スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

パリが美しく見られる映画

アンジェラ C階段 パリ空港の人々 パリ・ジュテーム アメリ ポンヌフの恋人たち

 私の人生に、はじめて「Paris」という名前が登場したのは、小学校1年生のときでした。赤ちゃんのときからずっとかわいがってくれていた叔父が、エールフランスに就職してパリに飛んだのです。ある日、わが家のポストにエッフェル塔の絵葉書が届きました。なつかしいおじちゃんの字。

「おじちゃんはいま、おフランスにきています。シャンゼリゼーという通りにカフェ・フーケツというお店があります。そこにすわって、がいせんもんを見ながらこのてがみをかいているよ」。


 私が、はじめてパリに触れたあの日。昭和42年。まだまだ海外旅行は庶民にとって夢のまた夢でした。
 おじちゃんは、結局2年でエールフランスをやめて、日本の出版社に転職してしまいました。だから、私の手元に残ったのは、そのエッフェル塔の絵葉書が一枚と、はじめての渡仏のときに買ってきれくれたおみやげの、水彩絵の具だけ。

 でも、その水彩絵の具を私は今も手に取るように思い出せるのです。日本では見たこともない、やわらかく夢見がちな水色のホーロー製のパレット。丸みを帯びたパレットをパチンと開くと、片側は真っ白なパレット、もう片側には、日本の基本色とは微妙に違う18色の水彩絵の具と、真っ赤な柄のついた筆が納まっていました。私にとってのパリは、そんな18色の水彩絵の具から始まりました。「シャンゼリゼーのカフェ・フーケツで、いつかがいせんもんを見ながらコーヒーを飲もう」。7歳の私が抱いた、パリの夢。

 最初に出会った街の印象が強烈だったからなのか、それとも、江原啓之さん流に言えば「前世にパリに住んでいた」からなのか(笑)。パリは、その後の私にとってなくてはならない存在になりました。生まれてはじめて一人でいった海外旅行もパリ。新婚旅行でも寄ったし、ともだちとも、恋人とも、子ども幾度となく訪れました。ヨーロッパもアジアも南の島も、旅行好きの私は結構訪れたと思います。でも、やっぱり最後に戻ってくるのは、パリ。ここ数年は、ほぼ毎年パリに寄っているといってもいいぐらいです。いつでも、行きたいです。訪れるたびに、新しい発見があります。いつか、住んでみたいと真剣に考えています。フランスかぶれといわれたっていいんだもんね。だって、私はパリが大好きなんだもん!

 そんな私が選んだ、パリの街が美しく見れる映画。パリを舞台にした映画は数多いですが、私がお気に入りのパリの風景があるのは、こんな映画たちです。

アンジェラ スペシャル・エディション アンジェラ スペシャル・エディション
ジャメル・ドゥブーズ (2006/10/20)
角川エンタテインメント

この商品の詳細を見る
 「グランブルー」でブレイクしたリュック・ベンソンは、その後「TAXI」などで娯楽路線を走っていましたが、新作「アンジェラ」では大人の寓話をモノクロの画面で美しく描きました。

 これは、さえない男アンドレと、天から降ってきた天使アンジェラの不思議な恋物語。セーヌ川、エッフェル塔、ノートルダム寺院とシテ島の古本市。中心部を貫く金箔に彩られたアレクサンドル3世橋に、国立美術学校に続くポン・デザール。一番美しい「観光地パリ」のダイジェスト。モノクロですが、色がない分、ため息ものに美しいパリの風景が堪能できます。おとぎ話なのだから、市井の裏道には入っていきません。あくまで王道のパリ。観光地パリの風景をこれほど美しく描いた映画は、ほかにないかも、と思います(ほめすぎか>笑)。風景を見るだけでもいいから、また見たい映画。

C階段 C階段
ロバン・ルヌッチ、ジャン・シャルル・タケラ 他 (2000/08/19)
ポニーキャニオン

この商品の詳細を見る

 私にとっての「This is Paris!」を1本選べ、といわれたら、迷わずこの映画。

 主人公は新進気鋭の美術評論家。彼の住むアパルトマンの中央にあるC階段をめぐる、住民たちの群像劇です。ここにあるのは、市井のパリ。そして、芸術と文学と、恋とデカダンのパリ。プレイボーイの主人公が女性を誘う手管が、This is Paris! カフェで繰り広げられる会話が、This is Paris! シニカルで個人主義で、退廃的。そんなフランス人の彼が、C階段をめぐる人々との交流の中で、変化をしはじめます。

