、「自分と違う何者かになりたい」という意識の方向性だと思っていたけれど、「自分」そのものが希薄でつかめない人間にとっては「どこかにあるはずの自分」探しの、格好のツールなのかもしれません。その「どこか」が社会の中に見出せなければ、コスプレの方向は限りなくファンタジーの世界に埋没してしまう。バニーガールやパンクにコスプレしているうちはまだいいけれど、アニメの世界に入り込むコスプレ世界の中では、リアルワールドは関心外に置き忘れられて、ひたすらファンタジーの中にただよう自己幻想を追い求めるようになっちゃわないのか。そんなやつらが多すぎないかね。今。ま、そのあたりは別の話なのでまた今度。

 話がそれましたが。とにかく、衣装のコスプレが「どこかにある本当の自分探し」のひとつの手段になっているというのは、私にとっての小さな発見だったわけです。それでいくと、靴はどうなんでしょう。
 衣装が「他人に自分がどう見えるのか」という表層的第三者視点に立脚しているのとは違い、道具としての機能が生理的な快・不快と直結している靴の世界では、人にその靴がどう映るかという視点のほかに、「この靴は自分に合うのか」というもっと自分自身の肉体的感覚が強烈に働くように思うわけです。コスプレが「自分をつかみかねている子の、本当の自分探し」の手段であるのなら、靴コレクションをし続けるのは「自分自身をどこかで本当に理解してくれる人(物)探し」の手段といえるのかもしれません。

 だってね、子どもは靴は集めないのよ。靴を集めるのは、結構いい年をした大人です。自分が誰であるかはおぼろげにわかってきた大人の女(男)が、その次に求めるのは、そんな自分自身の本当の姿を、しっかり受け止めて理解してくれる誰か。もしくは、そんな居場所。誰もが、自分にぴったり合う靴を探している。その靴が自分に余計な苦痛をもたらすことなく、気持ちよく自分らしい暮らしの中にすんなり納まって、なおかつ、その靴を履いた自分が今よりもっと素敵でおしゃれに輝いていたい、と願う。

 靴に恋してしまう大人の女の、そんなはかなげな飢餓感のようなものが、膨大な靴のコレクションの風景を一種異様な迫力のあるものに見せてしまうのかもしれない、と武蔵野婦人は思ったりするのでした。
 もうすっかり大人の私は、自分の足にぴったりの靴がどんなものか、すでに経験値でよく知っています。だから、無理に足を痛める靴、靴ずれのする靴、自分を素敵に見せてくれない靴は選ばない。ブランドや見栄えで靴は選びません。自分に合うものはなかなかみつかるものではないけれど、みつかれば即買います。だから、膨大なコレクションはいらないんです。
 膨大なコレクションを繰り返すのは、どこかでまだ「自分にはどんな靴が合うのか」がわかっていない人たちです。マノロのストラップピンヒールを履いて、5分で靴擦れしてしまうセックス・アンド・ザ・シティの主人公キャリーもしかり。痛い思いをしたり、自分を傷つけてしまう靴はいらないんです。でも、その痛い思いの中に愛や安らぎがあるのかもしれない、というはかない期待。
 靴コレクションをする女性が集める靴は、どれも背伸びした高いヒールの高価なブランド物です。靴の山は「ありのまま」でいることを受け入れられない、「今のままでいいわけがない」と考える女性たちの、必死の挑戦なのかもしれません。



 ぴったりの靴を探しているのは、女ばかりではありません。男にも、そして女の姿をしたい男にも、合う靴を捜し歩いている人はいます。「キンキー・ブーツ」は、実際にあったイギリスの靴メーカーの実話をもとに作られた、最高にファンキーな映画。

キンキーブーツ キンキーブーツ
ジョエル・エドガートン (2007/02/23)
ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント

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 老舗の靴メーカーの父親に、後を継ぐべく幼少時代から仕込まれた主人公、チャーリー。頑固な職人気質の父親は、彼にこう言い聞かせます。「いいか、靴を見ればその人がわかる」。そして、昔ながらのウィングチップの紳士靴を、熟練した職人たちが作る姿が、いかした音楽とともにカットインされていく。もう、出だしからノックアウト!

 そうなのよ。靴はね、見ればその人がわかる。武蔵野婦人も本当にそう思っています。だから、どんなに素敵な人でも、靴が許せない人はまったくダメなんです。趣味の悪い靴もだめ(先日、結婚式でスーツに黒のバックスキンに金鎖の飾りつきローファーを履いてた人みて、ほんとに吐きそうになるぐらいダメ! でしたもの>涙)、かかとがつぶれている人もだめ、汚れていたり、磨り減っていたり、服や靴下と決定的に合っていない人は、たぶんお友達にはなれないのです。で、この直感はほぼ見事に当たります。靴は、その人を現す。だって、靴は生理と直結しているから。靴は、自分探しと直結しているから。

