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アラフォーの視線

若いときに見た映画を、改めて見直してその見え方の違いに驚くことがあります。
映画と自分との間に何が起こるかは、その時の自分の状況に大きく関係している。そう考えると、映画って作品として単体で語られるものではなく、見る側との無数のコラボレーションで成立しているのだなあ、と思います。

さて、私の映画人生は中学生のころ、3つ先の駅にあった名画座「スカラ座」にクラスメイトと通いつめる、というところからはじまりました。
その後、私が自宅に「ビデオデッキ」というものを持ち込んだのは、26歳の時。

自分の家で映画をビデオやDVDで、繰り返し、好きなときに、自分でタイトルを選んで観られるようになったのは、ここ20年ほど間のことなわけです。それまでは何を観るかは興行主のセレクトにゆだねられていたし、観る時間も選択肢もとても限られていて、劇場で見るのは高かった。
中学生から大学(ちなみに私は自校の映研と早稲田のシネ研に在籍していたわけですが、ここでも映画は劇場で見るのがデフォルトでした>ちなみに主演した自主映画もあるじぇ>ふぇふぇ)にかけて劇場で見た映画というのは、そんな環境の中にいて、映画が作られた時代と、自分の時間がリアルタイムで重なったあの時に「一度観たあの映画」としてずっとずっとインプットされていたわけです。

その後は、どんどん出てくる新しいタイトルを追いかけるのに夢中で、昔の映画を見直すことはあまりありませんでした。観たい映画、観なくちゃいけない映画がいっぱいあるわけで、昔見たものはどんどん後回しに。

さて、そんなあのときの自分が昔見た映画を見直す作業を、ここ数年続けています。おやじロックならぬ、おば映画ってわけで、まあ、これがまた懐かしくて楽しいのですが、「いやあ、なんでこの映画があんな風に見えていたんろう!!!」というオドロキも多数ある。若いってすごい。そして、若いってなんて未熟。

今回はそんな「アラフォーになったら見え方が180度変わっちゃいましたよ」という映画の特集>笑。

あまりにも有名なのは「卒業」のラストシーンでしょう。

卒業卒業
(1999/12/24)
アン・バンクロフト

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中学生の私には、ダスティン・ホフマンが教会で結婚式をあげているキャサリン・ロスを奪って逃げるシーンは、最高にドラマティックなハッピーエンドとしてしか見えていませんでした。帰り道に興奮気味に友だちと「いいないいなあ」と言いながら帰ったのを鮮明に覚えています。「おっぱいの先に房がついててぐるぐる回るところが、エッチだったねー」なんてね。

13歳の見える世界なんて、ま、そんなもんです。

そのまま大学生になって映画研究会なんてところに在籍したら、先輩が言うわけです。「卒業の最後のシーンの二人の表情にこめられた感情ほど、秀逸な表現はないよな」。
え? なになに? あれってハッピーエンドでしょ?
「ぬわーにを言ってるの、武蔵野君。顔洗って出直してきなさい!」
ひえー。

20代後半でビデオで見直したら難なくわかりました。興奮気味にバスに揺られながら笑っている二人の視線は、決して交わることなく、最後は真顔に。この数秒の真顔が映画のテーマのすべてを物語っているわけで。ま、そんなことがわかる中学生でなくてよかったとも思うわけなんだけどね(笑)。
この「卒業」をアラフォー視線で観るとまた違った見え方をします。視線は完全にミセス・ロビンソンに移行している自分を発見します。若い二人は、自分の子どもの近い未来。いらいらします。ったくもう近頃の若いもんは! なんて思ってます。何年前の映画だよ!

もう1本、中学生のころにまったくわからなかった名作がこれ。

追憶 コレクターズ・エディション追憶 コレクターズ・エディション
(2005/09/28)
バーブラ・ストライサンド

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最後に二人は再会できたじゃん! なんで、別々に歩いて行っちゃうの? 普通さ、これならハッピーエンドでしょ。理解不能。意味不明。
「なーんかさ、よくわからない映画だったねー」と不満たらたらだった帰り道。映画仲間の一人がこう言ったのです。
「私、わかるわ、二人の気持ちが痛いほど。切ないわ」。
しばらくしーんとした間がありました。えっと、当時彼女は14歳でしたが大学生の彼がいました。私たちの中では、なんだか特別に大人な存在だったのです。
触れてはいけない世界に遭遇したようで、そのまま映画の話題を避けて家に戻りました。

この「追憶」を再び見たのは30歳のころ。
自宅のビデオでラストシーンを見ながら、映画に感動すると同時に、私はひたすら14歳だった彼女に驚嘆していました。あのさ、なんでこんな世界を14歳で理解していたんじゃ? おぬし、やはり只者ではなかったなあ。(その後彼女はジャーナリストになって、今はイギリスにおります)。

この「追憶」は、その後私が繰り返し、繰り返し見続けている映画です。何度観ても、最後に号泣します。もちろん、カラオケでも歌いますわよ。
何もわからなかった中学生だった私。そんな自分も、その後30年以上生きていたら、映画1本見て語りつくせないぐらいの記憶や感情や思いが渦巻くように湧き出してくる。
年を重ねたことをネガティブに受け止めてしまうこともあるけれど
こんな映画を何度も観ると、「なつかしい」なんていうのとも違う、「いっぱい時間を重ねたなあ」ってしみじみ胸がいっぱいになる感じ。
人生ってさ、なんかいとおしいよね。

