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東国原知事にオススメ

ステップフォード・ワイフ(ニコール・キッドマン主演 2004年)ステップフォード・ワイフ(キャサリン・ロス主演 1975年)

 週末にテレビをつけると、どのチャンネルを回してもどこかしらに東国原宮崎県知事のご尊顔を拝するようになりました。いやああ、タレントの全盛期より出とるねえ。ま、実際に電波に乗るとしゃべりもおもろいし、存在感が(何故か)ある。県政やらんと、と思いながらも出てくりゃ私も面白がっているんだから仕方ない。

 とはいえ、テレビというのは因果なもので、ついぽろりと口から出た言葉が独り歩きして、あれこれ物議をかもすことがある。政治家みたいに言質が取られる人たちがあまり電波でしゃべりすぎるのは危険じゃよのお。ほれほれ、私みたいなひねくれもんにもう言質取られちゃいましたから>笑。ということで、今回は東国原知事におススメの映画のお話。

 女性を自宅にこっそり泊まらせたと写真週刊誌にスクープされてしまったあと、この方は頻繁にカメラを自宅に入れるようになった。「ほら、こんな風に男3人が雑魚寝してる男所帯なのよ。冷蔵庫の中は氷とビールだけよ。食事もファストフードや弁当だし、栄養のバランスはもうがたがた。洗濯だって自分でやってるのよ」、と。

 女性が同じアピールをしたらどうだろうか。家はぐちゃぐちゃ、冷蔵庫はからっぽ、食事はほとんど外食よ。でもそれだけ忙しいんだし、それだけ魂こめて仕事してるのよ、、、、といくら付け加えてもこれはイメージダウン。
 同じことを男性がすると、どうやら「これではあまりにかわいそう。奥さんを探さないと」と考える人が多発するらしく、知事にはお見合いの話が次々に舞い込んでいるのだそうだ。町を歩くとおばあちゃんが「ごはん作るよ、私でどうだ? まだまだ使えるよー」などと声をかけてくる。
 ま、ほほえましい逸話だ、とも思えるけど、いけないのはこうした番組の中で言わなくていいことまで言わされてしまうこと。

 「知事の好みの女性はどんなタイプですか?」
 「なんかねえ、ほんとに家事が好きでやってる人がいいね。料理とかでも一生懸命がんばられちゃうと、こちらも気を使っちゃうでしょう。家事が好きだから、やる。さりげなく身の回りのことをしてくれる人がいいなあ」
 ………。


 あらま。お口チャックしておけばいいのに。だめよ、奥さんと家事をセットにしちゃ。しかも「好みの女性」という質問に、彼の家の中を見せている番組で「ほんとに好きで家事をしている人」を答えちゃあきまへんわ。“家事に困っているから、家事をする人が好み。しかも恩に着せずに、ほんとに好きだからという理由で家の中をきれいにして料理を作り、夫のセックスの相手もする。本人が好きでしているんだからおおげさな感謝の必要もなく、手間もお金もかからない”。そう受け取られちゃっても仕方ない発言になっちゃうわけで、「そんなつもりは毛頭ない」発言だったのかもしれないけど、こりゃもう女性の長い歴史の中では仕方ない反応なのよ。

 ちょっと前に柳沢大臣が「産む機械発言」で大バッシングを受けたけれど、これはやはり彼が厚生労働大臣だったからまずいわけで、町の頑固親父がポロリと発言するぐらいでは「またまた困ったやっちゃ」と思われるぐらいで済んだかもしれない。なぜ大臣がこういうことを言っちゃまずいかというと、長い女性史の中で「出産は義務ではなく権利である」という認識を得るまでの多くの歴史的プロセスがあったから。こりゃもう社会の常識です。厚生労働大臣がこうしたお勉強もしていないのですか? 一番言っちゃいけない言葉ですよ、「産む機械」ってのは。。。。。。。。。つまり、一人の男性の価値観としてどうかという意味ではなく、政治をする人の発言としてあまりに歴史的認識がなさすぎるというのが「絶対に言っちゃだめだってば」という理由なのですわ。


