スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ジーザスクライストスーパースターをディスクに!

私は無宗教ですが、子供のころから歴史の教科書や聖書などで見聞きしてきた「キリスト教」の世界は、西洋の文化や芸術と抱き合わせになって大きく存在していました。
イエス・キリストやマリアの世界って、年頃の女の子の心を激しく揺さぶる何かがあるんですよね。天使だとか、聖杯とか、洗礼だのミサだの。なんじゃろうなあ、これは。清く美しく、それでいて闇と血なまぐさい歴史をはらんだ、日本人の私にとって未知の世界。

今になって思えば、キリスト教という宗教がはらむ世界と同時に、イエス・キリストやマリアやユダといった登場人物に抱いた少女時代の興味というのは、少女マンガを夢中になって読んだ精神構造とあまり違わなかったのかもしれない、とも思います。
そういえば、似たような感覚で多感な時期に京都や奈良の仏像にはまる子もいました。阿修羅像のプロマイドを下敷きに入れる子、弥勒菩薩のポスターを部屋に貼る子。うん、いたいた>笑。
そんなある種の憧憬をはらんだ偶像崇拝として、キリスト教って実に魅力的な登場人物が多数存在しているように思います。
ふと思い立ったので、今回はそんなイエス・キリストという強烈なキャラクターを描いた映画あれこれ。

パッションパッション
(2004/12/23)
ジム・カヴィーゼル

商品詳細を見る


まず、メル・ギブソンが私財を投じてまで制作したというこの映画。あまりにも拷問シーンがホラー状態ですごいことと、メル・ギブソンって存在がとっても苦手なので私は見ていないし、これから見る気もまったくない映画です(なら、紹介するなってか。。。。)>苦笑。とりあえず一番新しいところで話題になったので最初に。

気を取り直して、もうひとつ聖書に忠実に描いたとされるこんな映画はどうでしょう。聖書に基づいたまっとうなキリストを知りたければ教科書的にはおススメ。中高生が見るならこのあたりかな。

キング・オブ・キングスキング・オブ・キングス
(2007/10/12)
ジェフリー・ハンター

商品詳細を見る


とはいえ、私が面白さを感じるのはこの手の映画ではなく、むしろこちら。

最後の誘惑 (ユニバーサル・セレクション2008年第1弾) 【初回生産限定】最後の誘惑 (ユニバーサル・セレクション2008年第1弾) 【初回生産限定】
(2008/01/12)
ウィレム・デフォー.ハーベイ・カイテル.バーバラ・ハーシー.ベレナ・ブルーム.アンドレ・グレゴリー.デビッド・ボウイ

商品詳細を見る


スコセッシ監督の描くキリスト。
なんたってスコセッシですから。
メル・ギブソンみたいに正義派のリアリズムなんて方向には向かわないわけですよ。しかも出演はイエスにウィレム・デフォー、ユダにハーベイ・カイテル、そしてピラト総督にデビッド・ボウイ! おお、えらいぞ、スコセッシ。
ただしこの映画、敬虔な信者であれば、気持ちの上での抵抗感や嫌悪感で受け付けないかもしれない。ってぐらい、とてもリアルに人間くさいイエスが描かれています。イエスはもともと大工で、磔のための十字架を作るのを仕事にしている場面とか、マリアとセックスをして子供を作って普通の家庭生活をしている映像とか、そんなもんがあれこれ出てきちゃって、公開当時は激しく批判やボイコットの嵐に会い、上映禁止の映画館まで出たのもうなずける映画。

キリスト教という宗教を持たず、さらに文化の中にキリスト教ががっしりと根を下ろしているわけではない日本に生まれ育った私のような日本人は、こうしたキリスト映画を一番楽しめる位置にいるのかもしれない、と思ったりします。
この映画の製作は1988年といまから20年前。この解釈の映画を作るのは決して楽な仕事ではなかったはずです。荒唐無稽なだけではない、スコセッシならではの知性が垣間見える興味深い映画。私は名作だと思うんだけどな。

が、しかし。ですね。
さらにさかのぼること13年。今から30年以上前の1977年に作られた、イエス・キリスト映画の最高傑作というのがあると思っていて、私の中ではこの映画がいまだにイエスの金字塔です。ミュージカルも長きにわたってあちこちで上演されましたが、私はこの最初の映画のバージョンがやっぱり一番いいなあ、と思う。
(日本での本作の舞台は浅利慶太が劇団四季という私有財産を使って、勝手な解釈でむちゃくちゃな演出をしちゃったため、私は四季版のジーザスクライストは同じ作品とは認めてません! っていうか微妙にタイトルを変えてるあたりが本当にひどいと思うよ=「ロックオペラ イエス・キリスト=スーパースター」だなんて。なので、四季版しか観てない人はぜひ最後に紹介しているブロードウエイの舞台収録か、この映画を絶対観てちょうだい!)

とにかく、この映画は私の人生の中でも特別な一作といっても過言でない作品なのです。

ジーザス・クライスト・スーパースタージーザス・クライスト・スーパースター
(1993/04/21)
テッド・ニーリー

商品詳細を見る


この映画は、 「キャッツ」「オペラ座の怪人」などで知られる作曲家アンドリュ・ロイド・ウェーバーによる初期のミュージカルが原作。なんたってここから、『ファントム・オブ・パラダイス』『ロッキー・ホラー・ショー』『ヘアー』といったロックオペラの系譜が生まれていったのですよ! ちょっと奥さん。あの、ロッキーホラーショーよ!! キリストを題材にしているだけでなく、その後のロックオペラの生みの親のような作品なわけっす。
今見ても、新鮮です。ま、最後にエルビス・プレスリーみたいな衣装を着て歌い踊るユダの一団のあたりは、ちょっと時代を感じちゃいますが、でも全体の舞台設定も構成も、とてもよくできた傑作だと思います。

1970年代ですから、時はまさにヒッピーブーム。さらにはベトナム戦争も泥沼化しています。こうした時代背景の中、マイクロバスで砂漠に若者たちがやってきて、鉄パイプやベニヤ張りの足場だけの舞台を作り、ヘルメットにライフル、ジーンズにTシャツというスタイルで、イエス・キリストの最後の7日間を踊って歌いまくるという設定。

