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女優という生き方

イタリア旅行魂のジュリエッタ

 前回、「ファミリーダンス」を描いた映画をもう1本紹介します、と書いたまま2週間経過。こどもの卒業も終え、桜も花開き、春がやってきちゃいました。笑

 今回は、夫婦の間に起こる「ファミリーダンス」(注)。しかもその夫婦役にはイングリッド・バーグマンとジョージ・サンダース。監督は当時のバーグマンの夫であったロベルト・ロッセリーニという興味深い配役の映画です。
注:ファミリーダンス(最後には消耗してしまうだけなのに、お互いが積み重ねた習慣でつい始まってしまうコミュニケーションエラーのこと>武蔵野婦人勝手に命名。夫婦間の不全感の中で自己確認をしたいとか、問題の本質がわかっているのにそこに近づきたくないなど、何らかの必然性があって起こるエラーなので、誘われるとつい差し出された手を取って踊りだしては、へとへとになるという因果なダンス)。

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結婚8年目を迎えたバーグマンとサンダース。
財力と地位と美貌を兼ね備えたこの夫婦が、叔父の遺産でもある別荘を売るためにナポリを訪れた数日間をつづったこの映画は、まばゆいばかりに美しいバーグマンが、スーツ姿の夫を助手席に乗せて、イタリアの田舎道を運転しているシーンから始まります。旅の途中の車の中という非日常の世界に配置された美しい男と女。洗練されたファッションから二人は都会の人間だということがひと目でわかります。この二人が、トスカーナの牧草地帯を羊や牛で道をさえぎられながら走り抜けていく。これからはじまる旅の予感をはらむロマンティックな風景。

 …のはずが、はじまって5分もたたないうちに、観客は不思議な不安感に包まれ始めます。何気ない日常会話のやりとりの中で、実はこの夫婦の仲は冷え切ってしまっていることがありありと伝わってくる。そう、これは関係がぎくしゃくして冷え切ってしまった中年夫婦のイタリアへの旅を淡々と描いた映画なんです。事件は起こりません。ハリウッド映画のように、エキセントリックな感情のぶつけ合いのシーンもありません。ただただ、リアルな夫婦の小さな、しかし絶望的なすれ違いの会話が延々と続く作品。まさに、ロッセリーニの真骨頂、ネオリアリズモを具現した映画。

ただ、舞台をナポリとポンペイの遺跡に置いたことで、観客は二人の観光旅行に巻きこまれる形で擬似旅行を楽しむというおまけがついてきます。美しいけれど、ベスビオス火山の噴火による大量の死者が眠るおどろおどろしさを内包したダイナミックなナポリとポンペイの風景がなければ、この映画はただ冷えた夫婦の微妙なすれ違いの会話だけの映画になってしまう。


前回紹介した「バージニアウルフなんて怖くない」は、壊れた夫婦の不毛ないさかいを、ただ延々と夫婦の自宅を中心とする世界で展開した映画でした。こちらは、敢えて舞台を二人の日常に据えたことで、完全に破綻した異常な関係性にフォーカスを当てることになったわけですが、今回の「イタリア旅行」では、夫婦の壊れ方の種類がちょっと違うのです。「バージニアウルフ」のように異常な壊れ方ではない。誰しもどこかで身に覚えがあるような、小さなやるせない、でも不毛なすれ違い。

誰にとってもリアルな、こんな小さな「すれ違い」という夫婦の日常にフォーカスさせるため、舞台は敢えて「旅行」という非日常に置く。聞くところによると、ロッセリーニは撮影の前日まで役者に台本を渡さず、その場に置かれた二人のアドリブを拾いながら、この映画を撮影したのだとか。ナポリとポンペイというパワーのある場所に放り出された二人の役者のつむぎだす、抑揚のない会話の中の妙なリアリズムは、こうした手法によるものかのかもしれません。


この映画のテーマは、こうした「非日常」の景色の中に置かれた「日常」。固定化した日常(冷え切った夫婦の関係)が、非日常(異質な土地への旅)の中できしみ、ひび割れ、どこかで修復や発見につながる。堅固な日常の中の固定化した習慣を打ち破るためには、ダイナミックな場の転換や非日常の体験が必要なんです、きっと。それだけ、無意識に繰り返されるファミリーダンスの習慣を抜け出すのは、たやすいことではないのだというのが、この映画を見た私の感想なのでした。



 さて、表題を「女優という生き方」にしたのにはわけがあります。主演のイングリッド・バーグマンは、私が大好きな女優の一人です。映画の中だけではなく、半生を通した波乱万丈な生き方が、なんともいえず魅力的。「カサブランカ」「誰がために鐘はなる」といったハリウッドの黄金期の最中、夫も子供もいた彼女は、イタリアのネオリアリズモの旗手であったロベルト・ロッセリーニの映画を見て衝撃を受け、いてもたってもいられずに彼の元に遁走します。世紀の不倫劇。家庭も名声も捨てて飛び込んだロッセリーニとの生活の中、ロッセリーニがバーグマンを主役に据えた映画が何本が撮られました。

 でもねえ。これはことごとく不発に終わったんですわ。イタリア時代のバーグマンは、映画史の中で評価されない作品ばかりが続くことになりました。重ねて、それまでネオリアリズモに燦然と輝く星であったロッセリーニも、精彩を失っていく。バーグマンは、ロッセリーニと世紀の恋をしたのかもしれません。
でも、彼女のバイオグラフィーをたどるたびに、私はそこにあったのは「女優としての飽くなき表現欲求と自己愛」だったようにも思えるんです。男に運命をゆだねて遁走する女の情の後ろにある、強い強い自我。

