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家族と夫婦、その似て非なるもの

スパングリッシュ

スパングリッシュ スパングリッシュ
アダム・サンドラー (2006/06/07)
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント

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人は家族を一番のよりどころにしたいと願う。だって、家族は世界の誰よりも自分を理解して、自分を支えてくれる存在だから。

……って、とっても正論に聞こえるけれど、果たしてそうなんだろうか? 

家族はひとつの集合体のように見えるけれど、そのはじまりはどこも「男と女」という、偶然の出会いから始まった夫婦という他人の組み合わせからはじまる社会だ。生まれ育った背景の違う男女が、ひとつの価値観を共有する。子どもが生まれて親子という血縁関係が侵入してくるにつれ、夫婦は他人である男女のつながりの記憶を徐々に希薄にしながら、暮らしをともにする家族に変貌していく。そうして家族は作られる。

仮に深く愛し合って結婚して、幸福のうちに子どもができて、結びつきを強めながらすばらしい家庭を築く男女がたくさんいるのだ、としても。生活を重ねて人生のいくつもの決断を繰り返すうちに、小さく小さく価値観の違いが積み重なって、逃げ場のない迷路に追い込まれる夫婦も中にはいる。基本的な価値観と、コミュニケーションのバイオリズムが共有できないと、長い時間をかけた共同生活はどこかでひずみをきたしてしまうことがある。夫婦のむすびつきは思ったよりもろい。

といっても、すでに子どもがいて、家を建てて共通の財産を作って「家族」というゆるぎない形を作ってしまったあとでは、そんな組み合わせでもうまくやっていくしかない。


 この「スパングリッシュ」という映画は、ヒスパニックのシングルマザーとその娘が、アメリカ文化の中で試行錯誤する様子と、彼女たちがメイドとして暮らしをともにすることになる、アメリカ人家族の夫婦や親子の問題を丁寧に描いた作品だ。

会社経営に失敗して、いまは専業主婦になったティア・レオーニ演じるアメリカ人の母親は、ジョギング、ヨガ、ダイエットにはげみ、セラピーや本で仕入れた「子育て論」で家族を支配しようとやっきになっている。
一方、その夫は妻と対極で、ひたすら、限りなく穏やかな性格を持つ男性だ。彼らには繊細で優しい(でもかなり太目の)長女と、いたずらざかりの長男の2人の子どもと、豊かさの象徴のような大型犬がいて、プールつきの郊外の家に住んでいる。夫はアメリカで一番腕がいいシェフと称される、成功した男性だ。

一見、豊かで何の問題もなさそうに見える、この成功したアメリカンファミリーの日常は、実は日々夫婦の衝突とすれ違いの多発で成り立っている。コミュニケーションエラーの修復と、価値観のすれ違いの修正の繰り返し。そんなやるせない格闘が家族の歴史を作っているのだ、と見ている側は、この家庭に自分たちとの共通項を見出すことになる。これは家族という愛の儀式なのだ。実際、わたしたちの家庭もそうなのだから、と。


そんなところに、メキシコから移住してきた母子家庭の美しい親子がメイドとして住み込むことになる。美しい母子の出現で、なんとかバランスを保っていたこのアメリカンファミリーが、少しづつ、少しづつきしみはじめる。これがこの映画の前半のテーマ。

理想の高い妻は、かねてから否定的なイメージを重ねていた自分の娘に比べて、このヒスパニックの娘が美しくて頭がよいことに夢中になり、自分の娘をそっちのけで過剰にかかわるようになる。夫は、激しいけれど人としっかりかかわって子どもを体当たりで守ろうとするヒスパニックの美しい母親のほうに惹かれていく。ま、このあたりはよくある話だね。
その伏線として、ヒスパニック系の移民がアメリカ社会の中で感化されずに、自国のメンタリティを貫こうとする頑固ともいえる奮闘振りが、美しいヒスパニックのシングルマザー役のパズ・ヴェガに寄り添うように描かれていく。彼女の可憐で力強い美しさと、この、アメリカ対ヒスパニックという文化対比も、この映画の見所だ。



さて、このヒスパニックの美しい母親が、自己主張の強い妻の言動にひとつひとつ誠実に対応しようと努力を続けているアメリカ人の夫に、こういう言葉をかける場面がある。

「ねえ、どういう育ち方をすれば、あなたのような人になるの?」

彼女は娘を産んだあと、夫が別の女性を作って彼女を捨てて出て行くという悲しい過去を持っている。暴力も、暴言もある中で、心の通うコミュニケーションを夫とはまったく取れないままシングルマザーで、ひとり強く生きなくちゃならなくなった女性なのだ。
その彼女から見れば、アダム・サンドラーが演じる夫は、彼女が人生で始めて出会った、「心通う男」だったのかもしれない。


ねえ、どういう育ち方をしたの? あなたみたいな人は、どうやって作られるの? 