イエスには貧弱で色白の神経質そうなテッド・ニーリー(今見るとB‘zの稲場クンにクリソツです。顔だけでなく、高音でシャウトしまくる風情は、まさに稲場節そのものかも。。。。)。さらに、ユダにはアフリカ系の黒人が配役され、娼婦マグダラのマリアはアメリカ先住民系の女性が扮しています。この配役だけでも、当時としては画期的な設定だったんじゃないかな。今見ても、かなり新鮮でわくわく。

この映画で語られるのは、民衆や権力に翻弄されながら、勝手に自己存在を大きくされていく中で、葛藤し、悩む普通の男、イエスキリストです。
マグダラのマリアが歌う「私はイエスがわからない」という曲の中で、マリアは繰り返しこういいます。
He is a man.
He is just a man.
“いままで多くの男を渡り歩いてきた私。どんなときにもクールでいられたのに、なぜ彼のことになるとこんなに心がざわつくのだろう。もし、彼が私を愛しているなんて言ったら、私はどうにかなってしまうに違いない。どうしちゃったんだろう、私。彼は普通の男なのに。”

これはねえ、ほんとに名曲なのよ。うっとり。

ユダの裏切りを知る最後の晩餐の場面も見所です。「お前には失望した」とソウルフルに踊りながら熱唱するユダ。なぜ裏切った、出て行け! とシャウトするキリスト。こんなかっこいい最後の晩餐のシーンはないぞ。

ところがね。
残念なことにこの映画、日本でDVDが発売されていません。VHSも廃盤になっており、手に入るのはアマゾンなどの中古市場だけです(そしてかなりの高値になっています)。一部のレンタルビデオショップでまだ借りることができます。
日本でのDVD化が進まないのは、JASRACがらみの著作権の交渉がうまくいかないという説もあります。海外では出てるのにね。このまま膠着すると幻の一作になる可能性あり。
いまのうちだぜ! 観てない人はぜひビデオで見てちょ。

ちなみにミュージカルの舞台を収録したものは、DVDがあります。私は舞台は生で板の上で見たい派なので映画版の方が好きですが、舞台好きの方はこちらも楽しいかも。
(繰り返しますが、劇団四季の本作品はまったく別のものなので、それしか観ていない人はぜひ映画と以下のブロードウエイ版をちゃんと見てちょうだいな!)

ジーザス・クライスト=スーパースター 【ユニバーサル・ミュージックDVDコレクション】ジーザス・クライスト=スーパースター 【ユニバーサル・ミュージックDVDコレクション】
(2008/03/13)
グレン・カーター.ジェローム・プラドン.トニー・ヴィンセント.ルネ・キャッスル

商品詳細を見る



ビデオが少数コピーで細々と発売され続けたのに比べ、ディスクは大量生産が前提になるため、さまざまな理由でディスク化されずに埋もれていってしまう名作が多々あります。DVDの普及の中で消えていった名作たちが、今度はブルーレイへの変更でさらに消えていってほしくない。

ジーザスクライストスーパースターを、ぜひぜひブルーレイに!!!!
スポンサーサイト

身の丈に合わないブランド映画

あれ、なんだろうこの映画? と思ってDVDをふと手にして、期待せずに見たらなんだかとってもよかった! そんな映画が私は好きです。で、偶然そういう映画に出会えたりすると、なんだかすごく得した気分になります。

一方で、「この監督のこの映画」「この俳優のこの映画」というブランドを背負って、いやがおうにも見る前の期待度が高まる映画というのもあるわけです。ジョージ・ルーカスのスターウォーズシリーズなんていうのは、もうそのブランドだけでわくわく楽しめて、まあ、中身はどうであれ劇場に足を運ぶことそのものがイベントとなって楽しい。007シリーズも大好き。このあたりはもう、ディズニーランドに行くのと同じ感覚>笑。


そんな監督や俳優、シリーズもののブランド映画。みんなが知ってる有名ブランド(でも自慢してこれみよがしにもつのはちょっとかっこ悪い=ヴィトンやシャネルみたいなブランド)から、知る人ぞ知る老舗の堅実ブランド、さらにはマニア垂涎のインディーブランドまで。いろんな楽しみ方があるわけで。正しく楽しめる場合もあるけれど、時にはブランドがアダとなったり、ブランドが邪魔をする映画もあります。今回は私にとっての、「つらかったブランド映画」ってのをテーマにしてみました。

1作目は新作のこちら。
スウィーニー・トッドスウィーニー・トッド
(2008/01/12)
ティム・バートン、マーク・ソールズベリー 他

商品詳細を見る

まだDVDが出ていないので書籍のリンクでごめんなちゃい。

ティム・バートンとジョニー・デップのコンビなら、面白くないわけがない。ってか、このコンビの映画には、「シザー・ハンズ」からの流れを引いた、正攻法の娯楽映画とは違う、えもいわれぬ不思議なサブカルテイストがあるわけなんですが、ま、この「サブカル風」ってのがすっかりメジャーを凌駕する路線になっているわけで、その意味でもこの二人は今やとっても正しい「大衆映画」の担い手となっているように思います。

んなわけで、「面白くないわけがない」と見に行ったこの映画。
えっと。
見た人のどれだけが支持しての、アカデミー賞ノミネートなんでしょか。日本で見た人のどれだけをもってしてのヒット作なんでしょか。
もう意味不明。舞台作品が元になっていますが、そっちのほうがいいだろうなあ、きっと。
「あの」ティム・バートンと「あの」ジョニー・デップのブランド映画。面白いに決まってるでしょ? ほら、これが面白い映画なんだよ。これがクールでシュールな映像なんだってば。そんな無言の空気が始終映画館を支配していたようにも感じた2時間弱。ああ、いったいどこに行くんだ、ティムとジョニー。あ、面白かった人もいますか? ま、ブランドの好みは人それぞれですからね。仕方がありません。


そういえば、私にとっていい意味でも悪い意味でもの最大のブランド監督はこの人です。
ジャン・リュック・ゴダール。

名前は誰もが知っているヌーヴェルバーグの旗手。若いころからあこがれていた有名ブランドのバッグのような存在。ヌーヴェルバッグ、、、、なんちゃって(おやじか、お前は)。
なんたって、このゴーダールというブランドは私の若いころに「勝手にしやがれ」っていう超有名バッグを作って一世を風靡したのです。ああ、あれは素敵だったわねえ。忘れられない。見てよこのジャケット写真。こんなかっこいいもんを10代にリアルタイムに近い形で楽しめたなんて、私はほんとに幸せだわ。

勝手にしやがれ勝手にしやがれ
(2002/09/27)
ジャン・ポール・ベルモンド、ジーン・セバーグ 他

商品詳細を見る

だから、新作が出たら迷わず手にするわ。あったりまえじゃないの!

