スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

アメリカという病

デブラ・ウィンガーを探して

デブラ・ウィンガーを探して デブラ・ウィンガーを探して
ロザンナ・アークエット (2005/07/06)
ポニーキャニオン

この商品の詳細を見る


 30代の後半。私は卑屈だった。

 あれほど望んで手に入れた、しあわせな結婚と子どもというしあわせのカード。でも、そのカードを手に入れた途端、私からは「充実した仕事」と「充実した恋愛とセックス」が失われた。
 保育園に間に合わないので残業せずに帰ります。すみません。日曜日は運動会なので休日出勤はできません、すみません。残った仕事はやってもらえますか、ごめんなさい。
 仕方がない、ほんのいっときなのだ。子どもは成長する。いずれまた、思う存分仕事できる日が来る。この時期、私はそう自分に言い聞かせて、頭を下げた。
 気がつけば30代なかば。女ざかりであるはずの私は、乳臭いあかんぼを抱えて紙おむつやトイレットペーパーの袋を提げて町をひょこひょこ歩き、下着や靴に気を使うことも忘れ、それでも自分の責任をまっとうするために必死にもがき、仕事も家庭も中途半端なところで世間から落ちこぼれていきそうな自分に、あきらめに似た倦怠感を感じていた。傍目から見たら、生き生きと仕事も子育ても楽しんでいるように見えたかもしれない。でも、毎日のときおりの一瞬。わたしはどうしようもなく痛かった。そんな時代。

 ある日、子どもが保育園で汚したよだれかけと、おねしょでしみを作ったシーツを風呂場で洗っていたとき、通りすがりに夫がこういった。「おまえ、太ったなあ。尻が垂れてるぞ。そう見ると、すっかりおばさんだな」。
 朝ベッドで目覚めて話しかけたら、「お前、口くさいよ」と顔をそむけられ、テレビに映った同年代のアイドルに向けて「年とってやつれたなあ。こうなっちゃおしまいだね」と夫が言ったとき、かろうじて自分が保っていた女としてのプライドが崩れた。
あたしゃもうだめなんだ。誰もあたしに欲情しない。町を歩いても、きっと私は「お母さん」や「おばさん」という記号になって朽ちていく。なんてかわいそうな女たち。
欲情され、セックスをして子どもをはらむ。それは自分が誰かに必要とされているという大いなる証だ。うれしい。ところが、では、と子孫を生んだとたんに会社でも家庭でも大切にされなくなって、あとはただの「おばさん」という記号になって手のひらを返したように邪魔者扱いなのかい。え? おかしくねえか。君が欲しい、君の能力が必要だってあれほど言ったじゃないか。見てくれよ、もっと。最後まで責任取れよ。夫も会社も。
どうなってんの? 何がおきてるんだ、私に? おばさんという記号にならないために、いったい私しゃ何をしたらいいのさ? 
なーんてことを考えていた、30代。ああ無常。

 さて。
この頃、私の周囲には二種類の女がいた。おばさんの記号を見事に身にまとい、自らを新しい存在にシフトできる女と、そこに最後まで抗いたい女と。記号化する人は、見られない自分を自己像として受け入れる。抗う女は、多かれすくなかれ、30代の私のように「今までと同じように自分を見てよ」と思い、老いを拒否して何かを得ようとする。
 私の母は、どちらかといえば後者に属する女だ。しわができたことに一喜一憂し、白髪を染め、流行のブランドを追いかけては若いファッションを着こなすことに精力を費やし、ジムに通ってからだを鍛えて、若いともだちをあちこちに作る。アンチエイジングを標榜し、老化を憎んだ。テレビで、ジョギングや水泳にはげみ、しわ伸ばしの手術をして真っ白い歯で笑いあうアメリカのリタイア組の夫婦たちを見て、「負けていられない」とさらに運動に精をだし、あげくにバランスボールから転落して肋骨の骨を折った。そんな人。
 

 「デブラ・ウィンガーを探して」を始めて見たとき、この映画の背景にあるアメリカという文化の中に、母のような女性たちを多く垣間見たような気になった、と言ったら、あまりにこの映画が撮られた趣旨とかけはなれてしまうだろうか。


