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ソウルフードと家庭回帰への違和感

ソウルフード かもめ食堂

 いま、日本が大変なことになっちゃってる、と武蔵野婦人は思っています。何が大変って? そりゃ、すでに存在もしていないはずの「家庭」を幻想として消費しようとする人々が増大しはじめ、一億総幻想として「家庭教」を普及させようとするお偉いさんの思惑に簡単に乗っちゃったかあちゃん、とうちゃんたちが、こぞって「家庭ごっこ」を始めちゃっているからなのでありますわ。書店の書架をごらん遊ばせ。ビジネス書コーナーに「子どもの学力を伸ばすための休日の過ごし方」をとうちゃんに指南する雑誌が並び、頭の言い子を作るための毎日の献立だの、子どもを格差の下流にしないための指南書だの。気持ち悪―い本がいっぱい売れているのでございますことよ。


 しかも、こうした家庭はどうやら「上流」と「下流」に仕分けされて、格差もつけられているらしい。「家庭力」に敏感な人たちは、どうもみな自分たちを「上流」、もしくは限りなく上流に抵触する中流と考えているらしく、勝手に想定した「下流」にならないための秘策をあれこれ、みんなで顔つき合わせて考えている。このあたりの指南書と見ると、どうやら下流というのは「収入が少ない」「知的レベルが低い」「社会的地位がない」ということになるらしく、下流の子どもというのは「成績が悪い」「素行が悪い」ということになるらしい。で、おしなべて語られる「格差社会が教育格差を生む」ということになると、つまりは膨大にかかる教育費を負担できない低所得家庭は、子どもに十分な教育機会を与えられないために子どもは下流に落ち、そこから這い上がることはできない。。。。という、いとも恐ろしいアルマゲドンが語られているわけですの。

 私の周囲では、この論理にのっとって「公立中学、公立高校にしか行かれない子は格差の下流である」という、わけのわからんことを言い出す人もおる始末で。こうした、恐怖をあおる形でのプロパガンダに加担する書籍、雑誌情報などは、もうやめていただきたい。これね、結局は社会格差の原因を「家庭」に帰結させるという権力側の巧みな作戦に乗ってしまうことになるわけで。さらにいえば、子どもの教育問題、健康問題、体型の変化や情緒の変化、マナーの欠如や学力低下を、すべて「家庭」の責任にして逃げ切ろうとするおっさんたちのもくろみに他ならない、と武蔵野婦人は思っておりますのよ。

 こんな卑怯なプロパガンダに乗ってはいけません。おかあちゃんたちは胸を張って、「下流がどうした、いいかげんな子育てで何が悪い!」「こどもの学力向上、体力と体型の向上は国がきちんと責任を取れ!」と開き直れ。そのくらいでもう、ちょうどいいんじゃよ、今の時代は、と。切に、切に思うこのごろなのであります。(このあたりについては、現在発売中のAERAにて「格差の上流にいる人が、人間として尊敬できるかどうかというのはまったく別の問題でしょ?」ってなコメントを武蔵野婦人は寄せておりますので、よかった見てくださいまし)。


 と、ひとしきり吼えてみましたが>笑。今回取り上げたいのは、こうした「家庭力」回帰という卑怯なプロパガンダの横行の中で、繰り返し唱えられている「ごはんをきちんと作りましょう、おかあさん」というメッセージへの反論であります。

 朝食をきちんととりましょう、というのは政府主体で行われている「食育」の基本方針で繰り返されている定番のメッセージ。さらに、ここに百ます計算で有名な陰山英夫さんの主張である「朝ごはんは、お米を食べよう」とか「早寝早起き」で規則的な生活を、なんていう文言が重なり、プラスアルファで「成績のいい子は食生活もきちんとしている」となり、もっとびっくりなのは「成績のいい子の母親は料理が好き」(格差が遺伝する! ~子どもの下流化を防ぐには~ (新書) 三浦 展 (著))というとこまで敷衍して、いまや、おかあちゃんはごはんをきちんと作ることに必死こいている日々です。頭のいい子に育てて、上流をキープさせてやるために、ごはん力が求められているということですね。

 で、ここで繰り返し語られるのが、「日本人は、やはり日本食が一番」であって、日本のソウルフードである、米、野菜、魚を中心とした食事をきちんと規則正しく食べさせてやることが、子どもの暮らしを支えるということになるわけです。現在は、ここに巷のナチュラル・ロハスブームが重なって、玄米菜食だの、自然農法で作った減農野菜だの、マクロビオティックだのにはまって、夢見がちなまなざしでオーガニックフードの料理を作る人たちも出てきました。そうですね。やっぱり、「おかあちゃんの作る料理」は一番で、そのルーツは日本のソウルフードに帰結する。お袋の味万歳、ソウルフード万歳。

