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女優という生き方

イタリア旅行魂のジュリエッタ

 前回、「ファミリーダンス」を描いた映画をもう1本紹介します、と書いたまま2週間経過。こどもの卒業も終え、桜も花開き、春がやってきちゃいました。笑

 今回は、夫婦の間に起こる「ファミリーダンス」(注)。しかもその夫婦役にはイングリッド・バーグマンとジョージ・サンダース。監督は当時のバーグマンの夫であったロベルト・ロッセリーニという興味深い配役の映画です。
注:ファミリーダンス(最後には消耗してしまうだけなのに、お互いが積み重ねた習慣でつい始まってしまうコミュニケーションエラーのこと>武蔵野婦人勝手に命名。夫婦間の不全感の中で自己確認をしたいとか、問題の本質がわかっているのにそこに近づきたくないなど、何らかの必然性があって起こるエラーなので、誘われるとつい差し出された手を取って踊りだしては、へとへとになるという因果なダンス)。

イタリア旅行 (トールケース) イタリア旅行 (トールケース)
イングリッド・バーグマン (2004/05/25)
アイ・ヴィー・シー

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結婚8年目を迎えたバーグマンとサンダース。
財力と地位と美貌を兼ね備えたこの夫婦が、叔父の遺産でもある別荘を売るためにナポリを訪れた数日間をつづったこの映画は、まばゆいばかりに美しいバーグマンが、スーツ姿の夫を助手席に乗せて、イタリアの田舎道を運転しているシーンから始まります。旅の途中の車の中という非日常の世界に配置された美しい男と女。洗練されたファッションから二人は都会の人間だということがひと目でわかります。この二人が、トスカーナの牧草地帯を羊や牛で道をさえぎられながら走り抜けていく。これからはじまる旅の予感をはらむロマンティックな風景。

 …のはずが、はじまって5分もたたないうちに、観客は不思議な不安感に包まれ始めます。何気ない日常会話のやりとりの中で、実はこの夫婦の仲は冷え切ってしまっていることがありありと伝わってくる。そう、これは関係がぎくしゃくして冷え切ってしまった中年夫婦のイタリアへの旅を淡々と描いた映画なんです。事件は起こりません。ハリウッド映画のように、エキセントリックな感情のぶつけ合いのシーンもありません。ただただ、リアルな夫婦の小さな、しかし絶望的なすれ違いの会話が延々と続く作品。まさに、ロッセリーニの真骨頂、ネオリアリズモを具現した映画。

ただ、舞台をナポリとポンペイの遺跡に置いたことで、観客は二人の観光旅行に巻きこまれる形で擬似旅行を楽しむというおまけがついてきます。美しいけれど、ベスビオス火山の噴火による大量の死者が眠るおどろおどろしさを内包したダイナミックなナポリとポンペイの風景がなければ、この映画はただ冷えた夫婦の微妙なすれ違いの会話だけの映画になってしまう。


前回紹介した「バージニアウルフなんて怖くない」は、壊れた夫婦の不毛ないさかいを、ただ延々と夫婦の自宅を中心とする世界で展開した映画でした。こちらは、敢えて舞台を二人の日常に据えたことで、完全に破綻した異常な関係性にフォーカスを当てることになったわけですが、今回の「イタリア旅行」では、夫婦の壊れ方の種類がちょっと違うのです。「バージニアウルフ」のように異常な壊れ方ではない。誰しもどこかで身に覚えがあるような、小さなやるせない、でも不毛なすれ違い。

誰にとってもリアルな、こんな小さな「すれ違い」という夫婦の日常にフォーカスさせるため、舞台は敢えて「旅行」という非日常に置く。聞くところによると、ロッセリーニは撮影の前日まで役者に台本を渡さず、その場に置かれた二人のアドリブを拾いながら、この映画を撮影したのだとか。ナポリとポンペイというパワーのある場所に放り出された二人の役者のつむぎだす、抑揚のない会話の中の妙なリアリズムは、こうした手法によるものかのかもしれません。


この映画のテーマは、こうした「非日常」の景色の中に置かれた「日常」。固定化した日常(冷え切った夫婦の関係)が、非日常(異質な土地への旅)の中できしみ、ひび割れ、どこかで修復や発見につながる。堅固な日常の中の固定化した習慣を打ち破るためには、ダイナミックな場の転換や非日常の体験が必要なんです、きっと。それだけ、無意識に繰り返されるファミリーダンスの習慣を抜け出すのは、たやすいことではないのだというのが、この映画を見た私の感想なのでした。



