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善意という名の残酷

ヴェラ・ドレイク
秘密と嘘 人生は、ときどき晴れ

 高校生のころ、電車に乗っていたら背後で大きな声が聞こえました。
「あなた、ここに座りなさい。ほら、あいているから!」
しゃべっているのは中年のおばさま。話しかけられているのは、どうやら生まれつき障がいをもっているのでは、と思われる若い男性でした。手足が不自由なので、足をひきずって歩いてきたところを、おばさまに呼び止められた模様。
思い思いの方向を見ていた車内の乗客の視線が、一気に声の方向に集まりました。

「いえ、いいです」と、か細い声で彼。
「いいのよ、ほら、座りなさい。私はすぐ降りるんだから。」
「だいじょうぶです」と、さらに消え入るような声で彼。
「遠慮しなくていいのよ。だってあなた、立っているの大変でしょう? ほら、座りなさいってば。善意には素直に甘えるものよ」。
男性は、黙って下を向いたまま、最後まで譲られた席に座ることはありませんでした。一瞬、いっせいに彼に注がれた車内の視線は、やがて心もとなく宙をさまよったのち、やがてそれぞれの手元の本や、社外の景色に戻っていきました。うう。なんともいえない居心地の悪さ。車内に漂ったあの空気、ずっと忘れられません。

確かに、彼のたたずまいと歩くしぐさは、一瞬人の目を引くものがあったのは確かです。でも、このおばさまがいなければ、たぶん私にとって彼は風景の片隅で通り過ぎていくだけだったはず。それなのに、おばさまの一言が、車内の目をいっせいに彼にひきつけてしまった。相手が明らかにSOSを発している状態に声をかける、人の手があったほうが助かるだろうと思われる場面で、さりげなく手を貸す。そんなことを自然にできるといいなあ、と思っていた私にとって、「無自覚な善意って時として残酷」と思わせてくれた、人生でたぶん、これが最初の体験。

ヴェラ・ドレイク ヴェラ・ドレイク
イメルダ・スタウントン (2006/02/24)
アミューズソフトエンタテインメント

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 この映画を見たあと、そんな高校時代の風景をふと思い出していました。そう、善意って、時としてとても残酷。善行をおこなっている人が確固たる信念を持っていること、そしてその「善意」という正論を前にすると、誰も意見や反論ができなくなること。そして、その善意がどんな結果を生もうとも、「善意だったんですから」というエクスキューズがあることで、さまざまなものが見えなくなってしまうこと。そして、何よりも人は、誰しも心のどこかで「善き人でありたい」と願っていること。

無条件に、そこにあれば受け入れられてしまう「善意」という名の玉手箱は、実は扱いがとても難しい。車内で席を譲るという日常のささやかな行動なら、おせっかいおばさんとして好意的に受け止めることもできるかもしれないけれど、それが「社会の中で困っている人を救う」「世界の中で困っている人を救う」「危機に瀕した地球を救う」なんていった正論を手にしたとき。善意は人を癒して救う力を持っている反面、人を傷つけたり、関係をゆがませたり、時として罪につながることもある。現在あちこちでおこなわれている、環境保護、難民救済、社会活動の中で、無自覚の善意が引き起こしている問題って、実は結構あるのではないですか。まあ、そのあたりは語り始めるといろいろ反論もあると思うので、とりあえず今回は「ヴェラ・ドレイク」という映画にテーマを絞りませう。


「ヴェラ・ドレイク」は、善意のかたまりのような女性が、無邪気な善行の名のもとに必死でおこなった行為が、罪として裁かれていく映画。その分、見終わったあとのやりきれなさは一級品です。
さすが、社会派人間模様を描かせたら秀逸の、マイク・リー監督作品。
1950年代ロンドン。当時、堕胎は罪として禁止されていました。堕胎も離婚も許さないキリスト教の厳しい戒律。結婚と出産に関する、こうした禁忌の背景には「すべての子どもたちは愛のある夫婦の下で、望まれて生まれてくる」という、揺るぎがたい「正論」が存在するように思えます。

でもさ、現実はそんな正論どおりになんて決して運ばないよね。レイプされて妊娠した子。恋人に暴力を振るわれたのちに、捨てられたあとで妊娠がわかった子。不倫の子をみごもった子。セックスの代償として、妊娠を引き受けるのは常に女性の側なのに、愛と正義の自己責任を問う社会の倫理観は、第三者(男)の無責任な行動で被害にあって「正論をはずれてしまった」女性たちの救済に門戸を閉ざします。堕胎手術は違法であるだけでなく、高額な費用がかかり、さらにはやむを得ずそうした手術を望んだ場合、手順を踏むうちに望まぬ妊娠が社会に公表されてしまう。

こうした現実の中で、「困っている娘さんが、たくさんいる」。ヴェラは、ただその現実に突き動かされるように、純真に、無垢に女性たちを「救おう」と思うのです。若いころに見よう見真似で身につけた、「せっけん水を大量に膣内に注入する」という方法を使って。