 うん、ま。いいんです。それはそれで。私だっておいしいものは大好き。そして「ソウルフード」という魅力的な言葉も好き。うまいもんは、うまいんだもん。それでいいじゃんね。からだが欲するものを食べ、作りたいものを楽しく作り、元気にうまいうまいと食べて暮らせたら一番。これは、別に子どもを上流にしたいからとか、食育をしなくてはいけないとか、そんなものとは関係のない場所で、自分がそうしたいから、そうしているわけで。そこに「ソウルフード」が存在するなら、それはそれでいいんです。


 問題は、そんな「ソウルフード」を必要以上に美化して、主に「家庭」に存在する女性に、「ソウルフード」の製作と維持を期待してしまう精神構造にあるのだ、と私は思うのです。時代が変わって、世界も変わって、食も変わらざるを得ない場所に来ているのに、必要以上の懐古をしてはいけない。女性が台所を守って、ソウルフードを守ってきた背景に、どれだけの血と汗と涙が潜んでいるのか。このあたりを無視して、壇上にいる人たちが美化してはいけません、と。そう思ったきっかけになったのが、この映画でした。

ソウル・フード ソウル・フード
ヴァネッサ・ウィリアムス (2005/04/28)
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン

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 これはアフリカ系のアメリカ黒人家族の絆を描いた映画。3人姉妹のいる祖母マザー・ジョー(イルマ・P・ホール)は、手料理のソウルフードを作って日曜日のディナーを毎週催すことで、家族の絆を保ってきた、グレードマザー。奴隷の時代を記憶する彼女は、自分たちのルーツをしっかり見据えながら、「家族は団結しよう」とおいしいごはんを作り続けるわけです。 でも、そのマザー・ジョーが病気で倒れてから、家族にはさまざまな試練が訪れてばらばらに。失われた家族のきずなを取り戻すため、主人公の少年がとった行動とは?

 この映画を貫いているのは3つの柱です。黒人の平坦ではない被差別の長い歴史、家族のすばらしさ、ソウルフードという大きな存在。
家族大好き! な人が見れば、さわやかな感動に満ちた映画だと思います。とっても素直。とってもシンプル。 ただ、ではこの映画を持ってして「そうよ、家族はすばらしい。私たちも家族でつながろう、家族で乗り越えよう」と思えるかというと、武蔵野婦人としてはちょっと微妙。これは、長い差別の歴史の中で家族で団結せざるを得なかった時代に、女がひりひりと血を流しながら必死で生きた結果の「おばあちゃんのソウルフード」なわけで、それをそのまま今の日本で「家族ってすばらしい、おばあちゃんの料理ってすごい」と結びつけることは絶対に、絶対にできないのよ。

 料理っていうのはね、何の力も権利もない女が、唯一力をふるえる場所であったのだと思うのです。おばあちゃんのソウルフードは、ノスタルジィだけではなく、女の血と汗と涙が混じっている。特に、差別社会に生きたアメリカのアフリカ系黒人のおけるソウルフードのありかは、イメージだけで「家族ってすてき!」なんて私しゃ語れないよ。

 簡単に「昔ながらの家族礼賛」をしたがる人には、その幸福な家族の風景の後ろ側には、女のたくさんの涙があるんだよ、と言ってやりたい気にもなります。


 ちょっと前のことになりますが、心理学者で文化庁長官であった河合隼雄さんとお話をさせていただいたとき、こんなことをおっしゃっていました。「おっさんたちはね、みんな昔はよかったとか、古き日本にはよい家庭があったとか言うんだよ。そういう人たちは、そうして維持されているかのように見えた家庭の裏側で、どれだけ多くの女たちが血と涙を流していたのかを知らない。日本の古きよき家庭は、その裏で誰かしらの試練や我慢や大きな犠牲をもとに成り立っていた。そこを見ないで「昔はよかった」なんて今の時代に繰り返しても、なんの現実味もないの」。

 私の祖母も、ソウルフードの作り手でした。おばあちゃんのお正月料理には、すべての家族がひれ伏した。夫や姑の強い権力の下で、常に服従を強いられていた彼女が、唯一家族全員を有無も言わさずひれ伏すことができたのは、彼女の牙城、台所においてしかなかったのかもしれません。それが、女が現実を生き抜くための最大の武器だったのだ、と。

 そんな風に考えると、私は簡単に「おふくろの味が一番ですよ」だの、「日本人のソウルフードを守りましょう」なんて、いえない敬虔な気持ちになったりもするのです。

 安易な家族礼賛、安易な家庭回帰と家庭力への依存。幻想として維持されているイメージの中の「家庭」像には、見えない犠牲や血と汗と涙が隠れている。そこを誰も引き受けなくなっている現代で、安易に「家庭」幻想に固辞してしまったら、そのしわ寄せはいったいどこに行くのでしょうか。
 母親の首を切ってバッグにつめて歩いていた高校生。両親を殺してひとり温泉に滞在していた中学生。一件、何の問題もない「家庭」の形をとった場所で起きている「何か」。


 なんかいい雰囲気なんだよねー、なんてロハスな気分で「ソウルフードが一番うまい」というメッセージを受け取るたびに、なんとなく警戒心をいだいてしまう私は、やっぱりどこかひねくれているのかもしれません。こんな映画が流行るのも、なにやら複雑な気分なわけで。(雰囲気がおしゃれで素敵で、ロハスだよね~なんていう夢食いバクみたいな映像が、なんだか最近は多すぎる気がするんだわね)。