 東国原知事の発言も同じ。「家事に困ってるから、理想の女性は家事が大好きだからさりげなくちゃんとやってくれる人」。あかんよ、一番言っちゃいけない方向性よ。政治家としてはね。で、しっかりとスタジオにいる東ちづるに「栄養バランスが悪いなら栄養士を雇え、家が散らかっているなら家政婦さんを入れればいい。生活が荒れるのは自己責任です。それと奥さん選びを一緒にするのは間違っている」ときっぱり言われていましたが。(えらいぞ、東ちづる>笑)。
 でもね、ほんとにそうなんです。自分の暮らしが荒れるのは、自分の責任。奥さんがいないからじゃありません。スタジオではテリー伊藤からもこんな意見が出ていました。「この家のインテリアセンスひどすぎ。冷蔵庫の中もひどすぎ。宮崎を美しい場所にしたいと活動しているんだから、まずは自分の家を見せて誇れるだけのインテリアにしないと」。まさに、御意。
 やもめ暮らしのわびしさを自慢しても、同情はされません。自己責任でなんとかしてから、人生を一緒に歩んでいけるパートナーを探しましょうぜ。ね。(前の奥さんは、この人のために慣れない土地で周囲に頭を下げ、知事の妻としてこの人のパンツを洗い食事を作る暮らしにNOを言ったわけで、そういう意味では懲りてないんだわねえ)。


 とはいえ、町の人々から「お嫁さんが必要だ」という言葉が普通のように飛び出し、それに「家事がほんとに好きな人がいいね」と答える知事のやりとりを見ながら、私が一番驚嘆したのは、「そうか、もうまったく変わっていたと思っていた現実は、実は何も変わっていなかったんだな」ということでした。私はね、「家の中をきれいに整えておいしい食事を作り、掃除もお料理も大好きで、きれいでグラマーでにこにこしていて、夫にたてつかない従順な女が男は好き」なんて発想はもう過去のものじゃろ? と思っていたわけなんですわ。少なくともこの映画を見たあとはね。

ステップフォード・ワイフ ステップフォード・ワイフ
ニコール・キッドマン (2005/06/10)
角川エンタテインメント

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 これは、1975年に作られたこちらの映画のリメイク版です。

ステップフォード・ワイフ ステップフォード・ワイフ
ティナ・ルイス、エドガー・J.シェリック 他 (2005/12/22)
パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン

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 アメリカでは、いまだに「彼女はステップフォードワイフだわ」と比ゆに使われるぐらい、この映画に出てくる女性たちはステレオタイプな妻。もとは、アイラ・レヴィン原作の「ステップフォードの妻たち」を映画化したサスペンスミステリーですが、映画ではこのステレオタイプな妻たちが実際に映像として多数出現する様が、なんともいえず圧巻です。
 舞台はコネティカット州ステップフォード。都会から移り住んできた主人公夫婦の目に映るのは、美しく手入れされた庭と、お菓子の家のような理想のマイホームが連なる姿。引越し当日から、主人公はこの土地にいる妻たちがどこか異様なことに気がつきます。いや、「異様だ」と思うのは主人公だけか。夫のほうは「なんてすばらしい土地なんだ」とご満悦です。


 ここでは、どの家でも白いエプロンをした妻が家の隅々まで磨き上げ、ケーキやクッキーを焼き、みな従順で夫に逆らわず、しかもとびきり美しくてスタイル抜群。リメイク版では、主人公役のニコール・キッドマンは、昼下がりに訪れた隣家の2階から夫婦のセックスの声が響き渡るのを耳にしたりします。「あなたは最高、あなたのすごい」。妻の果てる声のあと、夫が「何か飲み物をもってこい」と命令する声が聞こえます。2階からベビードールのネグリジェを着てキッチンに向かうプレイメイトばりのスタイルの妻。そう、ステップフォードワイフはベッドの上でもこのうえなく役に立つ妻なのです。

