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純愛の正体

ロミオとジュリエットある愛の詩世界の中心で、愛をさけぶ マディソン郡の橋ブロークバック・マウンテン

 ロミオとジュリエットに始まり、ある愛の詩の系譜を経て、なにやら最近は地球上のどこに存在するのかさえわからん場所で愛を叫けぶ話に号泣する人続出で、純愛ものはいつの世も不動です。

ある愛の詩 ある愛の詩
アリ・マックグロー (2006/11/02)
パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン

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世界の中心で、愛をさけぶ スタンダード・エディション 世界の中心で、愛をさけぶ スタンダード・エディション
大沢たかお (2004/12/23)
東宝

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 この純愛もの。仕掛けは意外と単純です。純愛が純愛として完結するためには、恋という感情の発露がまだフタバぐらいの発芽のうちに、何かの外的要因によって中断される必要があって、その一番安易な切り札として「死」が存在する。芽吹いたばかりの愛情は、若葉のうちに摘み取られてこそ純愛なのであって、多くの純愛物語は、この古典的手法でいとも簡単に成り立って、そのくせ多くの人の支持を得るという、非常に費用対高価のいい働きをする分野なのであります。

 純愛は、期間が短いのも特徴です。ロミオとジュリエットは出会いからたった2日そこそこの間の話というのは有名だけれど、まあ、純愛と言われるものの多くは、せいぜい数ヶ月の恋の発芽を扱ったものが多く、愛をはぐくむ中で生まれてくるはずの嫉妬とか疑いとか、執着や裏切りという本葉がちらほら混じりはじめるまえに、強制終了ボタンを押して「美しいままとっておきましょう」と。
 純愛ってのはイコールHをしない! と受け取っている人もいるようですが、ガチンコにセックスをしたとしても、純愛は成立します。短くも美しく愛し合ったのちに引き裂かれた二人の記憶=純愛。心底愛した、激しく愛したと思えるのは、相手と正面から四つに組んで愛情をぶつけあったからというよりも、単に障害があったからこその産物なのですが、それをもって「真実の愛の物語」という公式が成立しているわけです。
 しかし。そんな、どちらかといえば「恋の幻想」である物語が今さら受ける時代って、なんかちょっと不安だわあ、わたし。みんな、ちゃんと愛し合ってるかい? 嫉妬とか執着なんていう愛情のダークサイドにも、ちゃんと向き合ってるかい? ってか、向き合いたくないから純愛が受けるんだろうけどね。



 さて、この純愛映画。圧倒的に若い世代がヒロインの純愛物にも、異色の例外があります。「マディソン郡の橋」。

マディソン郡の橋 マディソン郡の橋
クリント・イーストウッド (2006/10/06)
ワーナー・ホーム・ビデオ

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 小説の上梓の頃と、映画の封切り後は、私の周りではこれに号泣した中年女性が続出でした。

 アイオワ州マディソン群の農場で、夫と二人の子供に囲まれた平凡な主婦だった主人公フランチェスカ。夫と子どもが不在の4日の間に、通りかかったカメラマンと恋に落ちます。若者の未熟な恋ではなく、年齢を重ねた二人が、抑制を利かせながら燃え上がる気持の前で逡巡する。

 4日間だからこそ、美しいまま残った恋愛の記憶。この二人があの時、マディソン郡の橋のたもとから逃避行したとしても、その先にはいさかいや破局が待ち構えているのは、誰の目にも明白。最後には愛に苦悩しながらも理性を選んだフランチェスカに共感した女性が多かったわけですが、女性が「これまでの人生を、再び生きる力を得るための不倫」という新しい手札を得たという意味でも、エポックメイキングな映画だったと思います……などと言っては、ミモフタもないですか。

 成就せずに引き裂かれた愛の行き先にあるものを、「今までと変わらない平穏な家庭生活に戻る幸せ」におき、なおかつ不倫を美しい純愛という思い出に昇華させたところに、この物語の新しさがあったのだと思います。結果的に主人公の人生がハッピーエンドに終わったのだという余韻を残したあたりもうまい。まさに、年齢を重ねた女性のための純愛映画なのだと思います。(わたしはちっとも泣きませんでしたが>笑)。

ブロークバック・マウンテン プレミアム・エディション ブロークバック・マウンテン プレミアム・エディション
ヒース・レジャー (2006/09/22)
ジェネオン エンタテインメント

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 もうひとつの変り種の純愛ものが、この「ブロークバック・マウンテン」です。こちらは、同性愛への激しい偏見があった時代のアメリカ、ワイオミングのブロークバック山を舞台にした、二人のカウボーイの物語。