アワーミュージックアワーミュージック
(2006/05/26)
ナード・デュー、サラ・アドラー 他

商品詳細を見る


これよ! これ、と。わくわくと手にして実際に持ち歩いてみると「あら、これじゃ私の財布は大きすぎて入らない。携帯も化粧ポーチも入らない。財布とポーチを買い換えないと使えないかも。電車に乗ろうと思ったら、改札口でバッグが開かなくてすっごい苦労。ってか、これ。すっごい使いにくくない??????」
…ってなことで、実際には結局持ち歩かなくなってしまうようなそんなブランドのバッグみたいだった「アワー・ミュージック」。
続いて手にしたパッションも、ううむぅううう。


もう見ない、もう手にしないぞ! そう言い聞かせているのに、でもね。新作が出ると「あら、やっぱりこの口金の装飾はとってもきれいねえ。刺繍が丁寧で、さすがだわ。」なんて楽しんでしまう。使い勝手はこの際どうでもいいのね。だってゴダールブランドなんだから。
ま、そう思って見続けているのですが、中身よりブランド名と思わせちゃった時点で作り手としては、もうおしまいじゃないの? (涙)


さてさて。
そんな老舗ブランド。ゴダールの場合は「わけわかんね」とか「彼の時代はもう終わったってことよね」なんてことを、まさに勝手にしやがれ状態であれこれ書き散らせるわけなのですが。同じブランドでも、口が裂けてもそんなことは言ってはいけないような気になる監督というのも、います。

永遠の語らい永遠の語らい(2005/01/28)
レオノール・シルヴェイラ、ジョン・マルコヴィッチ 他

商品詳細を見る

マノエル・ド・オリヴェイラ。1908年ポルトガル生まれの奇才。『アブラハム渓谷』(93)や『階段通りの人々』(94)でも有名なこの監督は、60歳を過ぎたころから旺盛な創作意欲を見せはじめ、1990年から2003年までの間は、一年に1本づつコンスタントに作品を撮っています。す、すご。。。。ってか、こわ。これってつまり82歳から95歳の間にですよ、95歳! このエネルギー、この執念。

「観客の感情だけではなく、理性も納得させたい。
派手な作品であれば、人は振り向きますが、
それらには実は魅力もなければ深さもありません。
観客はもっと素晴らしいものに値するものだと思います。」 マノエル・ド・オリヴェイラ談

オリヴェイラは観客に理性と知性と深い理解力を容赦なく求めてきます。あたかも、「私のこの映画を理解するあなたは、素晴らしいものに値する」とでも言いたげに。逆に言えば、理解できない私は何者にも値しない。そんな試され方をされているような気分になることも多い彼の作品。

この「永遠の語らい」をすべて見終わるのに4日間かかった私は、すみません、もう何者にも値しません。ごめんなさい。顔洗って出直してきます。もう、そんな風にしか言えない気持ちになるのがオリヴェイラ作品です。「ゴダールの時代は、やっぱりもう終わったよね」なんていうのと同じレベルで、決して語れないこの監督の底力、オーラ。何なんだろうと思います。難しく、静謐で、見るものを拒むようなこのストーリーの中に、大切な何かを見出せる人になりたい。そんな気分になります。


オリヴェイラと同じ視線で、「わからないとは到底いえぬ。頭をたれて己の至らなさを認めます」といわざるを得ないもうひとりの監督がこの人。
素敵な歌と舟はゆく素敵な歌と舟はゆく
(2002/10/02)
オタール・イオセリアーニ、ニコ・タリエラシュヴィリ 他

商品詳細を見る


オタール・イオセリアーニ。こちらは1934年旧ソ連グルジア共和国生まれ。99年、カンヌ国際映画祭に特別招待作品として出品されたこの『素敵な歌と舟はゆく』は、ルイ・デリュック賞、ヨーロッパ映画アカデミー選出による年間最優秀批評家連盟賞を受賞てロングラン・ヒットを記録しました。
独特なイオセリアーニワールド。えっと、嫌いじゃありません。こういう世界は大好きなはず。うん。でも、大好きだから気持ちよくなって全部見るのに5日もかかっちゃったのかしら>涙。 でも「退屈です」とは絶対に言えません。そんなことを多少は映画に造詣のある人たちの間で言ったら、「顔を洗って出直してきなさい」といわれてしまうこと必須です。だってイオセリアーニなんですもの。

なんていうか、そういう批判を許さない雰囲気のブランドというのは、あるものなのだと思います。とにかく、この「素敵な歌と船は行く」は傑作なのです。傑作ということになっているのだから、その価値がわかる私であらねばならぬわけで、そこに到達するには少々修行が足りないと思う私は、静かに頭をたれて己の至らなさを恥じて認めて、あとは黙して多くを語らず。それが正しいイオセリアーニの鑑賞方法。が、がんばる!

