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映画で旅をするーリスボンサプリ

靴に恋して

靴に恋して 靴に恋して
アントニア・サン・ファン (2005/05/25)
エイベックス・マーケティング・コミュニケーションズ

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 大阪に、民博という博物館がある。日本が高度成長期に「万博」という一大イベントをやらかして、その跡地のあたりに建てられた、大きな大きな博物館だ。私はこの民博が、結構好きだ。私には、たまに訪ねていって、その場所で自己確認したくなる場所が世界に何箇所かあって、この民博はそのうちのひとつ。この場所に身をおくことで、いろんな発見があるから楽しい。

 そんな場所で何の発見をするのだ? というと、自分の前世を確認するのである。

 おお。やばいぞ、ももせ。おまえもスピリチュアルブームに踊らされているのか。本気で前世を信じていて、オーラでも読んでもらいながら「前世は中世ヨーロッパの音楽家でした」とでも言ってもらいたいのか。え?
 などと思う方もいらはいますでしょうけれど。私、前世は信じなくとも、世界各地にある「デジャブ」はどこかで信じているところがあるのです。別に魂が生まれ変わったと思っているわけじゃないけれど、でも世界を旅しながら、ふと、「あ、ここは前に来たことがあるような場所だ」とか、「この風景に心底和むなあ」とか、そんな妙な感覚に陥ることって、誰でもあるんじゃないのかね。で、そういう場所に出会うと、なんだか魂が潤されたような気分になって、気持ちがいい。

 以前、誰かしらに「人間の吐く息には数え切れないほどの分子が混じっていて、その数の膨大さを考えたら、自分の吐く息が拡散しつづけて、そのうちの分子1個が地球の反対側にいるヒトまで届くことだって、ありうると思うんだよね。ということはだね。考えようによっては、今、自分はクレオパトラの吐いた息の分子の1個を呼吸しているという可能性も十分にあるわけだ」という話を聞いたことがあって、これはかなりのインパクトをもって、私の記憶に刻み込まれている。
 つまりは、スピリチュアルとかそういう部分は別にして、そんな風に分子レベルで拡散していった記憶みたいなものが、私の遺伝子のどこかに組み込まれていると考えてもいいじゃないの、と。そんな風に、世界のどこかの記憶が自分の中に眠っていると考えて、いろんな場所を訪れるというのも、また旅の楽しみのひとつじゃないの、と思うわけなのだ。

 で、民博。
ここは、世界各国の民俗学的に有意義と思われるさまざまな道具や衣類、住居などが展示されている。この博物館の中を徘徊するだけで、長い歴史をタイムとリップしながら、世界を旅したような気にもなれる、稀有な場所だ。
 最初にこの場所をおとずれたとき(まだ20代半ばだった)、思いがけず不思議な感覚にとらわれて、それがいまだに忘れられない。
各国のコーナーに身を置くたび、自分の身体感覚が変わるのだ。ああ、ここは居心地がいい。とってもなつかしいと思う場所があれば、いてもたってもいられないほど居心地が悪い場所もある。これはもう、理性で理解できることではなくて、体が即時に反応するというとても不思議な体験だった。
 こんなおかしな旅を民博で続けた結果、どうも私はアジア方面、およびアメリカ、オーストラリア、アフリカ方面にはめっぽう弱く、ヨーロッパからロシアを抜けてモンゴルにいたるまでの地域に、からだが同調することが判明したのであーる!>笑。
 ま、能天気なおふざけみたいなものだったけれど、そこに展示されているものを見ながら、「ああ、これはなんだか握った感触までわかるような気がする」とか、「こんな場所にあたしは住んでいて、こんな窓から外を眺めていたような錯覚」などにとらわれたりするのは、かなりおもしろい。えっと。こんなこと考えるのは私だけですか? うーん。でも誰かしらにも、似たような体験はあると思うのだよね。
 だから、世界を旅することを始めたヒトの中には、特定の国にはまるヒトがいる。ああ、ここの空気が気持ちいい。ここにいるヒトが楽しい。ここのごはんがうまい。この場所にいると、自分がすごく自分らしくいられるぞーーー! なんて場所が、世界のどっかにあるって思うのは、とっても楽しい出来事だと私は思う。

 で、そんな体験が、映画の中でもできるよねというのが、今回のコラムの主旨なのだ(前置きが長すぎるって!)。

 誰もが世界のあちこちを旅できるわけではない。でも、映画の中で主人公の目線から、世界の都市を見て歩き、そこにある風景や空気感を楽しむというのも、また映画の楽しみの一つではないかと私は思うのだ。よくある観光目的のルポ番組や、名所を回る旅の番組と違って、映画にはそこに暮らすヒトの目線で捉えた都市の風景が、暮らしを伴った空気感とともに存在している。ガイドブックをめくるより、観光マップを見るより、映画に息づく街を感じる中で得られる「ああ、この場所!」という直感は、かなり信じていいんじゃないのかな、ってあたしは思う。

 そんな風に映画の中でであった街の風景のひとこまにノックアウトされて、「ああ、いつかここに絶対に行きたい!」と思いながら、日々の暮らしをまた積み重ねて、そんな中で、旅の機会が訪れたら、その地を候補のひとつに加える。
 で、実際にその場に立ったとき、あの日、あのとき見た映画のワンシーンが心によみがえって、また、もう一度映画を楽しむんだ。10代の頃からずっとずっと映画を見続けて、いろんな経験を経て大人になって、やがて自分の自由になる時間やお金がそろそろでき始めたなあ、と感じるこのごろ。そうして、いろんな場所を訪れる機会が増えてきた40代の私が、しみじみ「映画っていいなあ」と思うのが、そんな風に自分の中に残った映画のワンシーンと再会するとき。そして、そこにいる自分自身に、改めて向き合うとき。だから、いまだに映画はやめられない。