 町には男性専用のクラブハウスがあり、住民男性は全員ここのクラブに所属することになっています。主人公夫妻の夫も、やがてここのクラブに出入りするようになる。「どうだい、ステップフォードでの生活は? すばらしいだろう。男にとってはこのうえない理想の場所じゃないかい?」。
 確かに、と主人公の夫は思います。でも、と彼は答えます。「それはみなさんの奥さんがすばらしいからだ。まさに理想の妻だ」。それに比べて彼の妻はどうでしょう。ほかの家に比べたら散らかりまくってぐちゃぐちゃです。ケーキもクッキーも焼かないし料理好きでもない。その上、都会でしていた仕事に未練があり、越してきたこの土地でも何かを始めたいと思って、さらに家事をおざなりにした上、夫に意見したり反抗したりする。これまで愛する美しい妻と信じていた存在が、ステップフォードワイフに囲まれたとたん色あせて、夫は妻に不満を持ち始めるのです。


 リメイク版では、ニューヨークで辣腕テレビプロデューサーだったという設定のニコール・キッドマンが。原作では同じくニューヨークでカメラマンを目指して作品を発表し続けている設定のキャサリン・ロスが主人公。自身の仕事と自我を持つ女性が、このステップフォードに引っ越してきて、さて。結末はどうなるのでしょうか? 設定は別として、新作と旧作ではこの結末に大きな違いが隠されています。これは話してしまっては面白くないので、ぜひDVD借りてみてくださいね!


 この「ステップフォードワイフ」。最初にリメイク版を見たときに、武蔵野婦人としては「なんじゃこりゃああああ。あほか。いまどきこんな映画を作って何の意味がある?」と、かなり落胆しました。 おっぱい大きくて、何でもはいはいということを聞いて家事が大好きな、おつむノータリンの女性が男性は好きなのです、なんてことを、今の世の中で映像にして見せても、「あほくさ」と思うだけよ。そういう発想が社会常識として流通している時代だったら、ある種のホラーとしてきちんと成立する。そこで「ピリッと利いた社会風刺」と、「ステレオタイプな女性像を求めることへの警告」という精神作用が働かない限り、なーんの意味もないストーリーじゃん。
 もしくは、もう完全にこんな発想が寓話化してしまった時点で、過去にはこんなこともあったのねえ、というおとぎ話として作らない限り、この原作本来の意味が持つ「ホラー性」は意味をなさないでしょう。

 新作ではバービー人形ばりの二コールキッドマンが人形のようで見ごたえがありますし、SFXを駆使したステップフォードワイフたちの異様な(しかし男から見るとパラダイスな)風情はお見事な映像です。このあたりが映像として「使える!」と思ったスタッフ陣が軽い気持ちでリメイクしてみた、、、、というシナリオだとしたら、まさにまさに、あほや。今の時代、このストーリーはもう何の意味も持ちませんぜ!

 まじに、そう思っていたんだす。だから、原作のキャサリン・ロス版を検証のつもりで見ました。そして、確信しました。アメリカでは1960年代後半からウーマンリブ運動が台頭をはじめています。こうした動きが日本にも取り込まれ、日本で第一回のウーマンリブ大会が開催されたのが1970年。そしてその後、1979年に国連総会において女子差別撤廃条約が採択されて、その後の男女平等社会の推進に大きく貢献したわけです。この映画が作られた1975年は、まさにウーマンリブの台頭時代なわけで、こうした中で実は大いに保守的であるアメリカにおける主婦の立ち居地に対して、強烈なゆれ戻しがあったように私は思います。
 旧作での主人公キャサリン・ロスのファッションは典型的な都会スタイルですが、ステップフォードで唯一できた友人は明らかなヒッピースタイルです。ヒッピーやフラワーチルドレンなどの出没とかぶるこの時期は、女性の地位だけでなく、保守と新しい若者文化が対立した時代でもある。こうした現実に対する強烈にシニカルな切り口として成立する映画なわけで、これを今の時代に持ち込んだら単なる「コメディ」にしかなりません。色物的おもしろさで手をつけちゃいけない世界というのはあって、今の時代に持ち込むことで意味を失う映画というのはあると思います。リメイク版はその意味で、不快な映画だった、というのが私の認識だったわけですわ。

