スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

純愛の正体

ロミオとジュリエットある愛の詩世界の中心で、愛をさけぶ マディソン郡の橋ブロークバック・マウンテン

 ロミオとジュリエットに始まり、ある愛の詩の系譜を経て、なにやら最近は地球上のどこに存在するのかさえわからん場所で愛を叫けぶ話に号泣する人続出で、純愛ものはいつの世も不動です。

ある愛の詩 ある愛の詩
アリ・マックグロー (2006/11/02)
パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン

この商品の詳細を見る
世界の中心で、愛をさけぶ スタンダード・エディション 世界の中心で、愛をさけぶ スタンダード・エディション
大沢たかお (2004/12/23)
東宝

この商品の詳細を見る


 この純愛もの。仕掛けは意外と単純です。純愛が純愛として完結するためには、恋という感情の発露がまだフタバぐらいの発芽のうちに、何かの外的要因によって中断される必要があって、その一番安易な切り札として「死」が存在する。芽吹いたばかりの愛情は、若葉のうちに摘み取られてこそ純愛なのであって、多くの純愛物語は、この古典的手法でいとも簡単に成り立って、そのくせ多くの人の支持を得るという、非常に費用対高価のいい働きをする分野なのであります。

 純愛は、期間が短いのも特徴です。ロミオとジュリエットは出会いからたった2日そこそこの間の話というのは有名だけれど、まあ、純愛と言われるものの多くは、せいぜい数ヶ月の恋の発芽を扱ったものが多く、愛をはぐくむ中で生まれてくるはずの嫉妬とか疑いとか、執着や裏切りという本葉がちらほら混じりはじめるまえに、強制終了ボタンを押して「美しいままとっておきましょう」と。
 純愛ってのはイコールHをしない! と受け取っている人もいるようですが、ガチンコにセックスをしたとしても、純愛は成立します。短くも美しく愛し合ったのちに引き裂かれた二人の記憶=純愛。心底愛した、激しく愛したと思えるのは、相手と正面から四つに組んで愛情をぶつけあったからというよりも、単に障害があったからこその産物なのですが、それをもって「真実の愛の物語」という公式が成立しているわけです。
 しかし。そんな、どちらかといえば「恋の幻想」である物語が今さら受ける時代って、なんかちょっと不安だわあ、わたし。みんな、ちゃんと愛し合ってるかい? 嫉妬とか執着なんていう愛情のダークサイドにも、ちゃんと向き合ってるかい? ってか、向き合いたくないから純愛が受けるんだろうけどね。



 さて、この純愛映画。圧倒的に若い世代がヒロインの純愛物にも、異色の例外があります。「マディソン郡の橋」。

マディソン郡の橋 マディソン郡の橋
クリント・イーストウッド (2006/10/06)
ワーナー・ホーム・ビデオ

この商品の詳細を見る


 小説の上梓の頃と、映画の封切り後は、私の周りではこれに号泣した中年女性が続出でした。

 アイオワ州マディソン群の農場で、夫と二人の子供に囲まれた平凡な主婦だった主人公フランチェスカ。夫と子どもが不在の4日の間に、通りかかったカメラマンと恋に落ちます。若者の未熟な恋ではなく、年齢を重ねた二人が、抑制を利かせながら燃え上がる気持の前で逡巡する。

 4日間だからこそ、美しいまま残った恋愛の記憶。この二人があの時、マディソン郡の橋のたもとから逃避行したとしても、その先にはいさかいや破局が待ち構えているのは、誰の目にも明白。最後には愛に苦悩しながらも理性を選んだフランチェスカに共感した女性が多かったわけですが、女性が「これまでの人生を、再び生きる力を得るための不倫」という新しい手札を得たという意味でも、エポックメイキングな映画だったと思います……などと言っては、ミモフタもないですか。

 成就せずに引き裂かれた愛の行き先にあるものを、「今までと変わらない平穏な家庭生活に戻る幸せ」におき、なおかつ不倫を美しい純愛という思い出に昇華させたところに、この物語の新しさがあったのだと思います。結果的に主人公の人生がハッピーエンドに終わったのだという余韻を残したあたりもうまい。まさに、年齢を重ねた女性のための純愛映画なのだと思います。(わたしはちっとも泣きませんでしたが>笑)。

ブロークバック・マウンテン プレミアム・エディション ブロークバック・マウンテン プレミアム・エディション
ヒース・レジャー (2006/09/22)
ジェネオン エンタテインメント

この商品の詳細を見る


 もうひとつの変り種の純愛ものが、この「ブロークバック・マウンテン」です。こちらは、同性愛への激しい偏見があった時代のアメリカ、ワイオミングのブロークバック山を舞台にした、二人のカウボーイの物語。

 男性同士、しかも大きな偏見という障害の前で、女性と結婚して苦悩しながらお互いの人生を粛々と築いていく二人。でも、お互いのことが忘れられない。時を経てもなお色あせない、禁じられた愛の、悲しい愛の物語として語られることもある映画ですが、ここにある愛の正体は、いわば「何もかもうまくいかなくなっちまった俺の人生にも、光り輝いた一瞬はあったんだ。それがあのブロークバック山だった。あのブロークバック山で愛を語ったアイツ。アイツと過ごした、あの日々。ああ…」なんていう、忘れられない切り取られた過去への執着なのだ、と私には映ります。

 この映画を真実の愛の映画として見るのか、もしくは、何年も経たあとの再会が、純愛であったはずの切り取られた過去の記憶をどう変容させてしまうか、という物語なのだとして見るかで、主人公二人の見え方は大きく違ってくる。純愛(幻想化された愛)への執着は、周囲の人を大きく傷つけます。誰かを傷つけないためにも、純愛は寸断される必要がある。


 純愛の先にあるものを見ようとすると、やけどをする危険があります。でも、恋なんてそんなもんでしょ。やけどする覚悟のない人が純愛物のまわりで号泣する。そして、それが真実の愛だ、ほんとうの愛なのだなどと言って安心する。安全でいいけど、たまにはもうちょっとヒリヒリしようぜ、って私なんかは思います。
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURL:

FC2Ad

ネット通販

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。