 さて、表題を「女優という生き方」にしたのにはわけがあります。主演のイングリッド・バーグマンは、私が大好きな女優の一人です。映画の中だけではなく、半生を通した波乱万丈な生き方が、なんともいえず魅力的。「カサブランカ」「誰がために鐘はなる」といったハリウッドの黄金期の最中、夫も子供もいた彼女は、イタリアのネオリアリズモの旗手であったロベルト・ロッセリーニの映画を見て衝撃を受け、いてもたってもいられずに彼の元に遁走します。世紀の不倫劇。家庭も名声も捨てて飛び込んだロッセリーニとの生活の中、ロッセリーニがバーグマンを主役に据えた映画が何本が撮られました。

 でもねえ。これはことごとく不発に終わったんですわ。イタリア時代のバーグマンは、映画史の中で評価されない作品ばかりが続くことになりました。重ねて、それまでネオリアリズモに燦然と輝く星であったロッセリーニも、精彩を失っていく。バーグマンは、ロッセリーニと世紀の恋をしたのかもしれません。
でも、彼女のバイオグラフィーをたどるたびに、私はそこにあったのは「女優としての飽くなき表現欲求と自己愛」だったようにも思えるんです。男に運命をゆだねて遁走する女の情の後ろにある、強い強い自我。

イタリア時代、彼女は強いバッシングを受けながらも、ロッセリーニとの間に2子をもうけて実直な家庭生活も営みました。でも、結局は二人の結婚は破綻し、バーグマンはハリウッドに戻ってきます。バーグマンにとってのイタリア時代は、大きな犠牲と愛情の入り混じった、大いなる自分探しの時代だったのではないかと私は勝手に思っています。だから、私は復帰後のバーグマンの映画も大好き。何か突き抜けてしまったような乾いた強さが、たまらなくいいなあと思うわけです。


 そんなバーグマンとロッセリーニの軌跡をたどりながら、この「イタリア旅行」を見ると、主人公二人のリアルなすれ違いのやりとりが、また違った精彩を帯びてきます。この映画は、まさにバーグマンとロッセリーニの結婚生活自体に、暗雲が立ち込めだした時期に撮られた映画なわけなんす。

 壊れた夫婦が、壊れた夫婦の映画を作る。その主人公に自分の妻を据えて、夫はカメラをまわします。この映画の中で、主人公の二人はイタリア旅行を通して、夫婦の崩壊と再生を経験するわけですが、これと同じプロセスを、まさに実生活の夫婦である監督と女優がたどっている姿が垣間見える。映画という非日常の場を借りて、夫婦という日常を再構築しようと思ったのかどうか、そんなところまでは僭越にわかりませんが、監督と女優という組み合わせの夫婦とは、なんと因果なものじゃよ、としみじみ思います。
これはロッセリーニの映画史の中では評価の低い映画でしたが、私はとても丁寧に作られたいい映画だと思います。R40の視点から見ると、人生のエッセンスがいっぱいつまっとる。単調だけれど、人生を積み重ねてきた年齢層にとっては、奥が深いのです。



 それでいくと、同様に夫婦の再構築を映画でたどろうとした監督と女優がいます。

魂のジュリエッタ 魂のジュリエッタ
ジュリエッタ・マシーナ (2005/04/27)
アイ・ヴィー・シー

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 世紀の天才、フェデリコ・フェリーニ。妻は、「道」などの作品で独特の存在感をかもし出していた彼の妻、ジュリエッタ・マシーナです。こちらは、結婚15周年目の夜のちょっとした出来事をきっかけに、夫への疑惑や不信感で現実と幻想の世界の区別がつかなくなってしまった主人公の感情の波を、フェリーに独自のシュールな大道芸的イメージの洪水のような映像で撮った作品。フェリーニ最初のカラー作品でもあり、彼の美的センスの集大成ともいえるこの賢覧豪華な映画は、私のベストコレクションのひとつでもあります。

 この映画が撮影された時期、フェリーとジュリエッタ・マシーナの結婚生活も大きな行き詰まりを見せていました。主人公は妻の名前そのままの「ジュリエッタ」。そんな視点で見ると、彼女の逡巡とフェリーニ夫妻の逡巡がオーバーラップして、絢爛豪華なファンタジーに見えたこの映画は、また違った見え方をしてきます。