 印象派の絵などクズ同然とはいて捨てていた美術評論家の彼は、最後に一枚の絵の前で涙が止まらなくなります。何の絵だと思います? テュイルリー公園にあるオランジュリー美術館の1Fにあったルノワールの「じょうろを持つ少女」。こんなものは絵ではない、と切り捨てていたルノワールの絵の中に、彼は何をみつけたのでしょうか。詳しくはぜひ映画で! これは、ほんと大好きな映画の1本です。

パリ空港の人々 パリ空港の人々
ジャン・ロシュフォール、フィリップ・リオレ 他 (2003/12/20)
ビデオメーカー

この商品の詳細を見る

 ちょっと前にトム・ハンクス主演で、スピルバーグが作った「ターミナル」。作られたのは「パリ空港の人々」の方が先で、おそらくこれにインスパイアされた「ターミナル」製作だと思うのですが、元をたどると実話のエピソードがあるのだそうです。とにかく、私は、絶対にこちら「パリ空港の人々」のほうが好き!

 舞台は、シャルル・ド・ゴール空港。手違いで空港を出られなくなってしまったジャン・ロシュフォール。大改装前のCDG空港の風情が、なつかしく見られます。この空港に住む、住所も国籍もない人々とロシュフォールの数日間を描いたこの映画。
 秀逸なのは、パリに着いたにもかかわらず、一度も外に出られないまま空港で暮らし続けている少年のために、ロシュフォールが地下室のテーブルの上に造ったパリの街。

「ほら、ここにあるのが凱旋門だ。まっすぐ歩いていくと、パリの中心にはセーヌ川が流れている」。

 ロシュフォールがテーブルの上におもちゃのエッフェル塔、コーヒーカップ、消しゴムでパリの街を作ると、とたんに地下室の中に華やかなパリが出現しはじめる。人って、想像力でここまで美しいものが見れるんだな、と思います。テーブルの上の小さなパリ。私が小学生のときに夢見たパリが、そこにありました。

 この後、彼らは本当に空港を抜け出して夜のパリに飛び出します。セーヌ川のバトームーシュ、ポンヌフのイルミネーション、そしてエッフェル塔。誰もが、生まれて初めてパリを見る少年のまなざしで、美しいパリを堪能できるはず。このパリの風景も、最高に美しい1本だと思います。

パリ・ジュテーム(公式サイトはこちら)
main_02.jpg


これはまだDVD化されていない1本。パリには、エスカルゴ状に18の区があって、この18区は、それぞれ強烈な個性があります。この18区ごとに、一人づつ監督がついて、5分のショートストーリーを撮ったオムニバス映画。4区、アーティストが多く住むマレ地区では、ガス・ヴァンサントがメガホンと取ったゲイのガスパールのショートストーリー。9区の歓楽街ピガール広場では、倦怠期を迎えた妻ファニー・アルダンが刺激を求めてバーのカウンターに座ります。もちろん東京も、23区の特徴はあります。でも、練馬区の1本、北区の1本、杉並区の1本なんて、23個見せるだけの懐があるかというと、ちょい疑問。1~18区の風景だけでこれだけのストーリーがあることにも驚きますが、その呼びかけに世界からこれだけの監督が集まったことにも素直に感動。ここにあるパリは、素顔のパリです。だーいすき!
この映画のイントロダクションにあるコピーが、私にとってのパリそのものかもしれません。



いろいろある人生だけれど、私たちには、パリがある。

パリ、ジュテーム(パリ、愛してる)。


ほかにも、「アメリ」「ポンヌフの恋人」など、パリが素敵な映画がいっぱい! パリにいけないときは、そんな映画を見てうっとりする私なのでした。
ああ、また行きたいなあ。次はいつ行きましょうか。
スポンサーサイト

善意という名の残酷

ヴェラ・ドレイク
秘密と嘘 人生は、ときどき晴れ

 高校生のころ、電車に乗っていたら背後で大きな声が聞こえました。
「あなた、ここに座りなさい。ほら、あいているから!」
しゃべっているのは中年のおばさま。話しかけられているのは、どうやら生まれつき障がいをもっているのでは、と思われる若い男性でした。手足が不自由なので、足をひきずって歩いてきたところを、おばさまに呼び止められた模様。
思い思いの方向を見ていた車内の乗客の視線が、一気に声の方向に集まりました。

