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ファミリーダンス

海辺のレストランバージニア・ウルフなんかこわくない

夫婦や家族は、多くの人にとって大きなテーマであり、映画でも繰り返し取り上げられてきました。ハリウッド的ヒット作品をたどっていけば、家族のすばらしさや夫婦の絆を描く作品が多いわけなんどすが、はて。夫婦や家族というのはさほど単純なものではありません。


 私が大好きな映画のひとつである

「海辺のレストラン」
(DVDが発売されていないので、とても残念)

では、幼いころに家族を亡くした天涯孤独の男性と、妻と子供を捨てて一人放浪の旅の途中にいる男性の2人が主人公です。この寄る辺ない二人が、「海辺に捨てられた老婆」を拾うところから始まるこのストーリー。

物語の中盤、この二人がこんな意味の会話をします。
「僕は生まれたときから家族がいない。家族が欲しい。人は家族が必要だし、家族はすばらしいもんだ」そう言う天涯孤独な男に、もう一人は言います。確かに家族はすばらしいさ。そうだよ、毎週水曜日には集まってグラタンを食べなくちゃいけない。何があっても帰ってきてグラタンを食べるんだ。え? どうだ、すばらしいだろ? お前にわかるか、その辛さが! 

この男は、そんな家庭を捨てて一人で旅に出ることを選びました。旅の途中、新しい家族を作るというチャンスに出会います。再生のチャンスです。ここで二人の男がする決断は? 二人の男を対比させて、家庭礼賛だけに終わらせなかったところが、私がこの映画を愛する理由でもあるかもしれません。
 家族はすばらしい存在ではあるけれど、残酷な存在でもある。家族を礼賛するのは簡単です。でも、現実は家族や夫婦って、そんなすばらしいもんばかりじゃない。静かに壊れる家族や夫婦を描いた作品も多々あります。深いがゆえに、重い。たとえばこんなのはどうでしょう。

バージニア・ウルフなんかこわくない バージニア・ウルフなんかこわくない
エリザベス・テイラー (2006/02/03)
ワーナー・ホーム・ビデオ

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原作も舞台もある作品ですが、映画はなんといってもエリザベス・テーラーのなりふり構わぬ怪演ぶりが秀逸です。のっけからすごい迫力。物語は、ほぼこの中年夫婦の言い争いに近い会話のみで構成されていきます。

最初はただけんかしているだけ? と思うのです。でもね。何かが違う。健全なけんかではないのです。根っこが静かに壊れているのがわかってくる。救いようがない、不毛な不毛ないい争いが延々と、それだけの話。途中、深夜の若いカップルの訪問があり、この二人が、夫婦の言い争いに巻き込まれていき、そして最後には放り出されて、また夫婦の蜜月に戻ります。見ごたえのある映画です。

 こういう夫婦の不毛なやりとり。「わけわからん」と想像できない人もいるかもしれませんが、この手のことは多かれ少なかれ、家族の中で起っているのではないかな。言い争いという形を取らない、温和な会話の形を取ることもありますが、「いちど始まったら止まりようがない家族の暗黙の儀式」みたいなもんが、どこかに存在していませんかの。
 私は、この手のことを「ファミリーダンス」と呼んでいます。

 夫婦や家族というのは、自己(self)とは別の他者であるにもかかわらず、自分という境界線が広がった形で、他者自己として同一化されがちです。自分と外側の家族が、上手に融合している場合はいいんだけど、この外側の家族という存在があることで、self としての自己がうまく機能しないこともある。支配的な父や依存する母、軋轢のある兄弟関係などに囲まれると、単独としてちゃんと機能するはずの自己像が、家庭という日常の中であっちこっちにゆさぶられたり、わけわかんなくなったり、自分が正当に評価されなかったりすることもあって、鬱々とした感じを抱え込んじゃう人もいるわけです。相手がいるとなんかうまくいかない。なんかしあわせじゃない。私はこんなはずじゃない。もっと違う人生があるはず、とね。

 じゃあ、そんな場所から離れればいいじゃん。離婚すれば? 家を出れば? って思うんだけど、夫婦や家族はself の外側にぴったりくっついて同化しているから、「そこから離れてたった一人になった自分」は不安だし怖い。まっさらの self になったとき、自分が自分でいられるかどうかわからない。それは存在の危機でもあるから、なかなか抜け出すことはできないわけです。

こんなとき、人は何をするかというとself の置き場所を変えないまま「自分の不幸は相手のせいだ」と思うことで、日常をどうにか乗り越えようとする。自分という存在を守り、「こんなはずではない自分」を自己確認するために相手との衝突を日常的に生じさせる習慣ができてしまうわけですな。とっても不毛なんだけど、本人にとってはとても必要な儀式なので、やめるわけにいかない。こういう習慣が絶え間なく起きてしまう状態を、「ファミリーダンス」と私は呼んでいるというわけです。


家の中で、なんだか煮詰まった空気が流れる。すると「ねえねえ、踊ろうよ、ほら、いつものダンスを」とつい、相手を誘ってしまう。相手が必ず反応するだろうと思うようないやないつものコトバを使ってね。

この映画でもそうです。言わなきゃいいような余計なセリフを、延々と、延々と発し続ける。「ほらね、結局あなたはそうなのよ」「それで君は満足したわけなのかい? へー」。言われたほうは、「まただよ、もううんざりだよ」と思うのに、手を差し出されたらいつものくせで、立ち上がって踊りだしてしまう。

これ、余計なことを言い合う丁々発止のセリフのやりとりも面白いですが、言われたほうの表情がピクリと動くのが、また絶妙です。いやなら拒否すればいいだけのことなのに、「また来た!」とピクリと動く表情の背後には、生き生きと張り切りだすエネルギーのようなものが垣間見えて、夫婦のダンスが根深い宿命的なもんだということがよくわかってきます。ほんとに、エリザベス・テーラーとリチャード・バートンの組み合わせはすごい。舌を巻きます。

こうしたファミリーダンスは、踊りだしたらもうとまらないのが常。いつまでも、いつまでも、不毛なダンス。疲れ果ててへとへとになっているのに、「Shall we dance?」と手を差し出されたら、筋肉痛の足でも踊っちゃう。

この映画は、そんなダンスをずーーーーーと踊り続けてる二人のお話なのでした。思い当たり人がいたら、あなたも不毛なダンスを踊ってる可能性があるかも? 



このダンス、時としてハタを巻き込みます。夫婦の場合は子供を巻き込むことも多い。周りはあわててとめようとしたり、一緒にダンスを踊らされる羽目になるけれど、最後には二人の世界に戻っていってしまい、ハタは置き去りになるのが常。

もし、夫婦の間で不毛なファミリーダンスが日々踊られているなら、差し出された手を取らない勇気も必要です。難しければ、「誘ってきた」と思った時点で別の部屋に行くなり、外出して距離をとる。相手は、こちらが立ち上がって踊りだすことを無意識で期待していますから、拒否されると最初は??となる。??の次は反撃や攻撃に出ます。そこを耐えてダンスを断り続けることができれば、相手もつまらないから誘わなくなってくる。つまりは、不毛なファミリーダンスはけしかけるほうにも、受けるほうにも責任があるってことかもね。


さて、そんなファミリーダンスを描いたもいっこの映画を取り上げようと思ったのですが、長くなってしまったので、これはまた次回に。
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