ヴェラ・ドレイクを演じるイメルダ・スタウントン は、多くの部分をアドリブでこなしているのだそうです。これは、マイク・リーの常套の演出方法で、役者に事前にシナリオを渡して入念な打ち合わせをすることなく、役者をその場に置くことで湧き出してくる、役者個人の感情やせりふを拾い上げて、1本の映画にする。「秘密と嘘 」「人生は、時々晴れ」など、この手法で珠玉の作品が生まれています。(まあ、好き嫌いはあると思うけどね。私は大好きな監督さんの一人です)。

「ヴェラ・ドレイク」というこの映画は、多くの部分がこのイメルダ・スタウントンの地の演技で成り立っています。そして、彼女の存在感はまさに「善意の人」。どこにでもいるような、気さくでやさしいおばちゃん。難しいことはわからない、説明を求められたら混乱する、罪を指摘されたら、ただただ泣く。そんな虚飾のない、演出を排除した彼女の泣き喚き、混乱する映像が延々と続くことで、観客はさらに「彼女の純真な善良さ」と確認するわけです。


当初、この映画の劇場予告や、PRでは「家族の愛」が強調されていました。やさしい母であり妻であるヴェラを支える家族。彼女が無自覚に犯した罪を家族が知ったとき。打ちひしがれる彼女を支える夫と、見守る家族。。。。。という映像が繰り返し予告で流されました。うむ。

この映画を、そうした「善意の人ヴェラ」と「彼女を支える家族の愛」という視点で切り取ってしまうと、大事なところを見落としてしまうのでは、と思います。日本では、どうしても家族愛などのウェットなものが好まれるため、本来重いテーマを含んでいたものを簡単に情緒的な「家族」「愛」「人生」なんていうものに置き換えてしまう、悪い癖がある。でも、私にはこの映画を、単に「善意の人ヴェラと家族の愛情物語」としてマイク・リーが作ったわけないじゃん、と思います。この家族は、映画のエンディングで決して再生なんてしていないことがわかります。ヴェラの善意がもたらした罪を、今度は家族が全員で背負うことになる。最後には家族の愛が歴然と存在する中で、こうしたやるせない崩壊感が漂います。愛があれば再生するわけじゃないんですよ、人間の関係性ってね。本当に、重い重い映画。


善意という名の残酷。善意という名の愚行。
ヴェラの「娘さんを助ける」という無垢な願いは、結果的にずさんな民間医療行為で逆に女性の命を危険にさらす、という結果をもたらしただけでなく、法を犯したことで、ヴェラを取り巻く家族の日常をも瓦解させてしまう。その過程で、常にヴェラが実直に善意に満ち溢れて、邪念のかけらもないことが、この映画のやるせなさの根源かもしれないと思います。
そして、こうした邪念のない、しかし方向性を間違えた善意が、法社会の中では無常に裁かれていくという側面も、また見逃せない。正論をはずれたものを救済せず、そこを善意を向けたものを裁く社会の残酷さと、そこに対峙する無邪気な善意という残酷さ。

イメルダ・スタウントンはこの映画で、主演女優賞を総なめしました。これが演技だとするならば、ですが>笑。私は、過剰な泣き、わめき、慟哭がとても苦手な部類だったのですが、逆にこの拒否感が、彼女の善良な愚直さを際立たせて、映画としては大きな効果を生んだのかもしれない、と思います。


とにかく、善意とか正論と名のつくものは、取り扱い注意なのだ、と私は思います。正しい姿、善き人、正義感。「正しさ」を語るのは実はとても簡単なんですよ、実際はね。雛形が流通しているし、どんな語り方をしても反論が出にくい。で、受け取る側も、「悪しきもの」に惹かれる人よりも、「正しきもの」に惹かれる人のほうが、総数としては多いと思う。

でも「正しさ」を貫く社会は、キリスト教的に善と悪を二分法で対立させてしまうことになり、その間にたゆたうファジーな発言を切り捨てていくという怖さをあわせもっている。権威がおこなう発言規制など必要とせずに、正しさばかりが語られる社会の雰囲気の中では、自然と人々は自由に意見を発するのを自粛する。正しさがまかり通る社会は、ホントはとってもとっても怖いなあと私は思うのです。人間なんて、人生なんて90%はファジーなもので構成されているというのにさ。

危機的な地球環境と、頻発する戦争と民族闘争を背景に、人々は「正しさ」を希求する方向に向いている。エコロジー、ロハス、シンプルな生活という「正統」に向いたライフスタイルが尊重され、朝食を食べましょう、家族で食卓を囲みましょう、子どもを抱きしめましょう、というプロパガンダが流通する中で、親学を提言する政治家までが出現しはじめた現代の日本。
世の中が正論と善意を求めだす、こうした「迷いの時代」には、どんどん正論や善意を語る人が増え始めます。なぜって、正論を語るのは実はとっても簡単なんだもの!>笑 そして、世の中にはこうした正論の雰囲気を察知して、にわかに元気になる人種ってのが、いるもんだと思います。こういう人たちが元気になる時代というのは、怖いです。とても、きな臭い。
無自覚な善意の残酷さとともに、こうした確信犯の正論の暴力というのも存在していて、これが今の私にとって大きなテーマ。これについてはまだまだ思うところがあって、あれこれ映画を見続けています。また書けるようになったら、いつか。

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