ちなみに、「素敵な歌と~」の次の作品は
月曜日に乾杯!月曜日に乾杯!
(2004/05/08)
ジャック・ビドウ、アンヌ・クラヴズ=タルナヴスキ 他

商品詳細を見る


これは、私は下高井戸シネマで見た記憶があります。何度か船をこぎながら、でもちゃんと楽しく鑑賞終了。で、改めて思うのですが、ゴダールもオリヴェイラもイオセリアーニも、やっぱり劇場で見るべきブランドなのだと思います。私の暮らしの中に持ち込んで、休日のベッドの上で私の意志でいつでも巻き戻したり一時停止できるような状態で見るべき映画ではない。映画館という彼らの場所に私が出かけていくことで、でじっくり対峙するのに見合った監督というブランドなのではないかと思ったりもします。
自分の暮らしの身の丈の中で楽しむだけじゃなくって、たまにはちょっと身の丈に会わないもの、なんか自分とは違う世界だなあと思うものにも、ちゃんと向き合うことも大事だと思わせてくれるブランドの存在って、実はとっても大切なのかも。

何年かあとに、また見てみたいと思う映画たちです。


ああ、その意味ではティム・バートンの「スウィニー・トッド」は、休日のベッドのDVDで見ればよかった映画。あ、違うか。そこで見たらたぶん、開始15分でやめちゃってるかも>笑
どちらにしても、ブランドはブランド店で。
ドンキ・ホーテやコメ兵なんかの売り場で見ちゃだめ! ってこと。
きちんと正規ブランド店に足を運んで見るというのが、正しいのかもしれません。

アメリカ的3つの潮流

 私はどちらかといえばヨーロッパ系の映画を多く見ます。いや、アメリカ映画が嫌いというわけじゃないのですよ。だって、これまでの人生で見た中で一番好きな映画をあげろといわれたら、出てくるのはやっぱりアメリカ映画。昭和30年代生まれの私の人生にアメリカが及ぼした影響は大きい。映画も音楽も文化もファッションも、アメリカ抜きになんて語れません!

 でも、だからこそ。今のアメリカと、そして今の日本の中に流れる「アメリカ的なもの」への強烈な警戒心もあるわけで。特に、日本のビジネスシーンにおけるアメリカ的なものにとても違和感を感じることが多いです。横文字のビジネス用語も、企業の現状も、何がわかっているわけでもないから何を言っても鼻で笑われちゃうだけなんでしょうが。ま、でも苦手なのよ。嫌いなの>笑。
 そんな苦手のソースが詰まっている映画を今日は3本。この中に垣間見える現代の悪習(と勝手に私は思っている)について今日は書いてみようと思います。

 
不都合な真実 スペシャル・コレクターズ・エディション 不都合な真実 スペシャル・コレクターズ・エディション
ドキュメンタリー映画、アル・ゴア 他 (2007/07/06)
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン

この商品の詳細を見る


「不都合な真実」の映画自体に文句を言ったら、環境保護団体とかエコ系の人々から石が飛んできそうです>笑。でも私が注目するのは、この映画の骨子を構成している「プレゼンテーション」の技法。
 
大画面の左端から、どんどん上昇を続ける地球の気温。真っ黒な背景の中、真っ赤な棒グラフが会場の背景を左から右に上昇を続け、最後の一本の残したところでとまります。ここでゴアは「ちょっと待ってください。うまく使えるかな?」と、おもむろにスタジオ用のリフトに乗り込むことになります。上昇するリフト、上昇する最後の1本の真っ赤な棒グラフ。上がる上がる、どんどん上がって天井に近い場所でストップ。「このまま温暖化が進めばこうなります」と指し示すゴアは、はるか頭上。想定していた視界を越えることを体感した聴衆はここで、ただならぬ非常事態を感じることになります。

グラフの説得力を実際の距離感に置き換えて、聴衆の度肝を抜く演出。フラッシュインしてくる衝撃的な映像。多方面からの畳み込むようなデータの投入。そして突然挿入される、息抜きアニメーション。これもまた、聴衆を飽きさせない巧みな構成。いや、本当にお見事。

地球温暖化については、とりあえず横におきましょう。これはもっと慎重に語られるべきことで、この映画のプレゼンテーション技法とはまた別の場所に位置するものです。私にとってこの映画が興味深かったのは、ビジネスシーンで不可欠とされているプレゼンテーションの技法として、学ぶべきものがこの映画には多く含まれているからです。
さて、ではプレゼンテーションとはいったい何なのでしょうか。Wikipediaによるとこうした定義がなされています。

“どのような組織でも意識や情報を集団として共有しなければ、複眼的にその事案を検討して組織的に取り組むことができない。そのためにアイディア、計画、情報を複数の人間に対して同時に伝達することを目的として、プレゼンテーション(以下プレゼン)は実施される。”

なるほど、確かに。しかし、複数の競合の中から、企画の採用を決めるために行われるプレゼンテーションでは、ありのままの真実を伝えて共有するだけでなく、効果的に自分たちの主張を相手に納得させるための技法が必要となってきます。人の心理をたくみについて、驚きや、ショックや娯楽を織り交ぜたプレゼンテーション技法は、マイクロソフト社のパワーポイントなどの普及に伴い、どんどん進化している。

私がゴアのプレゼンを見て感じたのは、この手のプレゼンテーションは諸刃の刃だということでした。彼の言っていることはとてもシンプルなのです。講演は長いですが、その中で語れるのはさほど複雑なことではない。シンプルな現実を、多方面からのデータを効果的に見せ、アトラクションを盛り込んで深くインプットさせ、危機感、不安をいやおうなくあおった後、その後に取るべきアクションも情緒的に示唆する仕組み。

ニュートラルに事実を提示して判断を聞き手に任せるのではなく、これは明らかに「説得」を目的としたビジネスプレゼンテーションの技法です。
動く映像、ショッキングな展開でアトラクション化したプレゼンテーションは、時として「洗脳」に近い効果を生み出すこともあります。ここに「真実」と名をつけて適応されることは、私にはとても違和感があります。この手のプレゼンを見極める目を持ちましょう。切にそう思います。

 さて、では「真実」って一体何なんでしょうね。ここで私は思い出すのはこれ。

華氏 911 コレクターズ・エディション 華氏 911 コレクターズ・エディション
ドキュメンタリー映画 (2004/11/12)
ジェネオン エンタテインメント