 映画はフィクションであり、ファンタジー。架空の非日常を楽しみたいとDVDを手にするわけなんですが、その映画を作る側の男と女には、映画とは別の日常がある。映画という非日常の中に、作り手の生身の日常が垣間見えるのも、私にとっては映画の醍醐味だったりもします。その意味で、娯楽超大作のプロジェクトの中で個人が見えづらくなるハリウッド映画よりも、個人主義に徹したヨーロッパの小品に惹かれたりもするのです。


映画「イタリア旅行」の夫婦は、旅という非日常の中で一度夫婦を崩壊させたのち、再生しました。「魂のジュリエッタ」では、非日常なイメージの洪水と幻想の中で、妻は崩壊しようとする夫婦関係のバランスを取ろうとします。誰しも、日常を淡々と続けながらファミリーダンスの円環から抜け出すのはきっと困難で、日常に潜む非日常の助けを借りて、再生か離別の道をたどることになる。そのどちらの道に進むのかは、日常を抜け出したその先にある世界に身を投じてみない限りわからず、どちらに転ぶかは、大きなリスクを抱えることになります。誰だってリスクは怖いし、見えない未来は恐ろしい。恐ろしい決断につながる非日常に突然直面することを避けるためにも、淡々と日常のダンスを踊り続けて思考を停止する。多くの不毛なコミュニケーションエラーを続ける夫婦や親子がファミリーダンスからなかなか抜け出せないゆえんは、こんなところにあるような気もします。

 ところで。この二つの映画の中の夫婦は非日常を体験して再生したけれども、実際の監督と女優は、映画という「非日常」の場を借りたのちに「別れる」道を選びます。ロッセリーニとバーグマンは、「イタリア旅行」を撮影したのち、正式に離婚しました。また、フェリーニとジュリエッタも、「魂のジュリエッタ」の撮影後、破局します。人間の機微を表現することに長けた監督と女優も、実際の夫婦の日常を積み重ねる中で「ファミリーダンス」を踊っていたのかもしれません。この2本の映画は、そんな生身の人間の葛藤が背後になければ成立しえなかったと思えるぐらい、リアルな日常の描写がそこここにあふれています。

監督と女優という二人の組み合わせは、実生活の葛藤を映画の場で整理して昇華してしまったのかもしれません。独断と偏見の見方をすれば、ファミリーダンスの根源をきちんと見据える作業をした先は、映画では再生というハッピーエンドが用意されているとしても、現実世界では「別離」につながる可能性のほうが高い、とも言える。

実はね、みんなそんなことには心の奥底で気づいているんです。ハタから見たら「なぜ別れないのだろう」と思えるような不毛なダンスを踊り続ける二人は、本当はお互いを必要としている。だから、やがてダンスをやめても生きていける準備が整うまでは、ファミリーダンスの舞踏会は続くわけです。

 監督と女優の関係については、また語りたい別の映画があるので、また今度(いつだよ)。

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ファミリーダンス

海辺のレストランバージニア・ウルフなんかこわくない

夫婦や家族は、多くの人にとって大きなテーマであり、映画でも繰り返し取り上げられてきました。ハリウッド的ヒット作品をたどっていけば、家族のすばらしさや夫婦の絆を描く作品が多いわけなんどすが、はて。夫婦や家族というのはさほど単純なものではありません。


 私が大好きな映画のひとつである

「海辺のレストラン」
(DVDが発売されていないので、とても残念)

では、幼いころに家族を亡くした天涯孤独の男性と、妻と子供を捨てて一人放浪の旅の途中にいる男性の2人が主人公です。この寄る辺ない二人が、「海辺に捨てられた老婆」を拾うところから始まるこのストーリー。

物語の中盤、この二人がこんな意味の会話をします。
「僕は生まれたときから家族がいない。家族が欲しい。人は家族が必要だし、家族はすばらしいもんだ」そう言う天涯孤独な男に、もう一人は言います。確かに家族はすばらしいさ。そうだよ、毎週水曜日には集まってグラタンを食べなくちゃいけない。何があっても帰ってきてグラタンを食べるんだ。え? どうだ、すばらしいだろ? お前にわかるか、その辛さが! 