かもめ食堂 かもめ食堂
小林聡美 (2006/09/27)
バップ

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とりあえず、上流なんてならんでいい。下流なんてカテゴリー自体が、世の中にはないし、誰かにあんたは下流なんていわれる筋合いもない。結果を求めて日々の暮らしを送るのではなく、欠けていたって、足りなくたって、いとおしい自分自身と家族のありのままの姿で、日々楽しく暮らせればそれでいいじゃん、と私などは思うのであります。カップヌードルだってあたしにはソウルフードだもんねー、だ。



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頑張る女がはまる未完の仕事ーUnfinished Work

ショコラカサノバ

 現実の暮らしの中で、「好きなタイプの男」を語るのは結構難しいもんです。だって、思うほど多種多様の男が身の回りにいるわけじゃない。まして、見ているだけでぼんやりしちゃうほどのいい男なんて、生活半径にそうそう存在しないわけで。その意味では、異性の品定めの手段として、映画は私の人生でかなり大きな位置を占めてきました。

 この「好きな俳優」というのは、結構その人となりを表したりもします。実生活でちょっと気になる男性がいたら「好きな女優さんは?」と聞いてみる。答えで、多少相手のキャラクターは理解できる。(もひとつ、好きな音楽は? というのも大きなポイントですが)。ここで、「松嶋菜々子」とか「オドレィ・トゥトウ」といった答えをもらったら、その男性と私との間に恋が芽生えることは、おそらく“ない”>あはは。


さて、そんな私は、少女時代から首尾一貫して似たような男性に強く惹かれる傾向がありました。なにせ、最初にはまったのがジャン・ポール・ベルモント。「勝手にしやがれ」でノックアウトされ、以降「ボルサリーノ」でいぶし銀になるまで長い長いお付き合いをさせてきただきましたわ。もう一人大きな存在が「ルパン三世」>笑。これは私の人格形成に大きな大きな影響を与えているな。しぶいところでは、アイルランド出身のリーアム・ニーソン。最近ではオダジョーが気になって仕方がない。

 勝手に自己分析してみると、どうやら私は「ひとつの場所に安定しない男」に惹かれる。クールでカッコつけてばかりの男じゃだめ。適度に三枚目。笑うと子どものような笑顔になるのに、ふと見せる孤独な横顔がたまりまへん。。。。。。といったタイプに弱いようですわ。そしてその男は、いつどこへふらりと消えてしまうかわからない。女心はつかんで離さないけど、一緒になってもたぶん幸せにはなれないかも? なんて男だよね。これ、同じような傾向を持つ女子は意外といるようで、以前「この立ち居地の男は、ムーミンにおけるスナフキンである」という結論に達したことも。ほれほれ、スナフキンが妙に気になっていたあなた。似たような傾向がありまへんかの>笑。


 さて。こんな私が「これこれ、これなのよっ!」とひざをたたいて喜んでしまった映画がこれでした。
ショコラ DTS特別版 ショコラ DTS特別版
ジュリエット・ビノシュ (2001/11/03)
角川エンタテインメント

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最初にこの映画に手を伸ばしたのは、お気に入りの女優のひとりであるジュリエット・ビノシュ主演だったから。「存在の耐えられない軽さ」で見せた彼女の、天真爛漫な、しかし強烈にエッチなセックス場面が忘れられません。すっぴんでほっぺが真っ赤。ごっついふくらはぎに木綿のソックスをはき、ブルマーの白いパンツでの情熱的で激しいセックス。この子すごい……と舌を巻いて以来、彼女のファン。

でも、そのつもりで見たのに、この映画では、これまで風貌としてはさして気になる俳優でもなかったジョニー・デップが私の人生に急浮上してしまいました。完全にノックアウト。ああ、なんて素敵なの。この映画のジョニー・デップ。

 ジョニーの役回りは、ジュリエット・ビノシュがフランスの因習深い田舎に作ったチョコレート店にふらりと立ち寄るジプシー(いまは差別用語なので、ロマ民族と呼ばれています)の男です。村を通り過ぎ、彼女を通り過ぎ、つまびくギターの音色だけを残していく。出番は少ないですが、この「通り過ぎていく人々」が、古い村と、そして彼女の心にちょっとした変化をもたらしていく。いかにもフェロモンの塊といったジョニーの風貌、そしてチョコレートとギターと、ロマの一行の焚くかがり火の光。冷たく、暗かった街の風景が、官能的な映像で満たされていく悦楽。

 鬱屈した暗いフランスの街の人々を、どこから来たのかもわからない、不思議なジュリエット・ビノシュとその娘が、チョコレートの魔法で少しづつ変えていくこの映画は、サイダー・ハウス・ルールのラッセ・ハルストレム監督の手による大人のおとぎ話です。私はね、とってもこの映画、好きです。
 