 それが、東国原知事の一連のやりとりを見て、「そうか、ちっとも何も変わっていなかったのか。意味をなさない不快な映画だと思っていた今の時代のリメイク版「ステップフォードワイフ」を見て、こんな荒唐無稽な話の中に今の時代「怖い怖いホラーだねえ」なんて思いながら「でも、実は男にとっては垂涎ものの理想の世界じゃねえ」なんて思う輩が、まだまだいっぱいいるってことか!」…ってことを突きつけられたようで、あたしゃしばし途方にくれたわけです。
 もし時間があったら、ぜひ旧作と新作を見比べてみてほしいです。旧作は正真正銘のホラーです。でも新作は果たしてホラーなんでしょうか。それとも荒唐無稽なコメディなんでしょうか。もし、新作をいまだにホラーとして成立させるメンタリティが色濃く現代にあるのだとしたら、その現実こそが私にとってはおおいなるホラーであります。なんかさ、がっくしだよ。
東国原知事はぜひごらんになってね。「心から家事が好きな女性」(しかも若くて美しくてグラマー)がいっぱいいっぱい出てきますよーーー!

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母と娘の呪縛

愛と追憶の日々ヤァヤァ・シスターズの聖なる秘密ホワイト・オランダーバイバイ、ママ

 母と娘の間には、時として大きな確執が生まれます。

 男性にはわかりにくいかもしれません。また、実際に女の子を育てている母親の側でも自覚されないことも多い。生育過程で何らかのトラブルがあったとか、性格や考えかたの違いにより、いさかいが絶えず相手をうらむような形で起こる親子間の確執もありますが、母と娘の確執の特徴は、「仲良し親子」「姉妹のような親子」として成立しながら、水面下で静かに壊れていく形を取ること。いやあ、これがね。怖いのよ。ほんとよ。

 こうした密着型母子関係が引き起こす多くの問題は、実は近年になるまであまり注目されていませんでした。フロイドやユングの時代が扱ってきたのは、封建的な家族間での支配や抑圧によって起こる精神疾患が中心だったわけですが、その後、家族はどんどん新しい形に変わっていきます。親子は平等になり、核家族化が進み、「家」の概念は希薄になる。これはヨーロッパもアメリカも日本も同じ。
 こうした変化の中で、それまでの心理学が扱ってこなかったような問題が親子間に芽生え始めることになる。とはいえ、現実に起きていることと、それを研究する学問との間にはタイムラグが生じますから、最初のころはみな「何がおきているのかようわからん」という空白の時期があるように私は思うのです。心理学の黄金期には扱いきれなかったような問題がどんどん起きているのに、相変わらず教授と学生は基礎から前時代の心理学をお勉強していたわけで、この間にフォーカスされなかったさまざまな問題が、1970年後半ぐらいからあれこれ話題に上るようになりました。

 この微妙な時期に作られたのではないかと思われるのが、この映画。
愛と追憶の日々 愛と追憶の日々
シャーリー・マクレーン (2006/11/02)
パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン

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1983年、アメリカ映画です。
 さて、この映画。機会があればぜひ見ていただきたいなあと思うのですが、同時に、この映画に寄せられる感想やレビューにも注目して欲しいのですわ。最近はアマゾンでも、TSUTAYAのオンラインレンタルDISCASでも、MIXIでも映画レビューを見ることができます。どうでしょう。誰もが賞賛の嵐です。「母の強い愛に感動した」「こんな親子に私もなりたい!」「涙が止まらない感動超大作」と。

 主役の個性的で支配力の強い母親にシャリー・マックレーン。娘役はデブラ・ウィンガー。以前紹介した「デブラ・ウィンガーを探して」は、この映画のあとに「愛と青春の旅立ち」に出演したのち、すっぱり引退して家庭に入ってしまったデブラを、ロザンナ・アークウェットが追った映画です。
 まだ若いデブラは、可憐で従順な娘役をうまくこなしているし、マックレーンは相変わらずの存在感。

 これはこの母と娘の関係を追ったこの映画。若いころに夫と別れて、女でひとつで娘を育て上げたシャーリーは、きまぐれで魅力的で意志の強い風変わりな女性として描かれています。母と娘は典型的な「仲良し親子」。結婚式を控えた娘はすべてを母親に報告し、ハネムーンのベッドから母に電話をかけ、日に何度となく連絡を取り合っては、お互いの日常を確認しあっていきます。やがて母には恋人ができます。ここはとても有名なシーン。母と娘はベッドに並んで、赤裸々にセックスの話をします。「セックスってサイコー!」と叫ぶ母に、驚きながらも大笑いする娘。当時、これは衝撃的なシーンでした。お互いのセックスまで話し合える母と娘。これまでなかったがゆえに、好意的に受け止められたのだと思いますが。さて。さて。