この男は、そんな家庭を捨てて一人で旅に出ることを選びました。旅の途中、新しい家族を作るというチャンスに出会います。再生のチャンスです。ここで二人の男がする決断は? 二人の男を対比させて、家庭礼賛だけに終わらせなかったところが、私がこの映画を愛する理由でもあるかもしれません。
 家族はすばらしい存在ではあるけれど、残酷な存在でもある。家族を礼賛するのは簡単です。でも、現実は家族や夫婦って、そんなすばらしいもんばかりじゃない。静かに壊れる家族や夫婦を描いた作品も多々あります。深いがゆえに、重い。たとえばこんなのはどうでしょう。

バージニア・ウルフなんかこわくない バージニア・ウルフなんかこわくない
エリザベス・テイラー (2006/02/03)
ワーナー・ホーム・ビデオ

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原作も舞台もある作品ですが、映画はなんといってもエリザベス・テーラーのなりふり構わぬ怪演ぶりが秀逸です。のっけからすごい迫力。物語は、ほぼこの中年夫婦の言い争いに近い会話のみで構成されていきます。

最初はただけんかしているだけ? と思うのです。でもね。何かが違う。健全なけんかではないのです。根っこが静かに壊れているのがわかってくる。救いようがない、不毛な不毛ないい争いが延々と、それだけの話。途中、深夜の若いカップルの訪問があり、この二人が、夫婦の言い争いに巻き込まれていき、そして最後には放り出されて、また夫婦の蜜月に戻ります。見ごたえのある映画です。

 こういう夫婦の不毛なやりとり。「わけわからん」と想像できない人もいるかもしれませんが、この手のことは多かれ少なかれ、家族の中で起っているのではないかな。言い争いという形を取らない、温和な会話の形を取ることもありますが、「いちど始まったら止まりようがない家族の暗黙の儀式」みたいなもんが、どこかに存在していませんかの。
 私は、この手のことを「ファミリーダンス」と呼んでいます。

 夫婦や家族というのは、自己(self)とは別の他者であるにもかかわらず、自分という境界線が広がった形で、他者自己として同一化されがちです。自分と外側の家族が、上手に融合している場合はいいんだけど、この外側の家族という存在があることで、self としての自己がうまく機能しないこともある。支配的な父や依存する母、軋轢のある兄弟関係などに囲まれると、単独としてちゃんと機能するはずの自己像が、家庭という日常の中であっちこっちにゆさぶられたり、わけわかんなくなったり、自分が正当に評価されなかったりすることもあって、鬱々とした感じを抱え込んじゃう人もいるわけです。相手がいるとなんかうまくいかない。なんかしあわせじゃない。私はこんなはずじゃない。もっと違う人生があるはず、とね。

 じゃあ、そんな場所から離れればいいじゃん。離婚すれば? 家を出れば? って思うんだけど、夫婦や家族はself の外側にぴったりくっついて同化しているから、「そこから離れてたった一人になった自分」は不安だし怖い。まっさらの self になったとき、自分が自分でいられるかどうかわからない。それは存在の危機でもあるから、なかなか抜け出すことはできないわけです。

こんなとき、人は何をするかというとself の置き場所を変えないまま「自分の不幸は相手のせいだ」と思うことで、日常をどうにか乗り越えようとする。自分という存在を守り、「こんなはずではない自分」を自己確認するために相手との衝突を日常的に生じさせる習慣ができてしまうわけですな。とっても不毛なんだけど、本人にとってはとても必要な儀式なので、やめるわけにいかない。こういう習慣が絶え間なく起きてしまう状態を、「ファミリーダンス」と私は呼んでいるというわけです。


家の中で、なんだか煮詰まった空気が流れる。すると「ねえねえ、踊ろうよ、ほら、いつものダンスを」とつい、相手を誘ってしまう。相手が必ず反応するだろうと思うようないやないつものコトバを使ってね。

この映画でもそうです。言わなきゃいいような余計なセリフを、延々と、延々と発し続ける。「ほらね、結局あなたはそうなのよ」「それで君は満足したわけなのかい? へー」。言われたほうは、「まただよ、もううんざりだよ」と思うのに、手を差し出されたらいつものくせで、立ち上がって踊りだしてしまう。

これ、余計なことを言い合う丁々発止のセリフのやりとりも面白いですが、言われたほうの表情がピクリと動くのが、また絶妙です。いやなら拒否すればいいだけのことなのに、「また来た!」とピクリと動く表情の背後には、生き生きと張り切りだすエネルギーのようなものが垣間見えて、夫婦のダンスが根深い宿命的なもんだということがよくわかってきます。ほんとに、エリザベス・テーラーとリチャード・バートンの組み合わせはすごい。舌を巻きます。

こうしたファミリーダンスは、踊りだしたらもうとまらないのが常。いつまでも、いつまでも、不毛なダンス。疲れ果ててへとへとになっているのに、「Shall we dance?」と手を差し出されたら、筋肉痛の足でも踊っちゃう。

この映画は、そんなダンスをずーーーーーと踊り続けてる二人のお話なのでした。思い当たり人がいたら、あなたも不毛なダンスを踊ってる可能性があるかも? 