 さて、そんなこんなですごしていたら、もいっこ、似たような「これこれ!」という後味を残す映画に出会ったのですよ。
カサノバ カサノバ
ヒース・レジャー (2007/01/26)
ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント

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 歴史上に名を残す好色ドンファン、カサノバがベネチアを舞台に恋の鞘当。実際の話と結末はまったく違っていますが、これはこれでひとつのエンターティメント。なんたってディズニー映画ですから。そう割り切って楽しめば、なかなかの出来だと思います。
件のカサノバ役は、「ブロークバック・マウンテン」で同性愛の哀しげな男を好演していたヒース・レジャー。正直、まったくもって私のタイプではありません。なのに、なのによ! 見終わったらうっとり。はぁ、とため息が出て、心はなんだか萌え状態なのさ。なんなの、この妙な満足感はっ!
 
 しばし考えて、はっと思い当たりました。これは「ショコラ」のジョニー・デップにノックアウトされたのと、まったく同じ理由なのでは? 

 この映画では、カサノバは運命の恋をして、最後にはベネチアを離れてその女性とともに新しい人生を選択することになっています。ベネチアに残ったのは、替え玉のカサノバだったという斬新な設定ですが、このカサノバの心を捉えたフランチェスカ(シエナ・ミラー)の人物設定が、ショコラとの共通点なのでわ!? と武蔵野婦人は考えるわけです。


 フランチェスカは女性の権利と開放を訴えるため、男装して男の名前で秘密に著作を続けている中、カサノバにその秘密を知られてしまいます。それまで、修道女から貴族のマダムにまで幅広く手を出していたカサノバ。放埓な暮らしを総督にとがめられ、姦淫の罪から逃れるために刹那的な結婚をしようともくろみ、処女で人形のように美しい少女たちをその相手に選ぼうとしています。その中で出会ったフランチェスカ。
 そうなの。決してひとところに止まらず、誰にも心を預けなかった男が最後に選んだのは、人形のように美しく、男の言うことを何でもきく少女ではなく、自立して改革を目指している大人の女だったのよ! どうよ。すごいじゃないの。

 因習に満ちた世界を、「チョコレート」というお菓子作りで変えようと奮闘するジュリエット・ビノシュ。女性差別に満ちた世界を、「書く」行為で変えようと奮闘するフランチェスカ役のシエナ・ミラー。彼女たちは自立した女性であり、大人の成熟した心とからだを持っており、才能もある。そして、「このままではいけない、何かを変えなくては」と自覚して、行動にも移している女性です。でも、社会の中ではストレートに認められにくく、時に批判されたり、妨害されたり、生きにくさの実感を抱えており、「人生の成功者」とはなれずにいる。
 その彼女たちのもとに、「これまでどこにもとどまることがなく」、「決して誰のものにもならなかった」男が戻ってきて、そして「最後の女」に彼女たちを選ぶのよっ。 そう、彼女たちはもっとも困難である「手に入れにくい男の最後の女になる」という仕事に成功して、最終的に自分自身の仕事をも含めた人生そのものをサクセスストーリーとして塗り替えることに成功するんです。

 男性の成功物語は、成しえた仕事の中身で語りつくせることもある。でも、女は単純無垢に「仕事で成功したのー」と喜べない。つまりは、それだけ女が単身で成功するには、社会の中で困難に満ちたプロセスがからまりあっているわけで、女性はそんな現実の中で常に公私ともに複雑な感情に翻弄されたりしているわけですわ。

 「そして王子様と王女様は末永くしあわせに暮らしました」という、幼児期から刷り込まれた女の子としての最大のサクセスストーリーも、折を見ては頭をよぎる。男なんていらない、一人で生きていけるといくら強がっても、最後に「幸せの手札」としてあきらめきれない、「末永く幸せに暮らしましたとさ」幻想。これ、先日女優の寺島しのぶさんの結婚でも、母である寺島純子さんが繰り返し話しているのがテレビで流れました。「どんなにお仕事が充実して成功しても、女はやっぱり結婚して家庭を持ってはじめてしあわせ。素敵なパートナーがいなければ女としての本当の成功にはならないの」。ううっ。涙。ブルータス、お前もかっ。

 「ショコラ」を見て、最後にジョニー・デップがジュリエット・ビノシュの元に戻ってきて本当にうれしくて、胸がいっぱいになるほどのカタルシスを感じたのも。「カサノバ」を見て、最後に手に手を取ってベネチアから遠ざかっていくヒース・レジャーとシエナ・ミラーを見て、いいようのない満足感を感じたのも。頑張ってる女が最後に報われるのだ、という強烈な自己確認につながったからなのだわね、きっと。のほほんと日和見で、美しくて豊かで、何の疑問もなく家庭に収まって幸せに胡坐をかいているような女もいいかもしれないけどさ、でもってそういう女を選ぶ男は、自立した女には興味はないだろうけどさ。でも、どうよ。そういう女が成しえたことは、これだけ困難な男を最後に手に入れるだけの価値はあるんだよ。そうだよね、ね。うん、そうなんだよ! ああ、満足。