この商品の詳細を見る


 いや、もう手垢にまみれたような映画ですが。ごめんちゃい。
でもね。マイケル・ムーアの一連の作品は、「真実」とは一体何なのかを考える上で、私にはとても興味深い映画たちなんです。
 たとえば、同じ映像も切り取られ方によって、メッセージはいかようにも編集することができます。前後の脈絡を切り落とし、都合のいい場面をつないで、扇情的に構成すれば、事実はカンタンに別のメッセージに編集することができる。

 私は思うんです。この世の中にあるのは「現実」と「事実」だけ。その事実は数限りなく、さまざまな価値観と視点で存在している。ある人にとって正しいことも、対峙する側からはまったく違う主張にもなるわけで、たった一つの「真実」なんてどこにもありはしないのだ、と。
 マイケル・ムーアは、こうした編集の技法を用いて、「事実」を「真実」に変容させることのできる稀有な才能のある人だと私は思います。本来報道は、こうしたフィルターを通さず事実を伝えるのが仕事だと私は思います。でも、最近のニュース番組や新聞は、彼が行っているのと同じような編集作業を多く行うようになりました。

 「不都合な真実」で多用されたプレゼンテーション技法は、下手をすれば「洗脳」につながる力を持つと感じるのと同じように、メディアの過剰な編集技法の発達は、まさに「都合のいい真実」を作る原動力になってしまう。とっても怖い。

 最後に、アメリカ的表現技術の発達の中で見逃せないのが、私にとってはこれ。

 
サンキュー・スモーキング (特別編) サンキュー・スモーキング (特別編)
アーロン・エッカート.マリア・ベロ.キャメロン・ブライト.ケイト・ホームズ (2007/09/07)
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン

この商品の詳細を見る


 主人公はタバコ会社が共同で運営する「タバコ研究アカデミー」の辣腕ロビイストです。ロビイストって何? ってえと、こういうこと。

「ロビー(「政治家の控室」の意味)で活躍する者の意味。政治的圧力団体の代理人として、政党や議員や官僚、さらにはマスコミや世論に働きかけて、その団体に有利な政治的決定を行わせようとする者。

 この映画の場合は、「たばこ産業」に優位な活動を行えるように配置されている、PRマンのことをロビイストと呼んでいます。背後で暗躍しながら、口のうまさであちこちを言い含めて、自分たちに都合のいい政策を通したり、販促活動を行っていくためのキーマンとなっているのが、この主人公ニック。

 彼の特技は「ディベート」です。そう、ディベートよ。いやあ、ほんとディベートってほんとにアメリカ的だなあと私が感じるもののひとつ。(アメリカに特化しませんけどね。でも日本にはなじまないものであるのは、確かという気がします)。
 この映画は、「タバコ」というどう考えたって勝ち目のない社会悪を、この主人公が「ディベート」の力を持って正当化していく悪戦苦闘を描いた作品です。

いやね、私はタバコ敵視派じゃありませんの。エキセントリックな嫌煙運動には距離をおいています。だから、こうしてある種絶対悪となったものを擁護する視点は嫌いではありません。それでもこの映画は、いけませんでした。決定的におもろくない。
 なぜか。それは、主人公がよって立ってる場所が「ディベート」だけだからです。

 相対する思想を批判したり、別の事実の側面に光を当てるためには、冷静なデータの提示と、新しい視点でのデータの読み解き方が必須だと私は思っています。たとえば

反社会学講座 (ちくま文庫 ま 33-1) 反社会学講座 (ちくま文庫 ま 33-1)
パオロ・マッツァリーノ (2007/07)
筑摩書房

この商品の詳細を見る


 社会学としては破綻しているかもしれないけれど、そこを論破していく上での手法が秀逸の本。おもしろいです。相手を言い負かすためには、それなりの有無をいわせぬデータや資料が必要だということがわかります。そうした「禁じてのデータ使用法」が満載。いくら口先がうまくても、根拠がなければ相手を納得させることはできません。

「サンキュー・スモーキング」を観ても、ちっとも胸がすく思いがしないのは、彼のロビー活動にこうした確固たる根拠がなく、ただ単なる「言葉遊び」に終わっているから。
結局は、釈然としないが知らないうちに術策にはまって言い負かされてしまった、という後味が残るだけ。そして、そこに安っぽい家族愛を盛り込んでしまったことで完全に主題を見失ってしまいました。もったいない。「たばこ」がテーマならもっともっとおもしろく作れただろうに。
あ! 違うか。タバコがテーマだったからこそ、ここまでしかできなかったのかもしれません。絶対悪を喝破する禁じ手のデータ提示なんてしたら、それこそこの主人公ニックのように、反対派につかまって拉致されてニコチンパッチを体中に張られて死に掛けてしまうからね。


昨年、小学校6年生だった息子の授業参観に行ったら、国語の授業で「ディベート」を試験的に行っていました。ま、これはひとつの技術でもあるわけで、知っておいたほうがいいことも中にはある。
でもね、私は息子には、ディベートの達人になんて、なってほしくありません。こんな技術を磨くぐらいなら、もっとほかにやるべきことはたくさんある。ビジネスシーンでディベート技術が問われる場面はたくさんあるとは思うけれど、でも

・プレゼンテーション技術と
・情報編集技術と
・ディベート能力

を備えたニンゲンなんて私は信用できないもんね。ぷん。そんな場所から発信される「真実」ほどうさんくさいものはない、と私は思うよ。
(でもさ、現実には上記3つを満たすビジネスマンって有能なんだよね、たぶん)。

ま、結局世の中の時流には乗れない私なのですな。とりあえず、武蔵野の端っこからほえてみました。

まだまだ知らない世界のこと

あなたになら言える秘密のこと ブエノスアイレスの夜  デビルズバックボーン 僕の大事なコレクション 

私は戦争映画は手にしません。戦争の悲惨さを伝えたいなら、もうそれはいやというほどわかってる。それを知るために、敢えて想像を絶する苦しみや悲劇を「家でDVDを見る」という行為で自分の暮らしに持ち込むのは、避けているんです。
戦争映画で興奮したり、ハラハラドキドキしたくもありません。だから楽しむためにも手にしない。映画はあくまでも、自分の心の世界をちょこっと広げていい気持ちになるためのもの。そのスタンスは変わりがないのです。