「いえ、いいです」と、か細い声で彼。
「いいのよ、ほら、座りなさい。私はすぐ降りるんだから。」
「だいじょうぶです」と、さらに消え入るような声で彼。
「遠慮しなくていいのよ。だってあなた、立っているの大変でしょう? ほら、座りなさいってば。善意には素直に甘えるものよ」。
男性は、黙って下を向いたまま、最後まで譲られた席に座ることはありませんでした。一瞬、いっせいに彼に注がれた車内の視線は、やがて心もとなく宙をさまよったのち、やがてそれぞれの手元の本や、社外の景色に戻っていきました。うう。なんともいえない居心地の悪さ。車内に漂ったあの空気、ずっと忘れられません。

確かに、彼のたたずまいと歩くしぐさは、一瞬人の目を引くものがあったのは確かです。でも、このおばさまがいなければ、たぶん私にとって彼は風景の片隅で通り過ぎていくだけだったはず。それなのに、おばさまの一言が、車内の目をいっせいに彼にひきつけてしまった。相手が明らかにSOSを発している状態に声をかける、人の手があったほうが助かるだろうと思われる場面で、さりげなく手を貸す。そんなことを自然にできるといいなあ、と思っていた私にとって、「無自覚な善意って時として残酷」と思わせてくれた、人生でたぶん、これが最初の体験。

ヴェラ・ドレイク ヴェラ・ドレイク
イメルダ・スタウントン (2006/02/24)
アミューズソフトエンタテインメント

この商品の詳細を見る


 この映画を見たあと、そんな高校時代の風景をふと思い出していました。そう、善意って、時としてとても残酷。善行をおこなっている人が確固たる信念を持っていること、そしてその「善意」という正論を前にすると、誰も意見や反論ができなくなること。そして、その善意がどんな結果を生もうとも、「善意だったんですから」というエクスキューズがあることで、さまざまなものが見えなくなってしまうこと。そして、何よりも人は、誰しも心のどこかで「善き人でありたい」と願っていること。

無条件に、そこにあれば受け入れられてしまう「善意」という名の玉手箱は、実は扱いがとても難しい。車内で席を譲るという日常のささやかな行動なら、おせっかいおばさんとして好意的に受け止めることもできるかもしれないけれど、それが「社会の中で困っている人を救う」「世界の中で困っている人を救う」「危機に瀕した地球を救う」なんていった正論を手にしたとき。善意は人を癒して救う力を持っている反面、人を傷つけたり、関係をゆがませたり、時として罪につながることもある。現在あちこちでおこなわれている、環境保護、難民救済、社会活動の中で、無自覚の善意が引き起こしている問題って、実は結構あるのではないですか。まあ、そのあたりは語り始めるといろいろ反論もあると思うので、とりあえず今回は「ヴェラ・ドレイク」という映画にテーマを絞りませう。


「ヴェラ・ドレイク」は、善意のかたまりのような女性が、無邪気な善行の名のもとに必死でおこなった行為が、罪として裁かれていく映画。その分、見終わったあとのやりきれなさは一級品です。
さすが、社会派人間模様を描かせたら秀逸の、マイク・リー監督作品。
1950年代ロンドン。当時、堕胎は罪として禁止されていました。堕胎も離婚も許さないキリスト教の厳しい戒律。結婚と出産に関する、こうした禁忌の背景には「すべての子どもたちは愛のある夫婦の下で、望まれて生まれてくる」という、揺るぎがたい「正論」が存在するように思えます。

でもさ、現実はそんな正論どおりになんて決して運ばないよね。レイプされて妊娠した子。恋人に暴力を振るわれたのちに、捨てられたあとで妊娠がわかった子。不倫の子をみごもった子。セックスの代償として、妊娠を引き受けるのは常に女性の側なのに、愛と正義の自己責任を問う社会の倫理観は、第三者(男)の無責任な行動で被害にあって「正論をはずれてしまった」女性たちの救済に門戸を閉ざします。堕胎手術は違法であるだけでなく、高額な費用がかかり、さらにはやむを得ずそうした手術を望んだ場合、手順を踏むうちに望まぬ妊娠が社会に公表されてしまう。