これ、社会にもまれて、自立しつつ一人で何かを変えようと頑張ったことのある女なら、似たような達成感を感じるんじゃないかなあ、と思うんだけど違うだろうか。あれ、あたしだけ?>笑 もし似たような感覚を持ったことがあるヒトがいたら、ぜひ教えてね。

 まあね、上記であれこれほえていることは、あくまで「想像の世界」の中でのカタルシスなわけで。現実にはそんなことは幻想であるということは、私にも十分わかっているつもりです。何よりも、「ショコラ」のジョニー・デップも、「カサノバ」のヒース・レジャーも。映画の中では女の下にとどまりましたが、実世界では必ずしばらくのちに、またどっかに行っちゃいます。知ってるもんねー、私。
 そして、この手の「何かを変えようと自立した」女性が、男のみで人生の幸福をまっとうすることはできません。結局、彼女たちが追い求めているのは「未完の仕事」(Unfinished Work)なんですもの。

 因習に満ちた村を変える。差別に満ちた社会を変える。すばらしい意識ではあるけれど、時代背景などを考えれば、途方もなく困難な仕事であることは誰の目にも一目瞭然です。判断を間違えると、「そこまでしなくても」という余計なお世話に手を出してしまうこともある。そういう困難な仕事にあえて立ち向かう女たち。すべてのヒトがそうだとは言いませんが、これは人間関係で共依存といわれる関係性に陥ってしまったヒトが取る行動によく似ています。アルコール依存症のパートナーをなんとか更正させようとする。DVの夫を暴力から解放させよう、不仲の両親を仲を取り持とう。このあたりの心理学上での「共依存」の詳しい説明はこちらがわかりやすいです。


相手のことや社会を第一に考えて役に立とうという救済行動は、妄信すると場合によって逆効果になることがあったり、自分自身の心の満足も得にくいという特徴があります。そう、つまりは必要以上に困難なことに挑戦して頑張りたがるヒトは、思い込みで誰かのためにやった行動の成功率が意外と低いため、結果としてはなかなか心の満足感を得にくい。人生における成功感も実は得にくいのれすわ。なので、この映画のように「最後はしあわせに暮らしましたとさ、めでたしめでたし」とはなりにくい。その分、こういうストーリーはファンタジーとしてきちんと成立するのかもしれません。

 でね。それでも、彼女たちは挑戦をやめられない。それが、自己確認の手段なのだから、仕方がない。でもって、そのもっとも困難でやりがいのある挑戦のひとつに「行ってしまうスナフキンを私が引き止めて愛を教えて一人前に安定させる」という仕事が存在するとも考えられる。映画では、対象となる男はもっとも手に入りにくい設定のジプシーという放浪者、カサノバというドンファンでした。この困難な男が困難な仕事をさほど必要とせずに、ストレートに自分のものになるというファンタジーは、だから頑張ってる女性心をくすぐるんです。

 さて。では現実世界ではどうでしょう? 実は共依存に陥る人の特徴の一つとして、「自己評価が低い」ことも挙げられています。自分は有能だ、自分は美人だと根拠レスな自信に身をゆだねられない人が多い。こうした人々は、現実世界では「誰もが認める競争率の激しいいい男」には手を出しません。ほかの競争相手と張り合えるだけの自信が欠如しているからです。

 じゃあ、どこに向かうかというと、はたから見ると「なんであの人?」と思うような「問題を抱えた男」にはまり込む傾向がある。借金、アルコール、女癖、DV、モラハラ。もしくは問題のある家庭や過去を抱えた人や、極端な寂しがりやとか嫉妬深い人。自分より何もかも上の人は、自らのコンプレックスが刺激されてしまい卑屈になるので回避。どちらかといえば自分より少々格下、保護者の視点から相手の問題を解決できる対象を選んでしまうことが多いように思います。仕事はやりがいがあるほど、魅力的というわけ。

有能な女性が、しばし「だめんずウォーカー」になってしまうのは、こうした心理的背景があるからなのでは、と私は思います。ま、映画の世界と現実は微妙に違うってことなのかも。

 まあ、2本の映画ともそこまで狙って作られた映画ではまったくないと思うのですが、女性の成功像の考察として、勝手にそんな視点からこの男女の設定を眺めてみるのもまた、楽しいなあと思う武蔵野夫人なのでした。あ、私は決してだめんずウォーカーではないですよ、今は(笑)。ある時期にちゃんと自覚して襟を正したので大丈夫―! うふふ。ああ、また「ショコラ」見たくなったなあ。

靴という深遠でエロティックな道具

セックス・アンド・ザ・シティ靴に恋してイン・ハー・シューズゴーストワールドキンキーブーツ薬指の標本

 突然ですが、靴が好きです。洋服や装飾品には感じない、強烈なエロスを感じるんです。とはいえ、イメルダ夫人や、セックス・アンド・ザ・シティの主人公キャリーのように、靴コレクションに散財することはありません。マノロジミー・チュゥのヒールを眺めるのは好きだけれど、ほしいとは思わない。その代わり、ただひたすら私に似合う靴との出会いを探している。たぶんね、私の靴へのこだわりは、靴そのものの存在ではなく、「私と靴」との関係性の中にあるような気がするわけです。