ところが、戦争映画ではないと思って観た作品の中で、思わず歴史の残酷な側面を突きつけられて、呆然と立ちすくんでしまうこともあります。

たとえば、これ。
あなたになら言える秘密のこと あなたになら言える秘密のこと
サラ・ポーリー.ティム・ロビンス (2007/08/24)
松竹

この商品の詳細を見る

死ぬまでにしたい10のことで一斉を風靡したイザベル・コイシェ監督が、同じく主演にサラ・ポーリーを配して製作した作品。前作の、若くして命を落とす母親が、死ぬまでにしたいことを10書き出して実行していくというストーリーは女性誌などで多く取り上げられることとなり、その余波もあってか、今回のこの作品も同様のプロモーションになりました。
なんたって、あーた。「どんな傷・過去を持っていても、人生には“生きることの喜び”=“スパイス”があることを教えてくれる“ライフ・スパイス”ムービー第2弾」だってよ。傷ついた女性の再生の話、と聞けば若い女性は飛びつきます。私もそうして再生したい! とね。

しかし、後半明らかになっていく主人公ハンナの抱えていた「秘密」は、今の社会に生きる日本人である私たちが想像できる「秘密」の域を大きく超えています。よくもこれを、ライフ・スパイスムービーだなんて言えたもんだね。感性を疑うよ、感性を!!
語りすぎるとこれから観る人の映画の楽しみを奪ってしまうので、この場合は黙して語らず。でも、この映画の背景に深く横たわる“内戦”の部分を、敢えて全面に押し出さず、全編を通して無国籍であいまいな舞台設定をしているところに、この監督の技量を感じます。エキセントリックに主張しないからこそ、深く静かに残酷なのです。

世界の貧困や飢餓、繰り返される戦争の現実を「知らないことは罪だ」と言う人(新聞までもがそう言いやがる>笑)もいるけれど、私は思うんです。「知らないこと」は仕方がないことなのだ。知らずに生きてきた人を誰も責められない。いけないのは「わからないこと」だ、と。
思いがけない歴史の一面を垣間見る映画を、日本の興行会社は単なる恋愛映画、人情映画として売ろうとします。重い歴史を前面に出しても売れない。だからおしゃれに味付けをして、ジャケットも人の気を引くように作ります。でも、パッケージにだまされて、その奥に隠れた現実を見逃しちゃいけない。そう思います。

この映画を観終わって、「誰にでも心に傷を負ってるの。でもそれは再生できる! 心の通い合う人との出会いで、人は生まれ変われるのね」なんて感想を持っちゃいけない。以前から東欧の歴史については本当にわからないことが多いと感じていたので、ちょっとだけ調べています。そうして、映画を通して少しづつ世界が広がっていくって、大切なことなんだなあ、きっと。そう思います。

こちらは、ガエル・ガルシア・ベルナルをエロティックに配して、いかにも気を引く作りでプロモーションされた作品。

ブエノスアイレスの夜 ブエノスアイレスの夜
セシリア・ロス、ガエル・ガルシア・ベルナル 他 (2005/06/24)
アット・エンタテインメント

この商品の詳細を見る


主人公のセシリア・ロス(アルモドバル監督 オールアバウトマイマザーでその存在感を見せ付けたベテラン女優です)は、壁越しに若い男性にエロティックな官能小説を読ませ、その声を聞きながらオナニーにふけるという性癖を持つ女性。
中年女性と美少年の倒錯したエロス。ベルナル君がきれい! とかなんとか騒いだ女性も数多くいましたが、これはアルゼンチンで 1976年に起きた軍事クーデターを色濃く背景に残した映画だったのでした。主人公の女性は長期化したアルゼンチンの軍事政権下で、政治犯として拷問を受け、そのトラウマで人との肉体的接触ができなくなっている。その中で、若い男娼との上記のやりとりがあるわけです。
ベルナルのHなシーンが観たい! と手にした映画で突きつけられる、地球の反対側アルゼンチンの現実。その過酷な重さに、映画のイメージは一転していきます。
「えー、なんかそんなことぜんぜん知らないけど、ベルナル君はきれいだったー。このおばさんちょっと怖い」なぞというレビューも垣間見ますが。ぷんぷん。ベルナル君きっかけていいからちょっと関心を持っておくれ!

もうひとつ。知っているようでまったくわかっていなかったのが、スペインの歴史でした。これは映画をみていると、ことあるごとに見え隠れして、そのたびに自分の無知を痛感します。たとえばこれなんかはどうでしょう。

デビルズ・バックボーン スペシャル・エディション デビルズ・バックボーン スペシャル・エディション
エドゥアルド・ノリエガ、マリサ・パレデス 他 (2004/12/10)
アスミック

この商品の詳細を見る


ホラーの鬼才ギレルモ・デル・トロ 監督。製作はアルモドバル。スペインの荒野に建つ孤児院を舞台にしたホラー映画(最後はスプラッタも満載>涙)ですが、背景に横たわるスペイン内戦の事情がわからないと、この映画は単なるスペイン製どろどろホラーで終わってしまいます。20世紀のスペインは、まさに激動の歴史がある。でも、私はこのあたりを詳しく知りません。内戦が絶えない地域としてインプットされている国々とは、一線を画した情報だけを受け取って生きてきたのだなあ、としみじみ痛感。
もう少しわかれば、映画を通して見えてくる世界は変わる。そう思うたび、知らなかったことに日々目を向けていくことの大切さを感じます。