こうした現実の中で、「困っている娘さんが、たくさんいる」。ヴェラは、ただその現実に突き動かされるように、純真に、無垢に女性たちを「救おう」と思うのです。若いころに見よう見真似で身につけた、「せっけん水を大量に膣内に注入する」という方法を使って。


ヴェラ・ドレイクを演じるイメルダ・スタウントン は、多くの部分をアドリブでこなしているのだそうです。これは、マイク・リーの常套の演出方法で、役者に事前にシナリオを渡して入念な打ち合わせをすることなく、役者をその場に置くことで湧き出してくる、役者個人の感情やせりふを拾い上げて、1本の映画にする。「秘密と嘘 」「人生は、時々晴れ」など、この手法で珠玉の作品が生まれています。(まあ、好き嫌いはあると思うけどね。私は大好きな監督さんの一人です)。

「ヴェラ・ドレイク」というこの映画は、多くの部分がこのイメルダ・スタウントンの地の演技で成り立っています。そして、彼女の存在感はまさに「善意の人」。どこにでもいるような、気さくでやさしいおばちゃん。難しいことはわからない、説明を求められたら混乱する、罪を指摘されたら、ただただ泣く。そんな虚飾のない、演出を排除した彼女の泣き喚き、混乱する映像が延々と続くことで、観客はさらに「彼女の純真な善良さ」と確認するわけです。


当初、この映画の劇場予告や、PRでは「家族の愛」が強調されていました。やさしい母であり妻であるヴェラを支える家族。彼女が無自覚に犯した罪を家族が知ったとき。打ちひしがれる彼女を支える夫と、見守る家族。。。。。という映像が繰り返し予告で流されました。うむ。

この映画を、そうした「善意の人ヴェラ」と「彼女を支える家族の愛」という視点で切り取ってしまうと、大事なところを見落としてしまうのでは、と思います。日本では、どうしても家族愛などのウェットなものが好まれるため、本来重いテーマを含んでいたものを簡単に情緒的な「家族」「愛」「人生」なんていうものに置き換えてしまう、悪い癖がある。でも、私にはこの映画を、単に「善意の人ヴェラと家族の愛情物語」としてマイク・リーが作ったわけないじゃん、と思います。この家族は、映画のエンディングで決して再生なんてしていないことがわかります。ヴェラの善意がもたらした罪を、今度は家族が全員で背負うことになる。最後には家族の愛が歴然と存在する中で、こうしたやるせない崩壊感が漂います。愛があれば再生するわけじゃないんですよ、人間の関係性ってね。本当に、重い重い映画。


善意という名の残酷。善意という名の愚行。
ヴェラの「娘さんを助ける」という無垢な願いは、結果的にずさんな民間医療行為で逆に女性の命を危険にさらす、という結果をもたらしただけでなく、法を犯したことで、ヴェラを取り巻く家族の日常をも瓦解させてしまう。その過程で、常にヴェラが実直に善意に満ち溢れて、邪念のかけらもないことが、この映画のやるせなさの根源かもしれないと思います。
そして、こうした邪念のない、しかし方向性を間違えた善意が、法社会の中では無常に裁かれていくという側面も、また見逃せない。正論をはずれたものを救済せず、そこを善意を向けたものを裁く社会の残酷さと、そこに対峙する無邪気な善意という残酷さ。

イメルダ・スタウントンはこの映画で、主演女優賞を総なめしました。これが演技だとするならば、ですが>笑。私は、過剰な泣き、わめき、慟哭がとても苦手な部類だったのですが、逆にこの拒否感が、彼女の善良な愚直さを際立たせて、映画としては大きな効果を生んだのかもしれない、と思います。


とにかく、善意とか正論と名のつくものは、取り扱い注意なのだ、と私は思います。正しい姿、善き人、正義感。「正しさ」を語るのは実はとても簡単なんですよ、実際はね。雛形が流通しているし、どんな語り方をしても反論が出にくい。で、受け取る側も、「悪しきもの」に惹かれる人よりも、「正しきもの」に惹かれる人のほうが、総数としては多いと思う。

でも「正しさ」を貫く社会は、キリスト教的に善と悪を二分法で対立させてしまうことになり、その間にたゆたうファジーな発言を切り捨てていくという怖さをあわせもっている。権威がおこなう発言規制など必要とせずに、正しさばかりが語られる社会の雰囲気の中では、自然と人々は自由に意見を発するのを自粛する。正しさがまかり通る社会は、ホントはとってもとっても怖いなあと私は思うのです。人間なんて、人生なんて90%はファジーなもので構成されているというのにさ。