 甲高で足の人差し指だけが長く、幅広の私の足には、一般的にヒールの代名詞といわれているようなメーカーの靴は木型がほとんど合いません。さらにいえば、ピンヒールやきゃしゃなデザインのサンダルは、私の日常のファッションにも合わない。家で仕事をしつつ、たまに都心に出ておしゃれをしたい、気持ちよくたくさん歩きたい私の足にぴったりと合う靴。さらに私のファッションやライフスタイルに合い、私のおしゃれ心をくすぐるとびっきりかっこいい靴。こういう靴との出会いはそうそうあるわけではなく、だからこそ、たまにそんな靴に出会えたときのうれしさはとびきりで、さらに言えば、その靴が何度はいても履き心地がよく、違和感なく私の日常に滑り込んできたときの悦楽は何者にも変えがたい、とも思うわけです。

 今回は、そんな私の大好きな「靴」を扱った映画を。

靴に恋して 靴に恋して
アントニア・サン・ファン (2005/05/25)
エイベックス・マーケティング・コミュニケーションズ

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 以前、「リスボンサプリ」として紹介したこの映画。前回私が靴について書いたのは、こんな内容でした。
「靴はひとつのメタファーで、小さな靴を履く女、盗んだ靴を履く女、スニーカーを履く女、スリッパを履く女、扁平足の女…と、登場人物はそれぞれ特徴的な靴をはきながら、自身の向き合う現実と格闘していく。誰もが自分にぴったり合う靴を探しているのだけれど、それはそう簡単にはみつからないね、というわけ」。
 このDVDのジャケットには、整然と並ぶイメルダ夫人ばりのハイヒールのコレクションの写真が使われていますが、これは登場人物の靴マニアのマダムの自宅のシューズクロゼットの風景。ライティングされた棚に並ぶ高級ハイヒールの風景は、一種異様とも思えるインパクトを持って見るものの心に迫ります。
 もうひとつ、靴の異様なコレクションがおがめるのが、この映画。

イン・ハー・シューズ イン・ハー・シューズ
キャメロン・ディアス (2006/10/27)
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン

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 決定的に自分を扱いきれずにいるキャメロン・ディアス演じる妹に比べ、社会的に成功して堅実な自己像を確立している姉のクロゼットの中は、高価な靴の壮絶なコレクション。ファッションや美貌の点では妹に格段に劣る(ごめん!)姉のクロゼットの膨大な靴。このギャップがとても異様なのです。

 そう、靴のコレクションってね、やっぱりどこか異様なんですよ。そう思いません? クロゼットいっぱいの洋服の風景より、数段インパクトがある。おしゃれさんだから、お金持ちだから、というだけではない。靴を集める行為というのは、マニアの域を超え、やはりどこか病理をはらんだ危うさを感じてしまう。これ、何なんでしょう? そう思っていたときに、この映画でおもしろいフレーズをみつけました。


ゴーストワールド ゴーストワールド
ソーラ・バーチ (2002/06/07)
ジェネオン エンタテインメント

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 直接靴とは関係ないストーリーなんだけどね。アメリカの人気コミックを映画化して話題になった作品で、世の中となかなかうまくやっていけないティーンエイジャー女子の心理を、上手に上手に描いている、結構お気に入りの映画です。この中で高校を卒業してあてどなく大人への道を逍遥する主人公は、髪の色をミドリに染めてパンクになってみたり、突然胸の開いたセクシードレスを着たり、猫の耳をつけたメイドファッションなどでコスプレじみた服装を次々と試している。演じるのは、「アメリカン・ビューティ」で、幼い表情と豊満な肉体で独特の存在感をかもし出していたソーラ・バーチ。コミックそっくりに黒縁メガネにネクラな表情のソーラの化けっぷりも見事。

 このDVDの特典映像で、ソーラは主人公のこうした傾向を指してこうコメントしています。「彼女は本当の自分がわからないの。何かになりたいという強烈な思いはあるけれど、自分が何者なのかがわからない。だから彼女は髪を染めたり、服を変える。そうすることで自分を見つけることができるかもしれない、って思うからよ」。

 改めて言われてみて、なるほどと思ったわけです。コスプレ願望は、「自分と違う何者かになりたい」という意識の方向性だと思っていたけれど、「自分」そのものが希薄でつかめない人間にとっては「どこかにあるはずの自分」探しの、格好のツールなのかもしれません。その「どこか」が社会の中に見出せなければ、コスプレの方向は限りなくファンタジーの世界に埋没してしまう。バニーガールやパンクにコスプレしているうちはまだいいけれど、アニメの世界に入り込むコスプレ世界の中では、リアルワールドは関心外に置き忘れられて、ひたすらファンタジーの中にただよう自己幻想を追い求めるようになっちゃわないのか。そんなやつらが多すぎないかね。今。ま、そのあたりは別の話なのでまた今度。