最後にもうひとつ。
最近見た映画の中で、一番心にせまる歴史を教えてくれたのはこの映画でした。

僕の大事なコレクション 特別版 僕の大事なコレクション 特別版
イライジャ・ウッド、ユージン・ハッツ 他 (2006/11/03)
ワーナー・ホーム・ビデオ

この商品の詳細を見る


主演のイライジャ・ウッドをPOPに配したこのジャケット。そして、この邦題。一見コメディとも思える冒頭からのシーン。主人公のアレックスは、ユダヤ系アメリカ人で、アメリカに住んでいます。彼が故郷のウクライナに旅することから始まるこの映画。
後半見えてくるのは、ウクライナという国が抱えてきた過去の重すぎる歴史と、ユダヤ人という民族の想像を絶する悲しみと絶望です。多くを語りすぎないのが、逆に重すぎる過去を浮き彫りにしていきます。
この思いがけず重いテーマをバランスよく中和しているのが、イライジャ・ウッドのPOPな存在感と、ウクライナ(実際の撮影はチェコでされたそうです)の広大な自然、そしてウクライナの人々の天真爛漫さと、随所に挿入されるロマの音楽。
観終えて、静かな静かな涙が流れました。人間が抱えてきた数々の愚行と悲劇。繰り返してはいけないのに、いまだ世界は同じ人間を大義名分のもとに殺しあっているという現実。

ウクライナ、ユーゴスラビア周辺の歴史については、本当に何もわかっていない私ですが、それでも「知らなくてはいけない」と知らしめてくれたのが、エミール・クストリッツァ監督の一連の作品でした。これはまた今度!

戦争映画は観ない! とこれまで私が思ってきた映画とは、アメリカが作った映画だったのだ、と今改めて思います。
アメリカが戦争を始めたのは、まだ歴史的には日が浅い。ヨーロッパのように、遠い遠い過去から隣国と戦争を繰り返し、自国民を殺され、他国民を殺し、多くの悲劇にまみれた過去と現実を背負いながら成立している国々とは、まったく異質の文化を持つ国。9.11の同時多発テロから昨日で6年が経過しました。崩壊するワールドトレードセンターの風景を痛みを持って思い起こしつつ。それでもやはり、これからも私はアメリカの作る戦争映画は観ないだろうな、と思ったりもします。

まだまだ知らなくてはいけない世界がいっぱいあることを、映画は教えてくれます。少しづつ少しづつ、世界を広げていきたいなと思います。

善意という名の残酷

ヴェラ・ドレイク
秘密と嘘 人生は、ときどき晴れ

 高校生のころ、電車に乗っていたら背後で大きな声が聞こえました。
「あなた、ここに座りなさい。ほら、あいているから!」
しゃべっているのは中年のおばさま。話しかけられているのは、どうやら生まれつき障がいをもっているのでは、と思われる若い男性でした。手足が不自由なので、足をひきずって歩いてきたところを、おばさまに呼び止められた模様。
思い思いの方向を見ていた車内の乗客の視線が、一気に声の方向に集まりました。

「いえ、いいです」と、か細い声で彼。
「いいのよ、ほら、座りなさい。私はすぐ降りるんだから。」
「だいじょうぶです」と、さらに消え入るような声で彼。
「遠慮しなくていいのよ。だってあなた、立っているの大変でしょう? ほら、座りなさいってば。善意には素直に甘えるものよ」。
男性は、黙って下を向いたまま、最後まで譲られた席に座ることはありませんでした。一瞬、いっせいに彼に注がれた車内の視線は、やがて心もとなく宙をさまよったのち、やがてそれぞれの手元の本や、社外の景色に戻っていきました。うう。なんともいえない居心地の悪さ。車内に漂ったあの空気、ずっと忘れられません。

確かに、彼のたたずまいと歩くしぐさは、一瞬人の目を引くものがあったのは確かです。でも、このおばさまがいなければ、たぶん私にとって彼は風景の片隅で通り過ぎていくだけだったはず。それなのに、おばさまの一言が、車内の目をいっせいに彼にひきつけてしまった。相手が明らかにSOSを発している状態に声をかける、人の手があったほうが助かるだろうと思われる場面で、さりげなく手を貸す。そんなことを自然にできるといいなあ、と思っていた私にとって、「無自覚な善意って時として残酷」と思わせてくれた、人生でたぶん、これが最初の体験。

ヴェラ・ドレイク ヴェラ・ドレイク
イメルダ・スタウントン (2006/02/24)
アミューズソフトエンタテインメント

この商品の詳細を見る


 この映画を見たあと、そんな高校時代の風景をふと思い出していました。そう、善意って、時としてとても残酷。善行をおこなっている人が確固たる信念を持っていること、そしてその「善意」という正論を前にすると、誰も意見や反論ができなくなること。そして、その善意がどんな結果を生もうとも、「善意だったんですから」というエクスキューズがあることで、さまざまなものが見えなくなってしまうこと。そして、何よりも人は、誰しも心のどこかで「善き人でありたい」と願っていること。

無条件に、そこにあれば受け入れられてしまう「善意」という名の玉手箱は、実は扱いがとても難しい。車内で席を譲るという日常のささやかな行動なら、おせっかいおばさんとして好意的に受け止めることもできるかもしれないけれど、それが「社会の中で困っている人を救う」「世界の中で困っている人を救う」「危機に瀕した地球を救う」なんていった正論を手にしたとき。善意は人を癒して救う力を持っている反面、人を傷つけたり、関係をゆがませたり、時として罪につながることもある。現在あちこちでおこなわれている、環境保護、難民救済、社会活動の中で、無自覚の善意が引き起こしている問題って、実は結構あるのではないですか。まあ、そのあたりは語り始めるといろいろ反論もあると思うので、とりあえず今回は「ヴェラ・ドレイク」という映画にテーマを絞りませう。


「ヴェラ・ドレイク」は、善意のかたまりのような女性が、無邪気な善行の名のもとに必死でおこなった行為が、罪として裁かれていく映画。その分、見終わったあとのやりきれなさは一級品です。
さすが、社会派人間模様を描かせたら秀逸の、マイク・リー監督作品。
1950年代ロンドン。当時、堕胎は罪として禁止されていました。堕胎も離婚も許さないキリスト教の厳しい戒律。結婚と出産に関する、こうした禁忌の背景には「すべての子どもたちは愛のある夫婦の下で、望まれて生まれてくる」という、揺るぎがたい「正論」が存在するように思えます。