危機的な地球環境と、頻発する戦争と民族闘争を背景に、人々は「正しさ」を希求する方向に向いている。エコロジー、ロハス、シンプルな生活という「正統」に向いたライフスタイルが尊重され、朝食を食べましょう、家族で食卓を囲みましょう、子どもを抱きしめましょう、というプロパガンダが流通する中で、親学を提言する政治家までが出現しはじめた現代の日本。
世の中が正論と善意を求めだす、こうした「迷いの時代」には、どんどん正論や善意を語る人が増え始めます。なぜって、正論を語るのは実はとっても簡単なんだもの!>笑 そして、世の中にはこうした正論の雰囲気を察知して、にわかに元気になる人種ってのが、いるもんだと思います。こういう人たちが元気になる時代というのは、怖いです。とても、きな臭い。
無自覚な善意の残酷さとともに、こうした確信犯の正論の暴力というのも存在していて、これが今の私にとって大きなテーマ。これについてはまだまだ思うところがあって、あれこれ映画を見続けています。また書けるようになったら、いつか。

結婚と家族の衣をまとった幸せの手札

 いつもと違って、のっけから今日は1本の隠れた傑作を紹介したいと思います。今日取り上げたい映画は、これ。フランスで起きたヌーヴェル・バーグの一連の監督たちの中で、唯一、そう唯一ですよ。女性の映画監督として作品を発表し続けたアニエス・ヴェルダの「幸福」です。
幸福 幸福
ジャン・クロード・ドルオー (2005/03/25)
アイ・ヴィー・シー

この商品の詳細を見る


私にとっては、ずっしり重い記憶を脳裏に残した大事な映画なんです。でもね、映画自体はまったく重くも、深刻でも、難しくもない。ここにあるのは、全編を通して淡々と映し出されていく、幸福な幸福な家庭の風景。フランスの郊外の小さな愛らしいマイホームに、ルノアールの絵画のような田園の風景と、美しい音楽。どこもかしこもが、私たちが子どもの頃から抱いてきた「幸福な家庭」のイメージで満たされています。
小坂明子の「あなた」という歌をご存知でしょうか。この映画にあるのは、あの歌で歌われたそのものの風景なんです。郊外の小さな愛らしい家。かわいいキッチンに、つつましい寝室。窓辺にはやさしくレースのカーテンが揺れ、愛らしい子どもたちが父の帰りを待つ横で、妻は決してラクではない暮らしを支えるために、得意の洋裁を生業としています。彼女の腕は確かなようです。「ぜひあなたに縫って欲しいの」とウェディングドレスを遠くから依頼に来る親子がいることからも、彼女が信頼されていることがわかります。大切なそのドレスを、彼女は小さな仕事部屋のつましいミシンで、カタカタと縫います。カタカタ、カタカタ。カーテンがゆらゆら。子どもの笑い声、キッチンでコトコトシチューが煮える音。

 そこに、キキーッとブレーキ音がして、自転車で夫が帰ってきます。夫の仕事は大工。近所の叔父の工房で、家具や建具を作るのを手伝っています。つつましい労働者の、幸福な、幸福な生活。「愛してるよ、君は本当に美しいね」と妻の腰に手を回し、夜は小さなベッドで愛撫しながら眠りにつき、休日は子どもたちをつれてピクニックに行って、青空の下に質素な食事を広げて食べる。映像が見事です。ルノアールの絵画そのものの、光と陰影。淡いまどろみに満ちた色の洪水。笑顔と愛情あふれた、「幸福」という名の家族がここにあります。
 どうですか? この光景、文字で表現しただけでも、目に見えるようでしょう? 素敵よね、。うっとり。

 そうなんです。これが、「幸福」のかたちなんです。私たちの頭の中にインプットされた、「幸福」という名の映像。「しあわせ」という名の大いなる幻想。私たち女の子は、誰もがこんな幸福の映像の実現を、心のどこかでずっと持ち続けているのではないでしょうか。
この映画の主人公の夫婦は、そんな幸福を具現する手札をたくさん持っていました。ところが、常に幸福でいたい夫は、ある日別の幸福の手札をみつけてしまいます。それは、若くて美しい愛人という手札。仕事先の町でであった、妻とは正反対の性格のこの女性を、夫はいとも簡単に愛人にします。そして彼は言うのです。「ああ、僕は本当に幸福だ」。
 妻との生活、愛人との逢瀬の両方の幸福の手札を、両方欲しい! と無邪気に喜ぶ夫に、女たちは答えようと努力します。こんな事態に陥っても、映像として映し出されるのは、すべて、すべて幸福な場面なのです。