 この映画は、リュック・ベンソン監督の往年の話題作「グラン・ブルー」で衆目を集めた女優、ロザンナ・アークエットが監督を務めたドキュメントフィルムだ。40代になり、母として女として改めて自分と向き合った女優ロザンナ・アークエットは、ある一人の女優のことを思い出す。彼女の名はデブラ・ウィンガー。「愛と青春の旅だち」でブレイクした彼女はある日忽然とスクリーンから姿を消して、いまは郊外の家に専業主婦として家族と暮らしている。あれほどの栄光を集めた女優がなぜ? ロザンナはそんな自分探しの旅の手段として、ハリウッドで子育てをしながら40代を迎えようとしている女優たちに片っ端からインタビューして歩くという方法をとる。
 これは、ロザンナ・アークエットによる、そんなハリウッド女優たちの生の声を集めたインタビューフィルムだ。

 当初、このフィルムは女性たちへの応援歌であるという受け止められ方をしていた。ガードの固いハリウッド女優たちも、同業者であるロザンナには素顔を見せる。ハンディカメラで撮った手振れのあるフィルムは、ほかでは絶対に聞けない本音を見せてもらえたと思わせるだけの、臨場感に満ちている。そんな女優たちの生の声を通して、華やかに見える女優たちも母親であり、仕事と家庭の両立に悩む同じ女性の一人なのだ、と勇気をもらう。そして、そんな彼女たちの生き方の中に、同じく恋愛や結婚や、仕事と家庭の両立に悩む自分へのヒントをもらう。
最後の締めは、探し続けたデブラ・ウィンガーとの再会だ。ハリウッドの栄光を捨てて家庭を選んだデブラ。変わらない美しさを保ったまま、彼女は女優の仕事に「未練はない」ときっぱり言い切って家庭に戻っていく。ここに重ねてトリを取るのはジェーン・フォンダ。女優たちのあこがれのまと、最終目標。家庭も仕事も手に入れたスーパーウーマンは、今、慈善事業と社会活動に人生を傾けている。さあ、あなたにとっての女の幸せはどこに? 

 …のはずなのに。なんなんだ、この寂寥感は。

 確かに、女優たちの生き様は興味深い。でも、彼女たちの会話からひたすら垣間見えるのは、ひたすら加齢への拒否感なのだ。「ハリウッドは若さが大切。30を超えたとたんに誰も見向きもしなくなるわ」「だからみんなしわ取り手術をするの。ハリウッドでは常識よ」「こんな世界にいると自分を見失いそうになるわ。でも家庭も子どもも大事。ときどきどうしたらいいかわからなくなる」「本当は年齢を重ねてしわが増えた自分だからこそできる役をやってみたい。でもそんな需要は、ここにはないの」。

 自由の国、男女平等の国アメリカ。でもそこに見え隠れしているのは、日本とさほど変わりない偏った女性観だ。欲情し、セックスをする対象からはずれたら役割を失う世界。そこで自分を見失わないために、努力して何かを得なくてはならない世界。
 シャロン・ストーンはアンチエイジングで映画界で独自の需要を開拓し、ダイアン・レインとジェーン・フォンダは、社会運動という形で自らの立ち居地を確保した。一方でデブラ・ウィンガーは、女優として社会に向き合うよりも家庭の中に役割を得ることを選ぶ。そこまでたどり着けずにいる年齢の女優たちは、その両端の間で揺れている。

 常に、何かを勝ち取らなくてはいけない場所で、老いに抗い、自分の役目を得ようと努力を続けなくてはいけない苦しさ。若さを失い、中年という自分と向き合う中で、周囲から仕事でもプライベートでも必要とされなくなってくる焦り。女優たちに生きるヒントや元気をもらうというよりも、私にはそんな痛さがひしひしと残る映画だった。もうさ、日本であたしたちがおかれている現実と、同じじゃないの。だって、あたしの母親が生きているのも、ずばりこの世界なんだもの。

 若い世代が見たら、まったく違う見え方をする映画なのだと思う。でも、R40の私にとっては、そんな痛い痛い映画になってしまった。何よりも、40を過ぎた女優たちの中で、ほんとにきれいだ、素敵だと思える人があまりに少ない。アンチエイジングの痕跡があまりにいたいたしく、ウーピー・ゴールドバーグとか一部の人を除いて、ほんとに素敵だと思える中年女性があまりに少ないじゃないか。おい、しっかりしろよ、ハリウッド。
 