イタリア時代、彼女は強いバッシングを受けながらも、ロッセリーニとの間に2子をもうけて実直な家庭生活も営みました。でも、結局は二人の結婚は破綻し、バーグマンはハリウッドに戻ってきます。バーグマンにとってのイタリア時代は、大きな犠牲と愛情の入り混じった、大いなる自分探しの時代だったのではないかと私は勝手に思っています。だから、私は復帰後のバーグマンの映画も大好き。何か突き抜けてしまったような乾いた強さが、たまらなくいいなあと思うわけです。


 そんなバーグマンとロッセリーニの軌跡をたどりながら、この「イタリア旅行」を見ると、主人公二人のリアルなすれ違いのやりとりが、また違った精彩を帯びてきます。この映画は、まさにバーグマンとロッセリーニの結婚生活自体に、暗雲が立ち込めだした時期に撮られた映画なわけなんす。

 壊れた夫婦が、壊れた夫婦の映画を作る。その主人公に自分の妻を据えて、夫はカメラをまわします。この映画の中で、主人公の二人はイタリア旅行を通して、夫婦の崩壊と再生を経験するわけですが、これと同じプロセスを、まさに実生活の夫婦である監督と女優がたどっている姿が垣間見える。映画という非日常の場を借りて、夫婦という日常を再構築しようと思ったのかどうか、そんなところまでは僭越にわかりませんが、監督と女優という組み合わせの夫婦とは、なんと因果なものじゃよ、としみじみ思います。
これはロッセリーニの映画史の中では評価の低い映画でしたが、私はとても丁寧に作られたいい映画だと思います。R40の視点から見ると、人生のエッセンスがいっぱいつまっとる。単調だけれど、人生を積み重ねてきた年齢層にとっては、奥が深いのです。



 それでいくと、同様に夫婦の再構築を映画でたどろうとした監督と女優がいます。

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ジュリエッタ・マシーナ (2005/04/27)
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 世紀の天才、フェデリコ・フェリーニ。妻は、「道」などの作品で独特の存在感をかもし出していた彼の妻、ジュリエッタ・マシーナです。こちらは、結婚15周年目の夜のちょっとした出来事をきっかけに、夫への疑惑や不信感で現実と幻想の世界の区別がつかなくなってしまった主人公の感情の波を、フェリーに独自のシュールな大道芸的イメージの洪水のような映像で撮った作品。フェリーニ最初のカラー作品でもあり、彼の美的センスの集大成ともいえるこの賢覧豪華な映画は、私のベストコレクションのひとつでもあります。

 この映画が撮影された時期、フェリーとジュリエッタ・マシーナの結婚生活も大きな行き詰まりを見せていました。主人公は妻の名前そのままの「ジュリエッタ」。そんな視点で見ると、彼女の逡巡とフェリーニ夫妻の逡巡がオーバーラップして、絢爛豪華なファンタジーに見えたこの映画は、また違った見え方をしてきます。


 映画はフィクションであり、ファンタジー。架空の非日常を楽しみたいとDVDを手にするわけなんですが、その映画を作る側の男と女には、映画とは別の日常がある。映画という非日常の中に、作り手の生身の日常が垣間見えるのも、私にとっては映画の醍醐味だったりもします。その意味で、娯楽超大作のプロジェクトの中で個人が見えづらくなるハリウッド映画よりも、個人主義に徹したヨーロッパの小品に惹かれたりもするのです。


映画「イタリア旅行」の夫婦は、旅という非日常の中で一度夫婦を崩壊させたのち、再生しました。「魂のジュリエッタ」では、非日常なイメージの洪水と幻想の中で、妻は崩壊しようとする夫婦関係のバランスを取ろうとします。誰しも、日常を淡々と続けながらファミリーダンスの円環から抜け出すのはきっと困難で、日常に潜む非日常の助けを借りて、再生か離別の道をたどることになる。そのどちらの道に進むのかは、日常を抜け出したその先にある世界に身を投じてみない限りわからず、どちらに転ぶかは、大きなリスクを抱えることになります。誰だってリスクは怖いし、見えない未来は恐ろしい。恐ろしい決断につながる非日常に突然直面することを避けるためにも、淡々と日常のダンスを踊り続けて思考を停止する。多くの不毛なコミュニケーションエラーを続ける夫婦や親子がファミリーダンスからなかなか抜け出せないゆえんは、こんなところにあるような気もします。

 ところで。この二つの映画の中の夫婦は非日常を体験して再生したけれども、実際の監督と女優は、映画という「非日常」の場を借りたのちに「別れる」道を選びます。ロッセリーニとバーグマンは、「イタリア旅行」を撮影したのち、正式に離婚しました。また、フェリーニとジュリエッタも、「魂のジュリエッタ」の撮影後、破局します。人間の機微を表現することに長けた監督と女優も、実際の夫婦の日常を積み重ねる中で「ファミリーダンス」を踊っていたのかもしれません。この2本の映画は、そんな生身の人間の葛藤が背後になければ成立しえなかったと思えるぐらい、リアルな日常の描写がそこここにあふれています。

監督と女優という二人の組み合わせは、実生活の葛藤を映画の場で整理して昇華してしまったのかもしれません。独断と偏見の見方をすれば、ファミリーダンスの根源をきちんと見据える作業をした先は、映画では再生というハッピーエンドが用意されているとしても、現実世界では「別離」につながる可能性のほうが高い、とも言える。

実はね、みんなそんなことには心の奥底で気づいているんです。ハタから見たら「なぜ別れないのだろう」と思えるような不毛なダンスを踊り続ける二人は、本当はお互いを必要としている。だから、やがてダンスをやめても生きていける準備が整うまでは、ファミリーダンスの舞踏会は続くわけです。

 監督と女優の関係については、また語りたい別の映画があるので、また今度(いつだよ)。

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