 男性同士、しかも大きな偏見という障害の前で、女性と結婚して苦悩しながらお互いの人生を粛々と築いていく二人。でも、お互いのことが忘れられない。時を経てもなお色あせない、禁じられた愛の、悲しい愛の物語として語られることもある映画ですが、ここにある愛の正体は、いわば「何もかもうまくいかなくなっちまった俺の人生にも、光り輝いた一瞬はあったんだ。それがあのブロークバック山だった。あのブロークバック山で愛を語ったアイツ。アイツと過ごした、あの日々。ああ…」なんていう、忘れられない切り取られた過去への執着なのだ、と私には映ります。

 この映画を真実の愛の映画として見るのか、もしくは、何年も経たあとの再会が、純愛であったはずの切り取られた過去の記憶をどう変容させてしまうか、という物語なのだとして見るかで、主人公二人の見え方は大きく違ってくる。純愛(幻想化された愛)への執着は、周囲の人を大きく傷つけます。誰かを傷つけないためにも、純愛は寸断される必要がある。


 純愛の先にあるものを見ようとすると、やけどをする危険があります。でも、恋なんてそんなもんでしょ。やけどする覚悟のない人が純愛物のまわりで号泣する。そして、それが真実の愛だ、ほんとうの愛なのだなどと言って安心する。安全でいいけど、たまにはもうちょっとヒリヒリしようぜ、って私なんかは思います。
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映画で旅をするーリスボンサプリ

靴に恋して

靴に恋して 靴に恋して
アントニア・サン・ファン (2005/05/25)
エイベックス・マーケティング・コミュニケーションズ

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 大阪に、民博という博物館がある。日本が高度成長期に「万博」という一大イベントをやらかして、その跡地のあたりに建てられた、大きな大きな博物館だ。私はこの民博が、結構好きだ。私には、たまに訪ねていって、その場所で自己確認したくなる場所が世界に何箇所かあって、この民博はそのうちのひとつ。この場所に身をおくことで、いろんな発見があるから楽しい。

 そんな場所で何の発見をするのだ? というと、自分の前世を確認するのである。

 おお。やばいぞ、ももせ。おまえもスピリチュアルブームに踊らされているのか。本気で前世を信じていて、オーラでも読んでもらいながら「前世は中世ヨーロッパの音楽家でした」とでも言ってもらいたいのか。え?
 などと思う方もいらはいますでしょうけれど。私、前世は信じなくとも、世界各地にある「デジャブ」はどこかで信じているところがあるのです。別に魂が生まれ変わったと思っているわけじゃないけれど、でも世界を旅しながら、ふと、「あ、ここは前に来たことがあるような場所だ」とか、「この風景に心底和むなあ」とか、そんな妙な感覚に陥ることって、誰でもあるんじゃないのかね。で、そういう場所に出会うと、なんだか魂が潤されたような気分になって、気持ちがいい。

 以前、誰かしらに「人間の吐く息には数え切れないほどの分子が混じっていて、その数の膨大さを考えたら、自分の吐く息が拡散しつづけて、そのうちの分子1個が地球の反対側にいるヒトまで届くことだって、ありうると思うんだよね。ということはだね。考えようによっては、今、自分はクレオパトラの吐いた息の分子の1個を呼吸しているという可能性も十分にあるわけだ」という話を聞いたことがあって、これはかなりのインパクトをもって、私の記憶に刻み込まれている。
 つまりは、スピリチュアルとかそういう部分は別にして、そんな風に分子レベルで拡散していった記憶みたいなものが、私の遺伝子のどこかに組み込まれていると考えてもいいじゃないの、と。そんな風に、世界のどこかの記憶が自分の中に眠っていると考えて、いろんな場所を訪れるというのも、また旅の楽しみのひとつじゃないの、と思うわけなのだ。

 で、民博。
ここは、世界各国の民俗学的に有意義と思われるさまざまな道具や衣類、住居などが展示されている。この博物館の中を徘徊するだけで、長い歴史をタイムとリップしながら、世界を旅したような気にもなれる、稀有な場所だ。
 最初にこの場所をおとずれたとき(まだ20代半ばだった)、思いがけず不思議な感覚にとらわれて、それがいまだに忘れられない。
各国のコーナーに身を置くたび、自分の身体感覚が変わるのだ。ああ、ここは居心地がいい。とってもなつかしいと思う場所があれば、いてもたってもいられないほど居心地が悪い場所もある。これはもう、理性で理解できることではなくて、体が即時に反応するというとても不思議な体験だった。
 こんなおかしな旅を民博で続けた結果、どうも私はアジア方面、およびアメリカ、オーストラリア、アフリカ方面にはめっぽう弱く、ヨーロッパからロシアを抜けてモンゴルにいたるまでの地域に、からだが同調することが判明したのであーる!>笑。
 ま、能天気なおふざけみたいなものだったけれど、そこに展示されているものを見ながら、「ああ、これはなんだか握った感触までわかるような気がする」とか、「こんな場所にあたしは住んでいて、こんな窓から外を眺めていたような錯覚」などにとらわれたりするのは、かなりおもしろい。えっと。こんなこと考えるのは私だけですか? うーん。でも誰かしらにも、似たような体験はあると思うのだよね。
 だから、世界を旅することを始めたヒトの中には、特定の国にはまるヒトがいる。ああ、ここの空気が気持ちいい。ここにいるヒトが楽しい。ここのごはんがうまい。この場所にいると、自分がすごく自分らしくいられるぞーーー! なんて場所が、世界のどっかにあるって思うのは、とっても楽しい出来事だと私は思う。