 多くのレビューや感想で、この親子関係は賞賛され、「こんな親子に私もなりたい」と思う人はたくさんいるようです。確かに、ほほえましい親子関係ではあるのです。でも、私が気になるのは、果たして作り手側はこうした意図でこの映画を撮ったのだろうか? ってこと。

 この映画、武蔵野婦人的に観れば典型的な「支配的な母親とそれに従う娘」のパターンで、それでいくとこの娘は正真正銘のAC(アダルトチルドレン)です。見方を変えると、「支配的な母親と従順な娘」のバランスが、娘の結婚(母親が気に入らない男性とあえて結婚することで家を出る=初めての大きな反抗をする)によって崩れていく映画。
 で、結局最後は娘は自分の人生をまっとうできず、結婚生活が破綻したあとに病で夭逝し、母親は恋人を得たあとに、娘の残した子供を得る。親子とも必死に生きて、双方の愛情もしっかり描かれています。でも実際にはグレートマザーが娘を食っちゃうという、とってもとっても怖い映画なのよ。(ま、そんな見方をしている私は、感動している人たちから観れば、なんとひねくれたやつだ! ってことになるんだろうが)。


 この映画が作られたのが1983年。アメリカあたりで現場のケースワーカーたちが、アルコール依存症やDVのある家庭で育った子供たちに現れる典型的な症例をACと呼び出したのが1970年代の初頭。このACがさまざまな形で社会現象となり、多くの本が出版されはじめたのが、1980年代初頭でした。
 その中でも、私が鮮烈に覚えているのがこの本です。
愛しすぎる女たち 愛しすぎる女たち
ロビン ノーウッド (2000/04)
中央公論新社

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 それまで、アルコール依存症などの機能不全の家庭にだけ起こると考えられていた問題を、「密着しすぎた母と娘の関係」のフォーカスしたという意味で、私にとっては大きな印象を残した本でした。つまり、一見仲良くみえる親子の関係の中にも、過剰な支配や密着によってさまざまな問題が発生しうる。支配する母親との間に共依存の関係ができると、娘は自分の人生を生きることができずに、うつ状態に陥ったり、自分自身の結婚をうまく維持できなくなることがある。

 さて、この本の日本の出版が1988年。アメリカでの初版本の出版年が定かでないのですが、さほどタイムラグはないようです。
 ね。微妙でしょ。AC概念の普及は1970年代後半だけど、これが母子関係に敷衍されはじめたのは80年代後半。この映画は1983年。むふふ。

 この映画、共依存の母子を確信犯で描いたんでしょうか。それとも、封建的な家族関係が変容しはじめた70年代のアメリカで、急速に増え始めた「ともだち親子」の存在を好ましく思って、作り手も純真無垢に母と娘の愛情物語のつもりで作ったんでしょうか。かなり、かなり興味のあるところです。
 この映画の監督はジェームス・L・ブルックス。ほかの作品には「恋愛小説家」「スパングリッシュ」。うーん。ねじれのないまっすぐな監督さん。ストレートな表現の奥底に潜む社会問題をあぶりだすような手法は、取らない人でござると思う。というわけで、あたしとしては、純真無垢に作ってみてそれにみんなが大感動した! ってシナリオに座布団1枚。
 つまりは、みんなが大感動するような「仲良し母と娘」の関係性は、当時は新鮮で素敵なものに映って映画にもなったけれど、そこには大きな問題も潜んでいた。その問題が、その後少しづつ見え始めてきた、ってことなのかもしれません。

 で。だとしたら、こうした中に潜む母と娘の共依存関係というのは、ほんとにほんとに怖いものだなあ、と思うわけです。だって、この作品にいまだに大感動している人たちがいっぱいいるわけです。見え方が違うと、ほほえましい美談と映ることもあるわけで、どちらかといえば精神的負担をかぶりがちな娘のほうは、そうした「母子の美談」の期待にこたえるために、またまたがんばらなくちゃならないわけですから。たぶん、いまも必死にがんばっている娘たちが、世の中には結構いるようにも思います。