 ところが。
そんな中で異彩を放つ女優がいた。
シャーロット・ランプリングと、エマニュエル・ベアールだ。
髪をセットし、カメラ目線で真っ白い歯で笑いかけるハリウッド女優と一線を画している。ぼさぼさの髪、そばかすだらけのすっぴん。何も飾らないのに、かもし出される女としての存在感と貫禄。

 女性が年齢を重ねても、恋愛と性の対象としてきちんと存在しつづけるヨーロッパ文化の中にいて、この存在感。そこにあるのは、「何かを勝ち取る」ことではなく、「何かを手放していく」ことによって、自然と得られる余裕と豊かさだ。エイジングに抗わない人の持つ、たおやかな魅力。

 42歳でイタリアとパリを旅して歩いたとき、東京で枯れ果てていた私の女という土壌が、町を歩くだけで豊かに潤ったことを思い出す。ああ、私、この場所でちゃんと女として見られている。君もちゃんと、恋愛とセックスの対象なのだというシグナルが、いい意味で自然と存在している場所。今の私そのままの姿で、きちんと女として存在できることの意味。町を歩いて元気になった。年齢を重ねて素敵だと思える女性になりたいと思ったし、そんな風に加齢した女性を、ちゃんと受け止めてもらえる場所にいたい、とも思った。



 おばさんに安住したくはないけれど、アンチエンジングを標榜して、加齢を否定しながら何かを得ることにばかりエネルギーを使いたくない私は、第三の道として「加齢を引き受けながら、いろんなものを手放していく先で得られる豊かさ」のある女性になりたい。そんな女性がちゃんと、女として認められて居場所のある世界にいたいなあ、と思う。
 少子化で子どもを産まない女性が増えているから、制度を整えてどんどん産んでもらおうと考える人たちがいる。でも、産んだあとに、社会人として、女性としてきちんと認められる場所がなければ、女たちは自分がかろうじて得てきた居場所を簡単には手放さない。少子化は、長い間日本の女たちを偏った目でみてきたことへの、しっぺ返しなんだ。

 「デブラ・ウィンガーを探して」に登場するハリウッド女優たちがかっこよく見えて、そこを目指そうと思っているうちは、日本の少子化は解消しないよ。日本はそろそろ、アメリカという病から自由にならないと、ほんとにヤバイんじゃないか。
 この映画を、元気と生きるヒントをもらえる1本と見ることもできる。でも、この映画のなかに潜むアメリカという病も、ぜひ感じてほしいなあと私は思うのでした。
  