 この映画は、頑固一徹で紳士靴を作り続けていた工場長の父親が亡くなり、傾いた工場をなんとか立て直そうと、新たにニッチな需要を拾い上げて靴作りを始めるチャーリーの話。そのニッチな窓口となるのが、ドラァグクイーン役のキウェテル・イジョフォー。彼の演技、踊り、歌。すべてが最高にいかしています。
そう、彼が求めていたのは、男の体重で歌って踊りまわっても折れないヒール。毎晩、痛む足をさすりながら、小さい女物のヒールを靴べらで無理やり押しこんでいた彼の足を、「ありのまま」に包んでくれる真っ赤なブーツ。男性であるこのドラァグクイーン、サイモンは、チャーリーと工場の職人が作る真っ赤なキンキーブーツとともに、「ありのままの自分」を受け入れていきます。同時に、「こうなったのは僕のせいじゃない、僕に何ができる?」と、現実に受身でい続けたチャーリーもまた、真っ赤なキンキーブーツとともに社会の中にありのままの自分で居場所を獲得していく。

 工場の再生、自分を取り戻すための道のりの過程に、「普通と違う風貌を持ち、普通の風景に紛れ込めない人間が、生まれてはじめて手にする“自分の足にぴったりの靴”」が大きなキーワードとなっているこの映画。最後に、真っ赤なひざ上75センチのキンキーブーツや、見事な豹柄のピンヒール、ピンクのラメヒールなどを履いたごついドラァグクイーンたちが、ミラノの見本市のステージショウでヒールをガンガン床にたたきつけながら、♪gimme gimme cha cha heals と歌い踊る姿はまさに圧巻。
強烈な自己主張、怒り、そしてセックスを含めた生身の人間の感情と肉体の叫びが、ヒールを踏み鳴らす音からあふれ出してきます。いかすぜ、キンキーブーツ!
今年3本の指に入る、いい映画でありました。


さて。そんな「靴」のエロティックで深遠な世界は、興味深い「自分探し」の手段となる一方で、誰かに「靴を履かせる」ことで強烈な支配の道具になることも、ままあるようです。ロンドンで「赤い靴」を履かされた少女は、バレエ団で踊り続ける運命を背負わされ、横浜で「赤い靴」を履かされた少女は、異人さんに連れられて行ってしまう。

キンキーブーツでは、ドラァグクイーン役のキウェテル・イジョフォーが「赤はセックスの色よ!」と何度も叫ぶわけですが、こうした「支配される少女」の靴がみな赤であることも、意味深いメタファーなのかもしれません。
 そんな「靴」の呪縛を官能的に描いたのが、小川洋子の「薬指の標本」を原作としたこのフランス映画です。

薬指の標本 SPECIAL EDITION 薬指の標本 SPECIAL EDITION
オルガ・キュリレンコ (2007/03/23)
ハピネット・ピクチャーズ

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 思い出の品を「標本」にするという摩訶不思議な職業を持つ男性と、孤独な少女との話。原作は日本を舞台に、幼げな少女の描写が詩的につづられていきますが、映画のほうはなんともいえないエロティックな大人の空気に包まれています。さすがおフランス風の味付け。とはいえ、原作の世界観をかなり忠実に再現しており、武蔵野婦人としては心に残る映画となりました。

 汗ばんだ肌、地下のタイル張りの浴室の廃墟、さびしげな港町、孤独な男と女たち。そんな世界の中で、標本技師の男は少女を雇い、彼女に「足にすいつくようにぴったりの靴」を贈ります。「これからは毎日この靴を履いてほしい。ぼくが見ているときも、見ていないときも、常に」。そう言って、彼は少女のふくらはぎをつかみ、古い靴をぬがせて両手でかかとを包み込むように、その靴を履かせるのです。靴をぬがせる、靴を履かせるという行為はこれほどまでにエロティックなものだったとわ!! もう武蔵野婦人、脱帽ですわ。

 やがて二人は、地下の浴室で関係を持ちます。靴をはいたまま。常に。このセックスシーンはかなりの見もの。男性にとっては物足りないかもしれませんが、女性としてはかなりいい線いってる。。。。と思うのは私だけでっしゃろか。武蔵野的には、「ピアノレッスン」に匹敵するほどノックアウトされちゃいましたが>笑。むふふぅ。

 さて、ある日彼女のもとに「死んだ文鳥の骨を標本にしてくれ」と一人の男が現れます。彼はもう何十年も港町で靴磨きをしている老人。老人は少女の靴を見て「すばらしい、足に吸い付くような靴だ。こんな靴には一生のうち何度もお目にかかれない」と驚愕します。同時に、「お嬢さん、その靴はいつ脱ぐんだね」と彼は言います。「脱がないと、あなたのあしはもうすでにその靴に侵食されはじめているよ」と。いま脱がなければ一生その靴を脱ぐことはできなくなるという彼の忠告に、少女は答えます。「私、もう脱ぐ気はないんです。この靴に包まれるように、彼に支配されていたいんです」と。
 靴に支配され、男に支配されるという甘美な欲望。女性がどこかで持ち合わせている、支配されることへの希求を、靴というメタファーでこれほどまでエロティックに描いた作品を、私はほかに知りませんです。びっくりしなあ、もう。
 さて、この少女は最後にどんな選択をするんでしょうか? 結末は小説か映画でどうぞ。どちらも女性の心理をたくみについた、良質な作品だと私は思います。


 靴は深遠でエロティック。靴は素敵で、そして怖いです。でも、やっぱり私は靴が好きで、時間があれば靴を見て回ってしまう。私にぴったりの靴、私を自由にしてくれる靴、私をもっともっと素敵にしてくれる靴を探して。靴をめぐる映画はまだまだいっぱいあります。
またこれからもいろいろ書いてみますねー! おもしろい作品があったら、教えてくださいね。

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