 さて、この映画が作れらてから24年。密着型母子が生み出すさまざまな問題は、広く、大きく取り上げられるようになってきました。真っ向からこうした母親と娘の関係にフォーカスした映画も、多く撮られるようになってきました。
前作との対比で観ると面白いな、と思うのがこの作品です。
ヤァヤァ・シスターズの聖なる秘密 特別版 ヤァヤァ・シスターズの聖なる秘密 特別版
サンドラ・ブロック (2005/03/25)
ワーナー・ホーム・ビデオ

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 娘役にサンドラ・ブロック。前作、デブラ・ウィンガーに比べて、意思のある強い主人公で、社会的な地位もしっかり持っているのが、大きな違いです。このお話は、もとは児童文学としてアメリカでベストセラーになったもの。ま、結果的には母と娘の愛情物語なわけですが、ここではサンドラ・ブロックを、母親との関係の中で「うつ状態を恒常的に繰り返し」「自身の結婚に恐怖を感じてなかなか踏み切れない」女性として明確に描いています。
 彼女の抱える現実の問題が、母親との関係や出来事に起因していることを明確にした上で、母親の隠された過去をたどっていくことで、和解して新しい一歩を踏み出す。母親の生きた封建的な時代の病理や、児童虐待にも通じる彼女の言動、育児ノイローゼ・育児放棄など多くの要因を絡み合わせた展開はなかなか見ごたえがあります。が、結果的にはハッピーエンドなお話。この主人公の精神面の描き方は、明らかに前作の「愛と追憶の日々」から24年の隔たりを感じるものがあります。
 そして、何らかの「生きづらさ」を感じている女性がいるのなら、自身の生い立ちや親子関係にふたをせずに、しっかりそこに向き合って乗り越えることで、一歩が踏み出せることがあるよ、と。この映画が明るくハッピーエンドを迎えることでそんなメッセージを感じるのも、また好ましいなあ、とは思います。

 ま、ただね。武蔵野婦人的に言わせてもらえば、結局最終的には「娘が母親の生き方を受け入れる」解決なんですわ。猛烈にマイペース、人の気持ちお構いなし、パワフルでわがままというこの強烈かあちゃんは、最後まで自身の道を貫き、自分がどんなに苦悩したかを娘に提示するだけです。娘が受けてきた仕打ちは、こうした母の生き様を提示されて帳消しになり、それを受け入れるのは、娘。
 結局、強烈な母と従う娘の関係は、最後までこうなのかもしれません。そして、両者痛みわけでハッピーエンドにつながる可能性はあまり高くない。親子の関係に気づいて娘が歩み寄って和解を求めても、逆に傷つくパターンもある。この映画で母と娘が和解できたのは、ひとえに母親の側の親友たち=ヤァヤァ・シスターズという第三者の介入があったからです。そんな視点でこの映画を見てみるのもおもしろいかもしれません。
 結局は、一番賢明な選択肢は、へその緒を切って距離感を置く練習をすることしかないように思います。それだけ、母と娘の確執は根深く、母の力は偉大で美しい反面、強力な破壊力も持っているということです。自分が母となったいま、こりゃもう深く心に刻んで、日々精進ですな。


 最後に、こうした「美談にもなりうる」部分をまったく併せ持たない、破壊力のみにフォーカスした怖い母の映画も紹介しておきましょうー。

ホワイト・オランダー / ミッシェル・ファイファー

バイバイ、ママ / キラ・セジウィック

 ACとか共依存などという生やさしいものではありません。変質的執着を子供に対して持ってしまった母親の話。怖くて、痛いです。でも、果たして自分の中にこうした要素がゼロかというと。うーん。どこかで「わからなくもない」と答える細胞が眠っているようで、母親としての自身に身震いすることもある武蔵野婦人ですわ。

 前作2本を見て心から感動し、上記2本を見て、何がなんだかよくわかんないけど、そんなおかあさんも世の中にはいるの? こわすぎー! なんて思えた人は、とてもとても恵まれた親子関係の中に育った人です。自身の環境に深く深く感謝して、自分の子どもをおかあちゃんパワーの犠牲者にしないように、十分距離感を持って育てて行きましょう!
 

 

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