スポンサーサイト

コメント

へえ、反対の気持ちだった。とっても自由になった気分だったわ。

うーむ、私は同年代なんだけど、まったく逆のことを感じていました。30代。子供を産んで、他人からちゃんとおばさんになって、とーっても自由になりました。私は私の大事な人を大事にして、そして、私を大事にしてもらえれば、そしてその人たちから愛されればしごく満足です。余計などーでもいい男に欲情されなくなった30代、とっても鬱陶しくなくって、メンドウじゃなくって、自由になったなあ、と感じました。15、6の娘盛りから、うるさい!!めんどうーーー!!って思ってました。私がまーったく関心のない、興味のない人たちから欲情される対象になるって、うれしいどころか、ほっといてくれーーー!!です。だから、一応既婚で子持ちともなると、はい、対象外(笑)になるのが心地よくって、とーっても自由を満喫しましたね。なんで、誰からも欲情されずに、誰からも女性として大事にして貰えないって思うのかしら?若くて年頃だとチヤホヤする社会っていうのは、よーくわかるけど、自分の規範をそこに置くことはないんでは!?私は、ちゃんとおばさんになって、そして若いとか綺麗な女性だとかそういうところとは別のところで、人間としての私自身としてちゃんと見てもらえる、初めての自由を感じたのが30歳です。もちろん、いづみちゃんの言う日本の社会もアメリカ的なこともすごくわかるのよ、だけど、それが無常って思うコト自体がその呪縛にはまっているような気がします。なんていうか、私はおばさんの自由を得て、個人ではきちんと大切な人と大切な人生を得て、10代、20代より自由になった30代だったんです。チヤホヤされるっていうのは、とってーも不自由で鬱陶しいもんだと痛感しましたがねえ。
 人に欲情してもらえる、あるいは若くてチヤホヤされることでしか、自分を確認できない女性を作っている社会そのものがおかしいと思うなあ。いくつになっても、欲情してもらえる社会になってほしいとは全然思わないんだけど、うるせーだけだ。そして、ちゃんとおばさんになってみると、自分が若い娘であったことにどれだけ甘えていたかがわかる。そうじゃないおばさんとして、ちゃんと生きてちゃんと話せて、ちゃんと耳を傾けられる人間で居ることの重要さ、そしてそうすれば、まあおばさんだけど、という注釈つきかも知れないけど、ちゃんと人間として向き合えるということを強く感じたのでした。私の若さにひっかかってくるヤツは確かに居なくなったけど、そうでないところでちゃんと人と向き合えるようになったと、私は、はやく子供を産んでおばさんになって、とっても自由でそしてラクになったと思ってます。はい。若さを保ってチヤホヤされていたら、きっと間違ったことがたくさん、あります。そして今、間違っている若作りの同年代をみると、その勘違いにぞおおーーーっとします。
 映画のお話になってませんで、ごめんなさい。

おう!

りょうちゃん、コメントありがとう!

おお、そうだな。確かに、そういう側面はすっごくある。
うんうん、そうか、なるほど。
言われてみて、自分なりの気持ちの落としどころが見えてきた気がします。

デブらウィンがーを見て感じた、なんともいえない違和感と寂寥感というのは、結局その呪縛から私自身が抜け出していないということなんでしょう。そんな呪縛の中で、呪縛に満ちた場所にいる人たちを見せ付けられた気になって、寂寥感と違和感を感じた。

その向かう先が、じゃあ欲情してもらえる場所なのか、そういうものから自由になってラクになれる場所なのかというのは、本人の立ち居地とか、いまある暮らしの環境でいろいろ違ってくるのだろうけれど、目指すところは「一人の人間として、人ときちんと向き合うようになれるかどうか」ということだったんだろうなあと思います。

人として、しっかり存在できることが必要で、なるほど、それが若さとか欲情であるという部分で自分自身に甘えたり、同時に周囲がそれだけを求めて私のヒトとしての部分を見てくれないと感じた時期は、たしかに息苦しく居心地の悪いものだったなあ、と改めて思い起こしました。
おそらく、私は30代のころに、決定的に自己確認ができない状態に陥っていたのだと思います。それはそのまま、一番身近なヒトときちんとした関係を結べなかったからで、そんな不全感が、「おばさんとして記号化していく自分」へのあせりになっていたのかもしれません。

若さを失うと同時に、ヒトとしての存在を確固としていくこの時期に、どれだけきちんとした関係を身近なヒトと結べるかというのは、ヒトとしての自分の立ち位置を確認するために必要な作業なのかもしれない、と思います。
それがきちんとできたりょうちゃんは、その後の自己確認をとても健全にできたのだろうなあ、と。

当時思ったのですが、世の中の何十人に理解されないことよりも、一番身近にいるたった一人の人間に理解してもらえない、見てもらえない、わかってもらえないと感じることが、どれだけの飢餓感につながるか、と。
親子関係でたどってしまった、この「一番近いヒトに理解されず、否定されてしまう」というつらいパターンを、結婚生活に踏襲してしまった。そういう形でしか愛情を確認できなかった私は、育った環境で得てきた人間関係を継続してくれる相手を、そのまま結婚相手に選んでしまったのでした。
この時期、私はたくさん仕事をして、賞を取って、必死で働きました。そして、たくさんのヒトに評価してもらったのだけれど、いつもどこかで飢餓感を感じていた。結局、いちばん見て欲しかったのはいちばんそばにいるヒトだったのだ、とあとになって思いました。これって、とっても悲しいよね。(ま、その後そんな呪縛からすっかり自由になったので、いまはとってもラク)。