幸福の仮面をかぶった現実は、しかしそう簡単に持続することはできません。物語後半、事態は一気に進展します。「愛人がいてもいいわ。私は幸福よ」といつもと変わらぬ笑顔を見せていた妻が、死んでしまう。この「妻の死」というほんの数分だけが、この映画がドラマ性を帯びる一瞬です。
 さて。その数分の「妻の死」のあと。風景は一気にもとのトーンに戻ります。森のピクニック、愛し合う夫婦、かわいらしい子どもと、花とレースのカーテンが美しいあの小さな愛おしいマイホームの日々。ただ一つ違うのは、「妻」の場所に愛人だった女性がいることだけです。妻が入れ替わっても淡々と続く同じ「幸福」の風景がそこにあります。そんな幸福な風景を、彼は満足げに眺め渡します。幸福に満ち満ちた彼の表情。物語は、そこで終わります。

 ぽかん、と見終わってしまう人もいるかもしれません。もしそうだったとしたら、あなたは心底お気楽な人です。笑。「幸福」とは何なのか。ここまでシニカルな冷静な目で切り込みながら、全編を通して美しく穏やかな映像で満たされた映画を、私は他には知りません。

 誰もが幸福になりたい。その思いに変わりはありません。では、幸福になるためには何をしたらいんだろう? 幸福はどんな形をしている? 実はそんなもの、誰もわかりゃしないわけです、ほんとはね。だって、幸福というのは「感じる」もので、それはその人の心の中の問題なのだもの。何を手に入れたから幸福、なんて公式はどこにもない。大切なのは幸福を感じることのできる心の目を持つこと。私はこういう目を持っている人のことを、「しあわせぢからのある人」と呼んでいます。しあわせぢからがある人は、どんな境遇にいても、どんな暮らしをしていても、日々の中にしあわせを感じて生きることができる。それは、その人が住んでいる家、着ている服、ついている仕事や、結婚したパートナーとはさほど関係がないものです。

「結婚」と「家族」という衣装をまとった「幸福」の形を確認するために、人は何らかの手札を必要とするのではないでしょうか。家族であるために、幸福な夫婦でいることで安心するために、人はそれぞれ自分が思い描く「家族の幸せ」の形を集めては、その絵の中に納まっている自分を確認して安心する。
だから、休日のディズニーランドには人があふれ、海浜公園ではさしてうまくもないバーベキューの肉をほおばる家族が絶えない。違う?

だから、私にはこの「幸福」という映画のはらむ、強烈にシニカルな、そして考えようによっては身震いするほど恐ろしい「幸福」の形が、しみじみ心に染み渡ります。この映画を一言いえば、そうだなあ。「美しく、幸福で可憐な毒りんご」。最後のシーンを見ているうちに、私は心の底から「苦笑い」がこみあげてきました。こんな苦笑いをしたのは、久しぶりです。おかしくておかしくって、皮肉で皮肉で、そして妙に爽快。恐るべし、アニエス・ヴェルダ。

同じように、「幸福の手札」を集めつつ、「家族」という因果な幻想を追い求める滑稽さ、哀しさを描いた映画に「空中庭園」があります。
空中庭園 通常版 空中庭園 通常版
小泉今日子 (2006/05/26)
ポニーキャニオン

この商品の詳細を見る


こちらは、小説のほうが断然シニカルです。そして、母と娘という因果で深い関係に切り込んでいるのも、小説。
空中庭園 空中庭園
角田 光代 (2005/07/08)
文藝春秋

この商品の詳細を見る

映画は男性の監督が作ったことで、もうちょっとシンプルでわかりやすいものとなりました。それでも、「家族」の形をした幸せとは何なんだろう? と考えるには十分見ごたえのある映画だと思います。できれば小説を読んで欲しいけれど、でも、小泉今日子と大楠道代の親子は、なかなか興味深いと私は思います。

 さて、では私は、余計な手札集めにあくせくすることなく、でこぼこの自分の今日の暮らしの中で、せっせとしあわせぢからを磨くこととしましょうか。
 

FC2Ad

ネット通販

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。