さて、若いころわからなかった世界に、今気づいて感動する映画があるのと同様、
逆に「なんで私はこんなものに感動してたんだよ!」と自分に驚く映画もあります。
最近の見直し映画の中での「愕然度」一位は、これでした。

いつも2人でいつも2人で
(2005/09/30)
オードリー・ヘプバーン

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大好きな女優ヘップバーン。その中でも、若いころ見て「かわいいなあ、いいなあ」と思ったはずのこの映画。

なんといっても、スタンリー・ドーネン 監督の手法が斬新だったのです。同じ道を、出会いから倦怠期を過ぎた夫婦がフラッシュバックする記憶を錯綜させながら行き来するロードムービー。オードリーの映画の中でもとても評価が高い作品であり、ヘンリー・マンシーニの甘い音楽と、ジバンシーの最先端のファッションも秀逸。
かわいいなあ、オードリー。そうか、夫婦ってこんなものかなあ。いいもんだなあ。

……とうっとり観てた20代の私って、いったい何だったのよっ!

ここから先は、まったくピンと来ない方もいると思います。これはたぶん、私個人が積み重ねてきた時間と経験と知識の中で、生まれてくる言いようのない感情なのです。だから、完全な映画と個人とのコラボレーションなのだと思って読んでください。

この映画は、愛し合って結婚したはずの夫婦が倦怠期を向かえ、離婚を意識しながら車でパーティの会場に向かうシーンから始まります。会話に見え隠れするトゲ。諦めに満ちた妻の表情と、夫の憤り。ああ、つらいね、こういうシーンは。(いや、すっかり身に覚えが。。。。)
でも、この二人が向かう道筋は、出会いからその後の二人の歴史をぎっしり内包しています。それを辿るうち、みずみずしかった思い出と愛情がよみがえって、最後はお互いが必要だと確認しあう。つまり、これはハッピーエンドの映画の「はず」なのです。

しかし。
今の私が観てみたら、どういうことでしょう。
箴言といわれているセリフのやりとりは、奥深い含蓄があるというよりも
まるごとモラルハラスメントにしか聞こえません。
何もかもが、とってもとっても不快。

最初はぜんぜんオードリーに関心なんてなかった彼、やせっぽちのオードリーにかなりひどい言葉を投げかけ続けます。オードリー、ちっとも大切にしてもらえていません。
「女はこうだからやだ。女の頭には結婚しかない」
「女は大きな家に住むとか子どもを持つとかそんなことばかり考えている」
新居は地下室、新婚旅行はおんぼろ車。完全に一時代前のマッチョな男性観そのものの発言が延々と続く。これをもってほほえましい光景と描写されているわけです。

忘れられない女がいるんだ、とオードリーに話し続けていた彼は
新婚旅行後にその女性の家族と一緒に、同じ車でオードリーに旅行をさせます。
つきあっていたころの思い出話を、上から目線の秘密めいたトーンで投げかけてくる彼女。
そんなやりきれない旅行は、彼女の家族の横暴さで途中で破綻するわけですが
けなげにそれでも耐えたオードリーに彼が投げかけるのはこんな言葉です。
「ずっと笑顔でいると約束しただろ! なぜ守れない」

は? 昔の女と一緒に旅行して、笑顔でいられるわけないじゃん。

その他繰り返されるこの夫の身勝手さは、すべてこのエクスキューズが存在しています。
「僕は忙しい」「仕事があるんだ」「僕は家族のためにがんばっている」
「十分な生活はさせている。そもそも、君もその生活に満足しているだろう?」

なにもかもがとっても不快。
こんな男がかっこいい時代もあったのです。
こんな男と暮らすことが、しあわせだと思われた時代もあったのれす。
(そして、今もこんな関係性の中で暮らしている女性はたくさんいるというのも現実なわけです)。

でもね、やっぱりこれはいけません。
夫は仕事もできてルックスもよく、とても男性的な魅力があるのです。
一方で、あちこちで忘れ物ばかりをしてしまい、そんなときにはオードリーがいないと何もできない。このギャップが女心を捉えるわけです。いるのよね、こういう人。
夫の「強い自我と支配する感情」は、だからどこかで強烈な愛情と混同されやすい。精神的に自立できていない女性は、こういう関係性にはまりがちです。

そんなバランスの悪い夫と妻の関係性を平等にするために起こるのが
オードリーの浮気です。
当時の世相で、妻の浮気は何ものをも覆すパワーがある。
なんかね、ちょっとずるいのです。このパワーゲームは。
だから今の私には、とても不快なのです。

この映画になんら不快感を感じず、夫婦ってこういうもんなのね、と思い
オードリーが素敵、二人の恋愛シーンも素敵! なんて思っていたのは
1960年代生まれのちょっと前の価値観の中で育った
まだ若くて自立できていない私でした。

この映画を見て共感する人は、実は今も結構たくさんいるのです。
でも私は共感はできない。
それだけ、最初にこの映画を観たときから今までの間に多くの体験をしてきたのだと思います。経験をつむことは、どこかで大きな痛みも伴うわけです。痛みを避けて、この映画のオードリーのような世界に生きることもきっとできたのかもしれないけれど、私はこの映画に今きっぱり「NO」といえる今の自分が、結構好きかもしれない、なんて思います。

映画って、自分探しのツールなのかもしれないですね。
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