このダンス、時としてハタを巻き込みます。夫婦の場合は子供を巻き込むことも多い。周りはあわててとめようとしたり、一緒にダンスを踊らされる羽目になるけれど、最後には二人の世界に戻っていってしまい、ハタは置き去りになるのが常。

もし、夫婦の間で不毛なファミリーダンスが日々踊られているなら、差し出された手を取らない勇気も必要です。難しければ、「誘ってきた」と思った時点で別の部屋に行くなり、外出して距離をとる。相手は、こちらが立ち上がって踊りだすことを無意識で期待していますから、拒否されると最初は??となる。??の次は反撃や攻撃に出ます。そこを耐えてダンスを断り続けることができれば、相手もつまらないから誘わなくなってくる。つまりは、不毛なファミリーダンスはけしかけるほうにも、受けるほうにも責任があるってことかもね。


さて、そんなファミリーダンスを描いたもいっこの映画を取り上げようと思ったのですが、長くなってしまったので、これはまた次回に。

不倫、男の視点、女の視点

危険な情事運命の女夫以外の選択肢スパングリッシュマディソン郡の橋愛の流刑地巴里の恋愛協奏曲

 最初にお断りしておきます。私は不倫容認派です。長い人生、いいじゃないの。夫や妻以外の異性にぐらりとくる時があっても。そもそも、中世ヨーロッパの文化はそんな土壌で培われてきたわけですし、世の中の多くの文芸作品は婚外恋愛から生まれている。否定するのは簡単だけど、否定してるだけじゃ何も語れないでしょ。きれいなところだけ見て生きることなんてできないもん。

 そういう私を、許せん! 女の敵だわ、と思う人はこれから先は読まないでちょうだい。おそらく最後までかみ合わないと思うので>笑


 世の中的には「不倫は悲劇の結末を迎える」ことになっています。多くの不倫劇は、相手を傷つけ、周りの人を巻き込み、最後にどろどろになって破綻していくシナリオが好まれていて、映画でもそんな不倫劇の名作が数々ありますね。「不倫は怖いよー。不倫しちゃだめよ。不倫はいけないことなのよ」という教育映画として金字塔を打ち立てたのはこの映画でしょう。

危険な情事 スペシャル・コレクターズ・エディション 危険な情事 スペシャル・コレクターズ・エディション
マイケル・ダグラス (2006/11/02)
パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン

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 さらにいえば、「オバカちゃんが不倫するとこうなっちゃうのよ」という典型的な映画がこれ。
運命の女 特別編 運命の女 特別編
リチャード・ギア (2006/08/18)
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン

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夫以外の選択肢 スペシャル・エディション 夫以外の選択肢 スペシャル・エディション
ナオミ・ワッツ (2006/05/26)
角川エンタテインメント

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 危険な情事は、妻子もちが「結婚を望んでしまう独身女」に手を出した悲劇。後者2本は、「傍目になんの不満もない結婚生活を送ってる人妻がよろめいちゃった話」。いずれも、結果は悲劇。「恋に落ちちゃった」とばかりに自己陶酔したあげく、自分のおケツを自分で拭けずに相手も回りも傷つけまくる善良な市民の映画です。特に「夫以外の選択肢」はつける薬がないバカ夫婦2組の映画。ただ単に、夫や妻を傷つけるために誰かと不倫する。その相手に、夫の親友、妻の親友を選んでスワッピング状態になりながら、自らの運命を嘆いて「かわいそうなあたし」って。顔洗って出直してきなさい。あほ。


 不倫するならそれなりの覚悟がいります。覚悟だけじゃない、裁量が必要です。私が考える、一番大切な浮気のルールは「自分たち以外の誰も傷つけないこと」。つまり、傷つくのは自分たちだけという覚悟を持つことです。周りの人や相手をさんざん傷つけたあげく、自分だけしあわせになろうと考えるような輩は、婚外恋愛なぞできません。傷つくのは自分だけ。それが、不倫っつーもんです。だから、夫が浮気したから自分もしちゃえとか、相手を傷つけるために不倫してみるとか、そういうのはもう論外の論外。