思うのだけれど。
いま、周囲で若作りをして勘違いしてしまっている人たちは、身近な場所でのしっかりした関係を結べていないのかもしれない、と。たくさん社会を向いて、たくさん私を見て! とさまざまな努力を繰り返しても、ほんとに見て欲しいと思っているのは一番身近なたった一人のヒトであったり、もしくは、たった一人でいいから私を理解してくれるヒトが欲しいと思っているだけなのかもしれません。

アンチエイジングにはげむ、若作りの女優さんのオンパレードを見せられたことで、ある時期の自分に重なってつらくなったのだと思います、私。
そして、アンチエイジングにこだわりすぎる若作りの中年女性を見て痛いと感じるのは、やはり「どこかが満たされていない」という空気を感じてしまうからなのかも。
きちんと加齢を受け入れて、ヒトとして確固とした存在になるために、身近なヒトときちんと向き合った関係を結べていることも大切なことなのだなあ、とりょうちゃんのコメントを読んで思いました。ありがとう!

いづみしゃんのこのページ、きょう始めて知りました。なんて素敵な文章の数々。今更ここにコメントしてごみんなさい。

当方、もうすっかりおばさんの年齢なんですが、今だに、歳をとる、って寂しいなあ、怖い、と感じているひとりです。というか、歳をとることが怖いというよりも、かろうじて自分にもある、美しさがなくなっていくことがつらいですね。
美しい、ということはすごいパワーがあるもので。女性に限らず、人間に限らず。自然界の現象にしろ、何にしろ。

要は、年齢を重ねるごとに、若さでは絶対に出せない美しさを備えていけることが、一番素敵なことなのかも、と、理性では認識しているのですが。

「どこかが満たされていない」
まさに同意。若さを追う人は、ありのままの自分を100%受け入れられない人ですよね。自分もしかり。さばさばとこの苦しみから超越している人は、潔くて素敵だけど、でも一方で、若さを追う失敗や不幸や愚かさ、そういう弱い部分がある人間もま、いいんじゃないか、と思う自分がおり。

そして、
>世の中の何十人に理解されないことよりも、一番身近にいるたった一人>の人間に理解してもらえない、見てもらえない、わかってもらえないと>感じることが、どれだけの飢餓感につながるか、と。
ここ数年、何でこんなにもつらかったんだろう、とモヤモヤしていたんですが、まさにこれだったんだ。いづみしゃんが、こうして言葉にしてくれたお陰で、ひとつ、自分の苦しみが解明されました。ほんとうに、たったひとりの人でいい、その人を大事に理解し合おうとする関係を、超遅咲きながら、これから築いて行ける人生にしたいものです。

どうもありがとう。

かっこ悪く葛藤してしあわせに生きたいねえ

おお、パセリちゃんだあー!!! 読んでくれてありがとう。ここでもあえてうれしいです!

>さばさばとこの苦しみから超越している人は、潔くて素敵だけど、でも一方で、若さを追う失敗や不幸や愚かさ、そういう弱い部分がある人間もま、いいんじゃないか、と思う自分がおり。

うんうん! わかりますぅ。弱さはそのまま感性でもあり、葛藤して悩むことで人としての深みが出てくるんだなあ、、、と思う素敵な人はいっぱいいるなあ、と。
さばさばと割り切れる人も素敵だけれど、そういう人の中には、渡辺淳一主張するところの「鈍感力」の人もまぎれていて、さばさばと割り切る分、人の悩みに対しても鈍感というパターンがあることもあり。そんな自分にはならないようにしたいなあ、と思ったりもする私だったりします。

とってもとってもつからった数年間は、抜け出してみたらアホみたいに過去のものになりました。でも、離れてみたら逆に、只中にいたときに気づかなかったものが見えてきたりして、逆に客観的に思い出してしんしんとしたりもする。
そんなゆれ戻しや、寂寥感や、その中で培った自信や明日への力や、自分の手で貯金してきた幸福感などにまぎれながら、自分と、自分の大切な人たちときちんと向き合える日々を送っていきたいなあ、と。

人生っていとおしいなあ。そしてパセリちゃんもいとおしいー。
遠く離れた地から、いっぱい「ありがとう」「またあおうねー」ってテレパシー送っておくねー!

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURL:

FC2Ad

ネット通販

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。