 で、そんな体験が、映画の中でもできるよねというのが、今回のコラムの主旨なのだ(前置きが長すぎるって!)。

 誰もが世界のあちこちを旅できるわけではない。でも、映画の中で主人公の目線から、世界の都市を見て歩き、そこにある風景や空気感を楽しむというのも、また映画の楽しみの一つではないかと私は思うのだ。よくある観光目的のルポ番組や、名所を回る旅の番組と違って、映画にはそこに暮らすヒトの目線で捉えた都市の風景が、暮らしを伴った空気感とともに存在している。ガイドブックをめくるより、観光マップを見るより、映画に息づく街を感じる中で得られる「ああ、この場所!」という直感は、かなり信じていいんじゃないのかな、ってあたしは思う。

 そんな風に映画の中でであった街の風景のひとこまにノックアウトされて、「ああ、いつかここに絶対に行きたい!」と思いながら、日々の暮らしをまた積み重ねて、そんな中で、旅の機会が訪れたら、その地を候補のひとつに加える。
 で、実際にその場に立ったとき、あの日、あのとき見た映画のワンシーンが心によみがえって、また、もう一度映画を楽しむんだ。10代の頃からずっとずっと映画を見続けて、いろんな経験を経て大人になって、やがて自分の自由になる時間やお金がそろそろでき始めたなあ、と感じるこのごろ。そうして、いろんな場所を訪れる機会が増えてきた40代の私が、しみじみ「映画っていいなあ」と思うのが、そんな風に自分の中に残った映画のワンシーンと再会するとき。そして、そこにいる自分自身に、改めて向き合うとき。だから、いまだに映画はやめられない。

 今回は、そんな風に映画の中のふとした風景にノックアウトされて、あれよあれよと導かれるようにその地を訪れてしまった、リスボンのお話。

 「靴に恋して」は、スペイン映画だ。舞台はマドリッド。リスボンではないよ。それでも、この映画を見て、私はリスボン行きのチケットを迷わず買ってしまった。理由は映画の最後でわかります。

このお話は、 23歳の高級靴店の店員、49歳の娼家のオーナー、43歳のタクシー・ドライバー、25歳の知的障害者、45歳の高級官僚夫人の5人の女性が、それぞれの愛の形を探して苦悩したり、試行錯誤しながら、自分を探していく姿を丁寧に描いた作品。「靴」が全編を通しての小道具になっていて、原題はPIEDRAS。つまり、石ころという意味で、5人の女性たちがちょこちょこつまいづていく、人生にころがる石ころを指している。
邦題はちょっと狙いすぎた感があるけれど、靴はひとつのメタファーで、小さな靴を履く女、盗んだ靴を履く女、スニーカーを履く女、スリッパを履く女、扁平足の女…と、登場人物はそれぞれ特徴的な靴をはきながら、自身の向き合う現実と格闘していく。誰もが自分にぴったり合う靴を探しているのだけれど、それはそう簡単にはみつからないね、というわけ。

スペイン映画というのは、一種独特な空気感を持っていて、これが苦手なヒトはどうにも相性が悪い部分があると思うのだけれど、私はこの空気感がなんともいえずに好き。特に、出演する俳優に有名人や美形がおらず、「おいおい、この顔で映画俳優?」というぐらい強烈な風貌を持つヒトが多く出演しているのも、映画がひりひりとした現実感を持って心に響いてくるゆえんだと思う。とにかく、この映画の登場人物も、強烈ながら、スペインの街角のどこにでもいそうな普通の女性たちで、そんなリアリティが、この映画の魅力でもある。美化されて、ファンタジーになりがちな恋愛映画の中で、このあまりにリアルな5人の日常に「愛も、恋も、そう一筋縄でいくもんじゃない」という現実にしばし向きあうことになるし、でも「やっぱり愛が欲しい」私たちと、愛によって生かされていく人間って存在の、悲しさや強さが、最後にがっしり残る。うまくいかない恋愛の記憶があるヒトなら、彼女たちの誰かに必ず感情移入できるはず、なんて思う。