きちんと心に向き合うコミュニケーションが取れる人間の存在は、自分自身の自己肯定にもつながる。そういう存在にめぐりあえないまま、これまで生きてきた彼女は不幸だったのかもしれない。でも、どれだけの人がそんな人にめぐりあえる? 夫婦でいる人たちのどれだけが、そうして通い合うコミュニケーションを取れているんだろう。

一方で、この夫も彼女の言動に驚いてこんな言葉を発する。

「きみのような女性ははじめてだ。どうしたらきみのようになれるんだ?」
「だって、きみは自分が悪いとわかったら、すぐ謝れるんだよ。驚きだ」。

ああ、痛々しいー。
本来ならば難なくコミュニケーションが取れ、価値観をともにできる存在が世の中のどこかにいるのだ。でも、誰でもが一回でそういう人とめぐり合えるわけじゃない。価値観をともにできずとも、格闘を繰り返して夫婦として暮らしていかなくちゃならない。
「何かがうまくいかない」という不全感を解決するために努力をしても、どうにもならないやるせなさ。そこに費やされる膨大なエネルギーで人生を消耗してしまう日々を、「華族が家族であるために必要な試練」と思ってきた彼に、ここでつきつけられるのは「それは単に組み合わせの問題だけだったのだ」という、いとも簡単な因果律なのだ。なんだよ、相手が違えばこんなにラクじゃん。こんなにまっすぐ暮らせるんじゃないの。

家族という砦を作り上げてしまう前の夫婦なら、組み合わせを変えることで人生をシフトすることができる
でも、子どもがいる家族の中では、組み合わせのシャッフルはできない。結局、手持ちの札がどんな組み合わせでも、これでなんとかやっていかなくちゃならんのだ。
この二人に思わず感情移入してしまう人は(私も含め)、多かれ少なかれ、そんな経験をしたことがある人なのかもしれない。


ネタバレになるが、この映画では、結局この二人の男女は最後まで結ばれない。
家族を壊して、家庭を捨ててまで結びつこうという決意にいたらず、結局最後はそれぞれの人生にきれいに戻っていく。
彼らの出会いは、人生をシフトするためのものではなく、自分への肯定をもらうための出会いだったのだと私は思う。配偶者からの「NO」を積み重ねて弱り果てていた自分という存在に、そのままの自分ですばらしいのだという「YES」をもらうための出会い。その「YES」を力に、また彼らは自分たちの砦を守る。

だから、二人は最後に笑って別れていく。
家庭を持った大人同士には、こんな出会いもあって、その視点からみれば、これはおおいなるハッピーエンドなのだ。

最後に二人は抱き合って言うんだ。
「僕たちの一番大切な仕事は子どもを育てることなんだよね」、と。


 そうだな。私の一番大事な仕事も、そこにある。
多くの家族を持つ(そしてその家族がどこかでうまく機能しなかった経験を持つ)人たちは、この落としどころに安堵感を覚えることだろう。この映画の強みは、そんな安堵感を私たちに残して終わっていくところにある。
 深読みをしなければ(笑)、これは暖かくてほっこりするファミリーコメディでもある。

 この監督は、子育てという仕事の先にある熟年恋愛を「恋愛小説家」という映画で撮ったことがある。そして、夫婦が介在しない、「親子」の関係を「愛と追憶の日々」で撮った。大好きにツボにはまる監督ではないのだけれど、扱おうとしている一連のテーマは、まさにアメリカっぽくて、興味深い。

 家族を、夫婦を、親子を考えたいときに、手にとってほしい1本。「きっとどこかに、私を心の奥底で理解してくれる人がいるはず。そんな人にときめいてみたい! でも一歩踏み出す勇気は私にはない。だって、私は子どもが、家族がとっても大事なんですもの!」 …そんな風に思っている人に、安全で適度なドキドキ感を味合わせてくれたあとに、「家族を守れる私は正しいんだ、明日からまたこの現実でがんばろう!」 と思わせてくれる映画。ある意味正統派。だって、そういう人、いっぱいいるでしょ?
個人的にはアダム・サンドラーのほやほやーっとした感じが、相変わらず好きです。
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