 話がそれましたが。とにかく、衣装のコスプレが「どこかにある本当の自分探し」のひとつの手段になっているというのは、私にとっての小さな発見だったわけです。それでいくと、靴はどうなんでしょう。
 衣装が「他人に自分がどう見えるのか」という表層的第三者視点に立脚しているのとは違い、道具としての機能が生理的な快・不快と直結している靴の世界では、人にその靴がどう映るかという視点のほかに、「この靴は自分に合うのか」というもっと自分自身の肉体的感覚が強烈に働くように思うわけです。コスプレが「自分をつかみかねている子の、本当の自分探し」の手段であるのなら、靴コレクションをし続けるのは「自分自身をどこかで本当に理解してくれる人(物)探し」の手段といえるのかもしれません。

 だってね、子どもは靴は集めないのよ。靴を集めるのは、結構いい年をした大人です。自分が誰であるかはおぼろげにわかってきた大人の女(男)が、その次に求めるのは、そんな自分自身の本当の姿を、しっかり受け止めて理解してくれる誰か。もしくは、そんな居場所。誰もが、自分にぴったり合う靴を探している。その靴が自分に余計な苦痛をもたらすことなく、気持ちよく自分らしい暮らしの中にすんなり納まって、なおかつ、その靴を履いた自分が今よりもっと素敵でおしゃれに輝いていたい、と願う。

 靴に恋してしまう大人の女の、そんなはかなげな飢餓感のようなものが、膨大な靴のコレクションの風景を一種異様な迫力のあるものに見せてしまうのかもしれない、と武蔵野婦人は思ったりするのでした。
 もうすっかり大人の私は、自分の足にぴったりの靴がどんなものか、すでに経験値でよく知っています。だから、無理に足を痛める靴、靴ずれのする靴、自分を素敵に見せてくれない靴は選ばない。ブランドや見栄えで靴は選びません。自分に合うものはなかなかみつかるものではないけれど、みつかれば即買います。だから、膨大なコレクションはいらないんです。
 膨大なコレクションを繰り返すのは、どこかでまだ「自分にはどんな靴が合うのか」がわかっていない人たちです。マノロのストラップピンヒールを履いて、5分で靴擦れしてしまうセックス・アンド・ザ・シティの主人公キャリーもしかり。痛い思いをしたり、自分を傷つけてしまう靴はいらないんです。でも、その痛い思いの中に愛や安らぎがあるのかもしれない、というはかない期待。
 靴コレクションをする女性が集める靴は、どれも背伸びした高いヒールの高価なブランド物です。靴の山は「ありのまま」でいることを受け入れられない、「今のままでいいわけがない」と考える女性たちの、必死の挑戦なのかもしれません。



 ぴったりの靴を探しているのは、女ばかりではありません。男にも、そして女の姿をしたい男にも、合う靴を捜し歩いている人はいます。「キンキー・ブーツ」は、実際にあったイギリスの靴メーカーの実話をもとに作られた、最高にファンキーな映画。

キンキーブーツ キンキーブーツ
ジョエル・エドガートン (2007/02/23)
ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント

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 老舗の靴メーカーの父親に、後を継ぐべく幼少時代から仕込まれた主人公、チャーリー。頑固な職人気質の父親は、彼にこう言い聞かせます。「いいか、靴を見ればその人がわかる」。そして、昔ながらのウィングチップの紳士靴を、熟練した職人たちが作る姿が、いかした音楽とともにカットインされていく。もう、出だしからノックアウト!

 そうなのよ。靴はね、見ればその人がわかる。武蔵野婦人も本当にそう思っています。だから、どんなに素敵な人でも、靴が許せない人はまったくダメなんです。趣味の悪い靴もだめ(先日、結婚式でスーツに黒のバックスキンに金鎖の飾りつきローファーを履いてた人みて、ほんとに吐きそうになるぐらいダメ! でしたもの>涙)、かかとがつぶれている人もだめ、汚れていたり、磨り減っていたり、服や靴下と決定的に合っていない人は、たぶんお友達にはなれないのです。で、この直感はほぼ見事に当たります。靴は、その人を現す。だって、靴は生理と直結しているから。靴は、自分探しと直結しているから。

 この映画は、頑固一徹で紳士靴を作り続けていた工場長の父親が亡くなり、傾いた工場をなんとか立て直そうと、新たにニッチな需要を拾い上げて靴作りを始めるチャーリーの話。そのニッチな窓口となるのが、ドラァグクイーン役のキウェテル・イジョフォー。彼の演技、踊り、歌。すべてが最高にいかしています。
そう、彼が求めていたのは、男の体重で歌って踊りまわっても折れないヒール。毎晩、痛む足をさすりながら、小さい女物のヒールを靴べらで無理やり押しこんでいた彼の足を、「ありのまま」に包んでくれる真っ赤なブーツ。男性であるこのドラァグクイーン、サイモンは、チャーリーと工場の職人が作る真っ赤なキンキーブーツとともに、「ありのままの自分」を受け入れていきます。同時に、「こうなったのは僕のせいじゃない、僕に何ができる?」と、現実に受身でい続けたチャーリーもまた、真っ赤なキンキーブーツとともに社会の中にありのままの自分で居場所を獲得していく。