かくいう私も、しっかり一人に感情移入した。その主人公が、最後の最後に訪れるのが、リスボンなのだ。

映画の舞台はマドリッド。牧歌的叙情の残るスペインの各都市と違って、マドリッドは喧騒に満ちた大都市だ。そんな都市の中での試行錯誤に疲れた彼女は、発作的に車でリスボンをめざし、港の見えるリスボンのカフェの前で、同行者の運転する車を降りる。「しばらくここにいるわ」と言い残して。

映画は、ここで終わる。

リスボンが映るのはこの、ほんの数分間だ。その数分をもってして、強烈に心に焼きついたこの地を、私は去年訪れた。喧騒の果ての癒しの場所。何もないけれど、その場に立ったら「しばらくここにいる」と思わせる何か。
東京での長い長い試行錯誤の中にいた私にとって、リスボンは「ふと通りかかる癒しの地」としてのアイコンになったのかもしれない。永住でもなく、答えがあるわけでもなく、ただしばらくいたいと思わせてくれる何か。また、いつもの自分の暮らしに戻るためのちょっとした寄り道。サプリのようなもの。

ポルトガルは不思議な国だと思う。
時がどこかで止まった、ヨーロッパの突端で取り残された国。なのに、朽ちていない。上手に成熟しながら、力むことなく、怠惰に停滞しながら、生きる活力に満ち溢れている。リスボンの海に近い、ひっそりとたたずむ間口の狭いビストロの並ぶ坂道は、午後の日差しの中で一瞬廃墟のような様相を垣間見せるのだけれど、細長く続く入り口の先には、炭火で焼いた魚介類や、丁寧に煮込まれた臓物などをポルトワインやビールで楽しむ人々が、ぎっしりと存在している。禁煙をうたう店はなく、目抜き通りには物乞いがあふれ、路地には物悲しいファドの調べがたゆたっているのに、どの店も清潔で、道路にも駐車場にも風に舞い上がるゴミの姿がない。
そして、アズレージョと呼ばれる美しいポルトガルのタイルが埋め込まれた、古い古い石造りのささやかな建物の中で、人々は力むことなく、当たり前のように実直に働いている。リスボンは、そんな町だった。

で、そんなリスボンという場所は、まさに「もうちょっとここにいたい」と思わせてくれる安らぎに満ちていて、私は自分のたましいが、しっかりここの空気に同調して癒されるのを感じて帰ってきた。私の遺伝子が覚えている何か。港の空気、朽ちていく文化、明るさだけではなく、苦悩をもはらんだ哀愁の調べ。疲れたこころが、そんなサプリで癒される。ここにいていいよ、戻ってきたね、なんていわれているような気になる。
こんな場所を教えてくれて、ほんとにありがとう! と映画に感謝しちゃうのだ。

あこがれ続けた場所でも、有名な観光名所でもない、ちょっとした町の風景の中に、自分を癒してくれるサプリが潜んでいる。そんな楽しみがあるから、映画はやめられない。

アメリカという病

デブラ・ウィンガーを探して

デブラ・ウィンガーを探して デブラ・ウィンガーを探して
ロザンナ・アークエット (2005/07/06)
ポニーキャニオン

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 30代の後半。私は卑屈だった。

 あれほど望んで手に入れた、しあわせな結婚と子どもというしあわせのカード。でも、そのカードを手に入れた途端、私からは「充実した仕事」と「充実した恋愛とセックス」が失われた。
 保育園に間に合わないので残業せずに帰ります。すみません。日曜日は運動会なので休日出勤はできません、すみません。残った仕事はやってもらえますか、ごめんなさい。
 仕方がない、ほんのいっときなのだ。子どもは成長する。いずれまた、思う存分仕事できる日が来る。この時期、私はそう自分に言い聞かせて、頭を下げた。
 気がつけば30代なかば。女ざかりであるはずの私は、乳臭いあかんぼを抱えて紙おむつやトイレットペーパーの袋を提げて町をひょこひょこ歩き、下着や靴に気を使うことも忘れ、それでも自分の責任をまっとうするために必死にもがき、仕事も家庭も中途半端なところで世間から落ちこぼれていきそうな自分に、あきらめに似た倦怠感を感じていた。傍目から見たら、生き生きと仕事も子育ても楽しんでいるように見えたかもしれない。でも、毎日のときおりの一瞬。わたしはどうしようもなく痛かった。そんな時代。