でもさ、現実はそんな正論どおりになんて決して運ばないよね。レイプされて妊娠した子。恋人に暴力を振るわれたのちに、捨てられたあとで妊娠がわかった子。不倫の子をみごもった子。セックスの代償として、妊娠を引き受けるのは常に女性の側なのに、愛と正義の自己責任を問う社会の倫理観は、第三者(男)の無責任な行動で被害にあって「正論をはずれてしまった」女性たちの救済に門戸を閉ざします。堕胎手術は違法であるだけでなく、高額な費用がかかり、さらにはやむを得ずそうした手術を望んだ場合、手順を踏むうちに望まぬ妊娠が社会に公表されてしまう。

こうした現実の中で、「困っている娘さんが、たくさんいる」。ヴェラは、ただその現実に突き動かされるように、純真に、無垢に女性たちを「救おう」と思うのです。若いころに見よう見真似で身につけた、「せっけん水を大量に膣内に注入する」という方法を使って。


ヴェラ・ドレイクを演じるイメルダ・スタウントン は、多くの部分をアドリブでこなしているのだそうです。これは、マイク・リーの常套の演出方法で、役者に事前にシナリオを渡して入念な打ち合わせをすることなく、役者をその場に置くことで湧き出してくる、役者個人の感情やせりふを拾い上げて、1本の映画にする。「秘密と嘘 」「人生は、時々晴れ」など、この手法で珠玉の作品が生まれています。(まあ、好き嫌いはあると思うけどね。私は大好きな監督さんの一人です)。

「ヴェラ・ドレイク」というこの映画は、多くの部分がこのイメルダ・スタウントンの地の演技で成り立っています。そして、彼女の存在感はまさに「善意の人」。どこにでもいるような、気さくでやさしいおばちゃん。難しいことはわからない、説明を求められたら混乱する、罪を指摘されたら、ただただ泣く。そんな虚飾のない、演出を排除した彼女の泣き喚き、混乱する映像が延々と続くことで、観客はさらに「彼女の純真な善良さ」と確認するわけです。


当初、この映画の劇場予告や、PRでは「家族の愛」が強調されていました。やさしい母であり妻であるヴェラを支える家族。彼女が無自覚に犯した罪を家族が知ったとき。打ちひしがれる彼女を支える夫と、見守る家族。。。。。という映像が繰り返し予告で流されました。うむ。

この映画を、そうした「善意の人ヴェラ」と「彼女を支える家族の愛」という視点で切り取ってしまうと、大事なところを見落としてしまうのでは、と思います。日本では、どうしても家族愛などのウェットなものが好まれるため、本来重いテーマを含んでいたものを簡単に情緒的な「家族」「愛」「人生」なんていうものに置き換えてしまう、悪い癖がある。でも、私にはこの映画を、単に「善意の人ヴェラと家族の愛情物語」としてマイク・リーが作ったわけないじゃん、と思います。この家族は、映画のエンディングで決して再生なんてしていないことがわかります。ヴェラの善意がもたらした罪を、今度は家族が全員で背負うことになる。最後には家族の愛が歴然と存在する中で、こうしたやるせない崩壊感が漂います。愛があれば再生するわけじゃないんですよ、人間の関係性ってね。本当に、重い重い映画。


善意という名の残酷。善意という名の愚行。
ヴェラの「娘さんを助ける」という無垢な願いは、結果的にずさんな民間医療行為で逆に女性の命を危険にさらす、という結果をもたらしただけでなく、法を犯したことで、ヴェラを取り巻く家族の日常をも瓦解させてしまう。その過程で、常にヴェラが実直に善意に満ち溢れて、邪念のかけらもないことが、この映画のやるせなさの根源かもしれないと思います。
そして、こうした邪念のない、しかし方向性を間違えた善意が、法社会の中では無常に裁かれていくという側面も、また見逃せない。正論をはずれたものを救済せず、そこを善意を向けたものを裁く社会の残酷さと、そこに対峙する無邪気な善意という残酷さ。

イメルダ・スタウントンはこの映画で、主演女優賞を総なめしました。これが演技だとするならば、ですが>笑。私は、過剰な泣き、わめき、慟哭がとても苦手な部類だったのですが、逆にこの拒否感が、彼女の善良な愚直さを際立たせて、映画としては大きな効果を生んだのかもしれない、と思います。


とにかく、善意とか正論と名のつくものは、取り扱い注意なのだ、と私は思います。正しい姿、善き人、正義感。「正しさ」を語るのは実はとても簡単なんですよ、実際はね。雛形が流通しているし、どんな語り方をしても反論が出にくい。で、受け取る側も、「悪しきもの」に惹かれる人よりも、「正しきもの」に惹かれる人のほうが、総数としては多いと思う。

でも「正しさ」を貫く社会は、キリスト教的に善と悪を二分法で対立させてしまうことになり、その間にたゆたうファジーな発言を切り捨てていくという怖さをあわせもっている。権威がおこなう発言規制など必要とせずに、正しさばかりが語られる社会の雰囲気の中では、自然と人々は自由に意見を発するのを自粛する。正しさがまかり通る社会は、ホントはとってもとっても怖いなあと私は思うのです。人間なんて、人生なんて90%はファジーなもので構成されているというのにさ。

危機的な地球環境と、頻発する戦争と民族闘争を背景に、人々は「正しさ」を希求する方向に向いている。エコロジー、ロハス、シンプルな生活という「正統」に向いたライフスタイルが尊重され、朝食を食べましょう、家族で食卓を囲みましょう、子どもを抱きしめましょう、というプロパガンダが流通する中で、親学を提言する政治家までが出現しはじめた現代の日本。
世の中が正論と善意を求めだす、こうした「迷いの時代」には、どんどん正論や善意を語る人が増え始めます。なぜって、正論を語るのは実はとっても簡単なんだもの!>笑 そして、世の中にはこうした正論の雰囲気を察知して、にわかに元気になる人種ってのが、いるもんだと思います。こういう人たちが元気になる時代というのは、怖いです。とても、きな臭い。
無自覚な善意の残酷さとともに、こうした確信犯の正論の暴力というのも存在していて、これが今の私にとって大きなテーマ。これについてはまだまだ思うところがあって、あれこれ映画を見続けています。また書けるようになったら、いつか。

FC2Ad

ネット通販

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。