きちんと裁量できる人なら、最後に自分が傷ついた結果も、人生のスパイスとして受け止められるもんです。地に脚をつけて、自分ひとりの心に納めてまた生きていく。そういう力量がある人なら、一度きりの人生、恋愛せずになんとする。

不倫がまわりの人を傷つけ、どろどろに愛憎劇になっていく背景には、「不倫はいけないこと! という罪悪感に苦しみながら」、ちっとも自分を制御できずに「恋に落ちてしまった純粋で善良な市民のあたし」に酔いしれてしまうメンタリティがあるんじゃないのかね。そんな幻想はどこにもないのよ、と地に足をつけてる女は、もっと賢い選択をして、不倫を生きる力に変えることだってできるわけで。
 そんな映画としてよくできているわねえ、と思ったのが前回紹介したこの2つの映画なわけです。

スパングリッシュ スパングリッシュ
アダム・サンドラー (2006/06/07)
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント

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マディソン郡の橋 マディソン郡の橋
クリント・イーストウッド (2000/04/21)
ワーナー・ホーム・ビデオ

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(これはあまり好きな話じゃないけどね)


それでいくと、小説で、最近出された一番のアホ不倫小説とその映画はこれでしょう。

愛の流刑地〈上〉 愛の流刑地〈上〉
渡辺 淳一 (2006/05)
幻冬舎

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 こんなもんを愛だとかなんだとかいえてしまう神経は、ご本人が出した著書

鈍感力 鈍感力
渡辺 淳一 (2007/02)
集英社

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著者がそのままの感性だとしかいいようがありませんわ。ほんとに嘆かわしい。

 何が愛しているなら殺して、じゃい。相手も回りも傷つけまくりながら恋に落ちていくあたし、ぼくちんにロマンを感じるというのは、つける薬がないほど幼稚な自己愛でしかありません。そんなもんに萌える人が多いなら、日本はまことに幼児性自己愛の塊じゃないのさ。
 わかもんが騒ぐならまだ救いがあるが、大新聞の連載でおもろいおもろい、と読んだ立派な社会人がいるのなら、もう救いがいたい。そんな幼稚な自己愛でマスターベーションする輩に、不倫は無理よ。やめときなさい、ね、ね。


 それにしても。不倫したくって仕方ない男どもが作る不倫劇に、なぜ美しく楽しく不倫が成就した映画や小説が少ないのでしょうか。願望をそのまま形にしたものがあっていいんじゃないのかね。たとえば、小池真理子や瀬戸内寂聴の小説などには、不倫が悲劇であるにせよ、そこを乗り越えて違う人生を掴み取る女性の物語は数多くある。成就しない不倫が招く悲劇の結末を描く映画の作り手の多くが男であるという事実を、あたしはどう受け止めればいいのか、しばし途方に暮れることがあります。

 不倫の是非とか、婚外恋愛をどう考えるとか。善良な市民面下げてヒロイズムに浸る人がいたら、ぜひこの映画を見てください。

巴里の恋愛協奏曲 巴里の恋愛協奏曲
オドレイ・トトゥ (2005/05/06)
タキコーポレーション

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 夫がいるマダムに言い寄る人が当たり前のように多数。ヨーロッパの不倫文化の成熟度を垣間見る映画。おばちゃんに言いよるおじちゃんたちは、こんなセリフであしらわれていきます。「私には愛人(アマン)がいるのよ」。夫がいるのは当たり前。お断りの理由は夫ではななくアマンですわ。見事あっぱれ。

 そんな中で、いい男に見向きもされない小娘たるオドレィ・トゥトゥ(アメリの女の子)は、好きな男にこう諭されます。「二番目に好きな男と結婚して、一番好きな男と不倫しな」。

 大義名分で潔癖に道徳論をふりかざしすぎず、ニンゲンのあるがままの感情の、きれいな部分も裏がわの部分もちゃんと見る。傷つくのは自分だけ、と自分のオケツは自分で拭き、地に足をつけてたくましく生きる。あたしゃそう生きたいね。  

 不倫劇でじたばたの殺人や傷つけあいの映画を見るたびに、「ケセラセラ」といいたくなります。ニンゲン、適当力が必要です。ハリウッドの体のいい不倫是正教育映画を作る人には、ぜひこの手帳を使っていただきたい。誰か英訳してやって。

適当手帳 適当手帳
高田純次 (2006/11/11)
ソフトバンククリエイティブ

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