 ある日、子どもが保育園で汚したよだれかけと、おねしょでしみを作ったシーツを風呂場で洗っていたとき、通りすがりに夫がこういった。「おまえ、太ったなあ。尻が垂れてるぞ。そう見ると、すっかりおばさんだな」。
 朝ベッドで目覚めて話しかけたら、「お前、口くさいよ」と顔をそむけられ、テレビに映った同年代のアイドルに向けて「年とってやつれたなあ。こうなっちゃおしまいだね」と夫が言ったとき、かろうじて自分が保っていた女としてのプライドが崩れた。
あたしゃもうだめなんだ。誰もあたしに欲情しない。町を歩いても、きっと私は「お母さん」や「おばさん」という記号になって朽ちていく。なんてかわいそうな女たち。
欲情され、セックスをして子どもをはらむ。それは自分が誰かに必要とされているという大いなる証だ。うれしい。ところが、では、と子孫を生んだとたんに会社でも家庭でも大切にされなくなって、あとはただの「おばさん」という記号になって手のひらを返したように邪魔者扱いなのかい。え? おかしくねえか。君が欲しい、君の能力が必要だってあれほど言ったじゃないか。見てくれよ、もっと。最後まで責任取れよ。夫も会社も。
どうなってんの? 何がおきてるんだ、私に? おばさんという記号にならないために、いったい私しゃ何をしたらいいのさ? 
なーんてことを考えていた、30代。ああ無常。

 さて。
この頃、私の周囲には二種類の女がいた。おばさんの記号を見事に身にまとい、自らを新しい存在にシフトできる女と、そこに最後まで抗いたい女と。記号化する人は、見られない自分を自己像として受け入れる。抗う女は、多かれすくなかれ、30代の私のように「今までと同じように自分を見てよ」と思い、老いを拒否して何かを得ようとする。
 私の母は、どちらかといえば後者に属する女だ。しわができたことに一喜一憂し、白髪を染め、流行のブランドを追いかけては若いファッションを着こなすことに精力を費やし、ジムに通ってからだを鍛えて、若いともだちをあちこちに作る。アンチエイジングを標榜し、老化を憎んだ。テレビで、ジョギングや水泳にはげみ、しわ伸ばしの手術をして真っ白い歯で笑いあうアメリカのリタイア組の夫婦たちを見て、「負けていられない」とさらに運動に精をだし、あげくにバランスボールから転落して肋骨の骨を折った。そんな人。
 

 「デブラ・ウィンガーを探して」を始めて見たとき、この映画の背景にあるアメリカという文化の中に、母のような女性たちを多く垣間見たような気になった、と言ったら、あまりにこの映画が撮られた趣旨とかけはなれてしまうだろうか。


 この映画は、リュック・ベンソン監督の往年の話題作「グラン・ブルー」で衆目を集めた女優、ロザンナ・アークエットが監督を務めたドキュメントフィルムだ。40代になり、母として女として改めて自分と向き合った女優ロザンナ・アークエットは、ある一人の女優のことを思い出す。彼女の名はデブラ・ウィンガー。「愛と青春の旅だち」でブレイクした彼女はある日忽然とスクリーンから姿を消して、いまは郊外の家に専業主婦として家族と暮らしている。あれほどの栄光を集めた女優がなぜ? ロザンナはそんな自分探しの旅の手段として、ハリウッドで子育てをしながら40代を迎えようとしている女優たちに片っ端からインタビューして歩くという方法をとる。
 これは、ロザンナ・アークエットによる、そんなハリウッド女優たちの生の声を集めたインタビューフィルムだ。

 当初、このフィルムは女性たちへの応援歌であるという受け止められ方をしていた。ガードの固いハリウッド女優たちも、同業者であるロザンナには素顔を見せる。ハンディカメラで撮った手振れのあるフィルムは、ほかでは絶対に聞けない本音を見せてもらえたと思わせるだけの、臨場感に満ちている。そんな女優たちの生の声を通して、華やかに見える女優たちも母親であり、仕事と家庭の両立に悩む同じ女性の一人なのだ、と勇気をもらう。そして、そんな彼女たちの生き方の中に、同じく恋愛や結婚や、仕事と家庭の両立に悩む自分へのヒントをもらう。
最後の締めは、探し続けたデブラ・ウィンガーとの再会だ。ハリウッドの栄光を捨てて家庭を選んだデブラ。変わらない美しさを保ったまま、彼女は女優の仕事に「未練はない」ときっぱり言い切って家庭に戻っていく。ここに重ねてトリを取るのはジェーン・フォンダ。女優たちのあこがれのまと、最終目標。家庭も仕事も手に入れたスーパーウーマンは、今、慈善事業と社会活動に人生を傾けている。さあ、あなたにとっての女の幸せはどこに? 