 工場の再生、自分を取り戻すための道のりの過程に、「普通と違う風貌を持ち、普通の風景に紛れ込めない人間が、生まれてはじめて手にする“自分の足にぴったりの靴”」が大きなキーワードとなっているこの映画。最後に、真っ赤なひざ上75センチのキンキーブーツや、見事な豹柄のピンヒール、ピンクのラメヒールなどを履いたごついドラァグクイーンたちが、ミラノの見本市のステージショウでヒールをガンガン床にたたきつけながら、♪gimme gimme cha cha heals と歌い踊る姿はまさに圧巻。
強烈な自己主張、怒り、そしてセックスを含めた生身の人間の感情と肉体の叫びが、ヒールを踏み鳴らす音からあふれ出してきます。いかすぜ、キンキーブーツ!
今年3本の指に入る、いい映画でありました。


さて。そんな「靴」のエロティックで深遠な世界は、興味深い「自分探し」の手段となる一方で、誰かに「靴を履かせる」ことで強烈な支配の道具になることも、ままあるようです。ロンドンで「赤い靴」を履かされた少女は、バレエ団で踊り続ける運命を背負わされ、横浜で「赤い靴」を履かされた少女は、異人さんに連れられて行ってしまう。

キンキーブーツでは、ドラァグクイーン役のキウェテル・イジョフォーが「赤はセックスの色よ!」と何度も叫ぶわけですが、こうした「支配される少女」の靴がみな赤であることも、意味深いメタファーなのかもしれません。
 そんな「靴」の呪縛を官能的に描いたのが、小川洋子の「薬指の標本」を原作としたこのフランス映画です。

薬指の標本 SPECIAL EDITION 薬指の標本 SPECIAL EDITION
オルガ・キュリレンコ (2007/03/23)
ハピネット・ピクチャーズ

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 思い出の品を「標本」にするという摩訶不思議な職業を持つ男性と、孤独な少女との話。原作は日本を舞台に、幼げな少女の描写が詩的につづられていきますが、映画のほうはなんともいえないエロティックな大人の空気に包まれています。さすがおフランス風の味付け。とはいえ、原作の世界観をかなり忠実に再現しており、武蔵野婦人としては心に残る映画となりました。

 汗ばんだ肌、地下のタイル張りの浴室の廃墟、さびしげな港町、孤独な男と女たち。そんな世界の中で、標本技師の男は少女を雇い、彼女に「足にすいつくようにぴったりの靴」を贈ります。「これからは毎日この靴を履いてほしい。ぼくが見ているときも、見ていないときも、常に」。そう言って、彼は少女のふくらはぎをつかみ、古い靴をぬがせて両手でかかとを包み込むように、その靴を履かせるのです。靴をぬがせる、靴を履かせるという行為はこれほどまでにエロティックなものだったとわ!! もう武蔵野婦人、脱帽ですわ。

 やがて二人は、地下の浴室で関係を持ちます。靴をはいたまま。常に。このセックスシーンはかなりの見もの。男性にとっては物足りないかもしれませんが、女性としてはかなりいい線いってる。。。。と思うのは私だけでっしゃろか。武蔵野的には、「ピアノレッスン」に匹敵するほどノックアウトされちゃいましたが>笑。むふふぅ。

 さて、ある日彼女のもとに「死んだ文鳥の骨を標本にしてくれ」と一人の男が現れます。彼はもう何十年も港町で靴磨きをしている老人。老人は少女の靴を見て「すばらしい、足に吸い付くような靴だ。こんな靴には一生のうち何度もお目にかかれない」と驚愕します。同時に、「お嬢さん、その靴はいつ脱ぐんだね」と彼は言います。「脱がないと、あなたのあしはもうすでにその靴に侵食されはじめているよ」と。いま脱がなければ一生その靴を脱ぐことはできなくなるという彼の忠告に、少女は答えます。「私、もう脱ぐ気はないんです。この靴に包まれるように、彼に支配されていたいんです」と。
 靴に支配され、男に支配されるという甘美な欲望。女性がどこかで持ち合わせている、支配されることへの希求を、靴というメタファーでこれほどまでエロティックに描いた作品を、私はほかに知りませんです。びっくりしなあ、もう。
 さて、この少女は最後にどんな選択をするんでしょうか? 結末は小説か映画でどうぞ。どちらも女性の心理をたくみについた、良質な作品だと私は思います。


 靴は深遠でエロティック。靴は素敵で、そして怖いです。でも、やっぱり私は靴が好きで、時間があれば靴を見て回ってしまう。私にぴったりの靴、私を自由にしてくれる靴、私をもっともっと素敵にしてくれる靴を探して。靴をめぐる映画はまだまだいっぱいあります。
またこれからもいろいろ書いてみますねー! おもしろい作品があったら、教えてくださいね。

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