 今回は、そんな風に映画の中のふとした風景にノックアウトされて、あれよあれよと導かれるようにその地を訪れてしまった、リスボンのお話。

 「靴に恋して」は、スペイン映画だ。舞台はマドリッド。リスボンではないよ。それでも、この映画を見て、私はリスボン行きのチケットを迷わず買ってしまった。理由は映画の最後でわかります。

このお話は、 23歳の高級靴店の店員、49歳の娼家のオーナー、43歳のタクシー・ドライバー、25歳の知的障害者、45歳の高級官僚夫人の5人の女性が、それぞれの愛の形を探して苦悩したり、試行錯誤しながら、自分を探していく姿を丁寧に描いた作品。「靴」が全編を通しての小道具になっていて、原題はPIEDRAS。つまり、石ころという意味で、5人の女性たちがちょこちょこつまいづていく、人生にころがる石ころを指している。
邦題はちょっと狙いすぎた感があるけれど、靴はひとつのメタファーで、小さな靴を履く女、盗んだ靴を履く女、スニーカーを履く女、スリッパを履く女、扁平足の女…と、登場人物はそれぞれ特徴的な靴をはきながら、自身の向き合う現実と格闘していく。誰もが自分にぴったり合う靴を探しているのだけれど、それはそう簡単にはみつからないね、というわけ。

スペイン映画というのは、一種独特な空気感を持っていて、これが苦手なヒトはどうにも相性が悪い部分があると思うのだけれど、私はこの空気感がなんともいえずに好き。特に、出演する俳優に有名人や美形がおらず、「おいおい、この顔で映画俳優?」というぐらい強烈な風貌を持つヒトが多く出演しているのも、映画がひりひりとした現実感を持って心に響いてくるゆえんだと思う。とにかく、この映画の登場人物も、強烈ながら、スペインの街角のどこにでもいそうな普通の女性たちで、そんなリアリティが、この映画の魅力でもある。美化されて、ファンタジーになりがちな恋愛映画の中で、このあまりにリアルな5人の日常に「愛も、恋も、そう一筋縄でいくもんじゃない」という現実にしばし向きあうことになるし、でも「やっぱり愛が欲しい」私たちと、愛によって生かされていく人間って存在の、悲しさや強さが、最後にがっしり残る。うまくいかない恋愛の記憶があるヒトなら、彼女たちの誰かに必ず感情移入できるはず、なんて思う。

かくいう私も、しっかり一人に感情移入した。その主人公が、最後の最後に訪れるのが、リスボンなのだ。

映画の舞台はマドリッド。牧歌的叙情の残るスペインの各都市と違って、マドリッドは喧騒に満ちた大都市だ。そんな都市の中での試行錯誤に疲れた彼女は、発作的に車でリスボンをめざし、港の見えるリスボンのカフェの前で、同行者の運転する車を降りる。「しばらくここにいるわ」と言い残して。

映画は、ここで終わる。

リスボンが映るのはこの、ほんの数分間だ。その数分をもってして、強烈に心に焼きついたこの地を、私は去年訪れた。喧騒の果ての癒しの場所。何もないけれど、その場に立ったら「しばらくここにいる」と思わせる何か。
東京での長い長い試行錯誤の中にいた私にとって、リスボンは「ふと通りかかる癒しの地」としてのアイコンになったのかもしれない。永住でもなく、答えがあるわけでもなく、ただしばらくいたいと思わせてくれる何か。また、いつもの自分の暮らしに戻るためのちょっとした寄り道。サプリのようなもの。

ポルトガルは不思議な国だと思う。
時がどこかで止まった、ヨーロッパの突端で取り残された国。なのに、朽ちていない。上手に成熟しながら、力むことなく、怠惰に停滞しながら、生きる活力に満ち溢れている。リスボンの海に近い、ひっそりとたたずむ間口の狭いビストロの並ぶ坂道は、午後の日差しの中で一瞬廃墟のような様相を垣間見せるのだけれど、細長く続く入り口の先には、炭火で焼いた魚介類や、丁寧に煮込まれた臓物などをポルトワインやビールで楽しむ人々が、ぎっしりと存在している。禁煙をうたう店はなく、目抜き通りには物乞いがあふれ、路地には物悲しいファドの調べがたゆたっているのに、どの店も清潔で、道路にも駐車場にも風に舞い上がるゴミの姿がない。
そして、アズレージョと呼ばれる美しいポルトガルのタイルが埋め込まれた、古い古い石造りのささやかな建物の中で、人々は力むことなく、当たり前のように実直に働いている。リスボンは、そんな町だった。

で、そんなリスボンという場所は、まさに「もうちょっとここにいたい」と思わせてくれる安らぎに満ちていて、私は自分のたましいが、しっかりここの空気に同調して癒されるのを感じて帰ってきた。私の遺伝子が覚えている何か。港の空気、朽ちていく文化、明るさだけではなく、苦悩をもはらんだ哀愁の調べ。疲れたこころが、そんなサプリで癒される。ここにいていいよ、戻ってきたね、なんていわれているような気になる。
こんな場所を教えてくれて、ほんとにありがとう! と映画に感謝しちゃうのだ。

あこがれ続けた場所でも、有名な観光名所でもない、ちょっとした町の風景の中に、自分を癒してくれるサプリが潜んでいる。そんな楽しみがあるから、映画はやめられない。
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