 …のはずなのに。なんなんだ、この寂寥感は。

 確かに、女優たちの生き様は興味深い。でも、彼女たちの会話からひたすら垣間見えるのは、ひたすら加齢への拒否感なのだ。「ハリウッドは若さが大切。30を超えたとたんに誰も見向きもしなくなるわ」「だからみんなしわ取り手術をするの。ハリウッドでは常識よ」「こんな世界にいると自分を見失いそうになるわ。でも家庭も子どもも大事。ときどきどうしたらいいかわからなくなる」「本当は年齢を重ねてしわが増えた自分だからこそできる役をやってみたい。でもそんな需要は、ここにはないの」。

 自由の国、男女平等の国アメリカ。でもそこに見え隠れしているのは、日本とさほど変わりない偏った女性観だ。欲情し、セックスをする対象からはずれたら役割を失う世界。そこで自分を見失わないために、努力して何かを得なくてはならない世界。
 シャロン・ストーンはアンチエイジングで映画界で独自の需要を開拓し、ダイアン・レインとジェーン・フォンダは、社会運動という形で自らの立ち居地を確保した。一方でデブラ・ウィンガーは、女優として社会に向き合うよりも家庭の中に役割を得ることを選ぶ。そこまでたどり着けずにいる年齢の女優たちは、その両端の間で揺れている。

 常に、何かを勝ち取らなくてはいけない場所で、老いに抗い、自分の役目を得ようと努力を続けなくてはいけない苦しさ。若さを失い、中年という自分と向き合う中で、周囲から仕事でもプライベートでも必要とされなくなってくる焦り。女優たちに生きるヒントや元気をもらうというよりも、私にはそんな痛さがひしひしと残る映画だった。もうさ、日本であたしたちがおかれている現実と、同じじゃないの。だって、あたしの母親が生きているのも、ずばりこの世界なんだもの。

 若い世代が見たら、まったく違う見え方をする映画なのだと思う。でも、R40の私にとっては、そんな痛い痛い映画になってしまった。何よりも、40を過ぎた女優たちの中で、ほんとにきれいだ、素敵だと思える人があまりに少ない。アンチエイジングの痕跡があまりにいたいたしく、ウーピー・ゴールドバーグとか一部の人を除いて、ほんとに素敵だと思える中年女性があまりに少ないじゃないか。おい、しっかりしろよ、ハリウッド。
 
 ところが。
そんな中で異彩を放つ女優がいた。
シャーロット・ランプリングと、エマニュエル・ベアールだ。
髪をセットし、カメラ目線で真っ白い歯で笑いかけるハリウッド女優と一線を画している。ぼさぼさの髪、そばかすだらけのすっぴん。何も飾らないのに、かもし出される女としての存在感と貫禄。

 女性が年齢を重ねても、恋愛と性の対象としてきちんと存在しつづけるヨーロッパ文化の中にいて、この存在感。そこにあるのは、「何かを勝ち取る」ことではなく、「何かを手放していく」ことによって、自然と得られる余裕と豊かさだ。エイジングに抗わない人の持つ、たおやかな魅力。

 42歳でイタリアとパリを旅して歩いたとき、東京で枯れ果てていた私の女という土壌が、町を歩くだけで豊かに潤ったことを思い出す。ああ、私、この場所でちゃんと女として見られている。君もちゃんと、恋愛とセックスの対象なのだというシグナルが、いい意味で自然と存在している場所。今の私そのままの姿で、きちんと女として存在できることの意味。町を歩いて元気になった。年齢を重ねて素敵だと思える女性になりたいと思ったし、そんな風に加齢した女性を、ちゃんと受け止めてもらえる場所にいたい、とも思った。



 おばさんに安住したくはないけれど、アンチエンジングを標榜して、加齢を否定しながら何かを得ることにばかりエネルギーを使いたくない私は、第三の道として「加齢を引き受けながら、いろんなものを手放していく先で得られる豊かさ」のある女性になりたい。そんな女性がちゃんと、女として認められて居場所のある世界にいたいなあ、と思う。
 少子化で子どもを産まない女性が増えているから、制度を整えてどんどん産んでもらおうと考える人たちがいる。でも、産んだあとに、社会人として、女性としてきちんと認められる場所がなければ、女たちは自分がかろうじて得てきた居場所を簡単には手放さない。少子化は、長い間日本の女たちを偏った目でみてきたことへの、しっぺ返しなんだ。

 「デブラ・ウィンガーを探して」に登場するハリウッド女優たちがかっこよく見えて、そこを目指そうと思っているうちは、日本の少子化は解消しないよ。日本はそろそろ、アメリカという病から自由にならないと、ほんとにヤバイんじゃないか。
 この映画を、元気と生きるヒントをもらえる1本と見ることもできる。でも、この映画のなかに潜むアメリカという病も、ぜひ感じてほしいなあと私は思うのでした。
  

家族と夫婦、その似て非なるもの

スパングリッシュ

スパングリッシュ スパングリッシュ
アダム・サンドラー (2006/06/07)
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント

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人は家族を一番のよりどころにしたいと願う。だって、家族は世界の誰よりも自分を理解して、自分を支えてくれる存在だから。

……って、とっても正論に聞こえるけれど、果たしてそうなんだろうか? 

家族はひとつの集合体のように見えるけれど、そのはじまりはどこも「男と女」という、偶然の出会いから始まった夫婦という他人の組み合わせからはじまる社会だ。生まれ育った背景の違う男女が、ひとつの価値観を共有する。子どもが生まれて親子という血縁関係が侵入してくるにつれ、夫婦は他人である男女のつながりの記憶を徐々に希薄にしながら、暮らしをともにする家族に変貌していく。そうして家族は作られる。

仮に深く愛し合って結婚して、幸福のうちに子どもができて、結びつきを強めながらすばらしい家庭を築く男女がたくさんいるのだ、としても。生活を重ねて人生のいくつもの決断を繰り返すうちに、小さく小さく価値観の違いが積み重なって、逃げ場のない迷路に追い込まれる夫婦も中にはいる。基本的な価値観と、コミュニケーションのバイオリズムが共有できないと、長い時間をかけた共同生活はどこかでひずみをきたしてしまうことがある。夫婦のむすびつきは思ったよりもろい。

といっても、すでに子どもがいて、家を建てて共通の財産を作って「家族」というゆるぎない形を作ってしまったあとでは、そんな組み合わせでもうまくやっていくしかない。


 この「スパングリッシュ」という映画は、ヒスパニックのシングルマザーとその娘が、アメリカ文化の中で試行錯誤する様子と、彼女たちがメイドとして暮らしをともにすることになる、アメリカ人家族の夫婦や親子の問題を丁寧に描いた作品だ。

会社経営に失敗して、いまは専業主婦になったティア・レオーニ演じるアメリカ人の母親は、ジョギング、ヨガ、ダイエットにはげみ、セラピーや本で仕入れた「子育て論」で家族を支配しようとやっきになっている。
一方、その夫は妻と対極で、ひたすら、限りなく穏やかな性格を持つ男性だ。彼らには繊細で優しい(でもかなり太目の)長女と、いたずらざかりの長男の2人の子どもと、豊かさの象徴のような大型犬がいて、プールつきの郊外の家に住んでいる。夫はアメリカで一番腕がいいシェフと称される、成功した男性だ。

一見、豊かで何の問題もなさそうに見える、この成功したアメリカンファミリーの日常は、実は日々夫婦の衝突とすれ違いの多発で成り立っている。コミュニケーションエラーの修復と、価値観のすれ違いの修正の繰り返し。そんなやるせない格闘が家族の歴史を作っているのだ、と見ている側は、この家庭に自分たちとの共通項を見出すことになる。これは家族という愛の儀式なのだ。実際、わたしたちの家庭もそうなのだから、と。


そんなところに、メキシコから移住してきた母子家庭の美しい親子がメイドとして住み込むことになる。美しい母子の出現で、なんとかバランスを保っていたこのアメリカンファミリーが、少しづつ、少しづつきしみはじめる。これがこの映画の前半のテーマ。

理想の高い妻は、かねてから否定的なイメージを重ねていた自分の娘に比べて、このヒスパニックの娘が美しくて頭がよいことに夢中になり、自分の娘をそっちのけで過剰にかかわるようになる。夫は、激しいけれど人としっかりかかわって子どもを体当たりで守ろうとするヒスパニックの美しい母親のほうに惹かれていく。ま、このあたりはよくある話だね。
その伏線として、ヒスパニック系の移民がアメリカ社会の中で感化されずに、自国のメンタリティを貫こうとする頑固ともいえる奮闘振りが、美しいヒスパニックのシングルマザー役のパズ・ヴェガに寄り添うように描かれていく。彼女の可憐で力強い美しさと、この、アメリカ対ヒスパニックという文化対比も、この映画の見所だ。



さて、このヒスパニックの美しい母親が、自己主張の強い妻の言動にひとつひとつ誠実に対応しようと努力を続けているアメリカ人の夫に、こういう言葉をかける場面がある。

「ねえ、どういう育ち方をすれば、あなたのような人になるの?」

彼女は娘を産んだあと、夫が別の女性を作って彼女を捨てて出て行くという悲しい過去を持っている。暴力も、暴言もある中で、心の通うコミュニケーションを夫とはまったく取れないままシングルマザーで、ひとり強く生きなくちゃならなくなった女性なのだ。
その彼女から見れば、アダム・サンドラーが演じる夫は、彼女が人生で始めて出会った、「心通う男」だったのかもしれない。


ねえ、どういう育ち方をしたの? あなたみたいな人は、どうやって作られるの? 

きちんと心に向き合うコミュニケーションが取れる人間の存在は、自分自身の自己肯定にもつながる。そういう存在にめぐりあえないまま、これまで生きてきた彼女は不幸だったのかもしれない。でも、どれだけの人がそんな人にめぐりあえる? 夫婦でいる人たちのどれだけが、そうして通い合うコミュニケーションを取れているんだろう。

一方で、この夫も彼女の言動に驚いてこんな言葉を発する。

「きみのような女性ははじめてだ。どうしたらきみのようになれるんだ?」
「だって、きみは自分が悪いとわかったら、すぐ謝れるんだよ。驚きだ」。

ああ、痛々しいー。
本来ならば難なくコミュニケーションが取れ、価値観をともにできる存在が世の中のどこかにいるのだ。でも、誰でもが一回でそういう人とめぐり合えるわけじゃない。価値観をともにできずとも、格闘を繰り返して夫婦として暮らしていかなくちゃならない。
「何かがうまくいかない」という不全感を解決するために努力をしても、どうにもならないやるせなさ。そこに費やされる膨大なエネルギーで人生を消耗してしまう日々を、「華族が家族であるために必要な試練」と思ってきた彼に、ここでつきつけられるのは「それは単に組み合わせの問題だけだったのだ」という、いとも簡単な因果律なのだ。なんだよ、相手が違えばこんなにラクじゃん。こんなにまっすぐ暮らせるんじゃないの。

家族という砦を作り上げてしまう前の夫婦なら、組み合わせを変えることで人生をシフトすることができる
でも、子どもがいる家族の中では、組み合わせのシャッフルはできない。結局、手持ちの札がどんな組み合わせでも、これでなんとかやっていかなくちゃならんのだ。
この二人に思わず感情移入してしまう人は(私も含め)、多かれ少なかれ、そんな経験をしたことがある人なのかもしれない。


ネタバレになるが、この映画では、結局この二人の男女は最後まで結ばれない。
家族を壊して、家庭を捨ててまで結びつこうという決意にいたらず、結局最後はそれぞれの人生にきれいに戻っていく。
彼らの出会いは、人生をシフトするためのものではなく、自分への肯定をもらうための出会いだったのだと私は思う。配偶者からの「NO」を積み重ねて弱り果てていた自分という存在に、そのままの自分ですばらしいのだという「YES」をもらうための出会い。その「YES」を力に、また彼らは自分たちの砦を守る。

だから、二人は最後に笑って別れていく。
家庭を持った大人同士には、こんな出会いもあって、その視点からみれば、これはおおいなるハッピーエンドなのだ。

最後に二人は抱き合って言うんだ。
「僕たちの一番大切な仕事は子どもを育てることなんだよね」、と。


 そうだな。私の一番大事な仕事も、そこにある。
多くの家族を持つ(そしてその家族がどこかでうまく機能しなかった経験を持つ)人たちは、この落としどころに安堵感を覚えることだろう。この映画の強みは、そんな安堵感を私たちに残して終わっていくところにある。
 深読みをしなければ(笑)、これは暖かくてほっこりするファミリーコメディでもある。

 この監督は、子育てという仕事の先にある熟年恋愛を「恋愛小説家」という映画で撮ったことがある。そして、夫婦が介在しない、「親子」の関係を「愛と追憶の日々」で撮った。大好きにツボにはまる監督ではないのだけれど、扱おうとしている一連のテーマは、まさにアメリカっぽくて、興味深い。

 家族を、夫婦を、親子を考えたいときに、手にとってほしい1本。「きっとどこかに、私を心の奥底で理解してくれる人がいるはず。そんな人にときめいてみたい! でも一歩踏み出す勇気は私にはない。だって、私は子どもが、家族がとっても大事なんですもの!」 …そんな風に思っている人に、安全で適度なドキドキ感を味合わせてくれたあとに、「家族を守れる私は正しいんだ、明日からまたこの現実でがんばろう!」 と思わせてくれる映画。ある意味正統派。だって、そういう人、いっぱいいるでしょ?
個人的にはアダム・サンドラーのほやほやーっとした感じが、相変わらず好きです。

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